びっくらこいた

退職してしばらく日が経った。

無職とかニートとかは既に経験済みだったが、「金の心配から前に比べると大分解放された状態で」無職になるのは初めてかもしれない。

つまり、時間と金という2大自由構成要素が揃ってるわけだ(といっても知れてるが)。

そういう時には思考も変わる部分もある。というか、大学時代の時間に余裕があった時期に戻ってる部分もある。

 

この間のブログ↓

nobunaga0101.hatenablog.com

 

で文句言いまくってたような人々、宮台とか苫米地とか、そういうのんをやっぱり面白いと思うようになった。でも前と変わったのは彼らの欺瞞的な面も認めたということかな。というか、彼らだって人間なんだから、ズルい面が無いわけがないのです。勝手に信奉に近い感覚で彼らを見ていた自分、過度に信奉してしまうという弱さを抱えた自分にも改善の余地あり。しかし、そういう弱さに敢えてつけ込んでる部分もあると直感したので、そこを「ズルい」というわけです。

 

まあそういうわけで、久々に宮台の喋ってる動画を見てたら、自分が宮台から離れていた時に考えていたことに非常に近いことが語られていてビックラこいた。

 

自分の記事を「受動性」というキーワードで検索すると、自分がどれだけ受動性について書いてきたかが分かる。そして、端的に言うと、「受動的主体(性)という生き方が自分にとって自然なのではないか」というこんがらがった結論に達したわけだが、この「受動的主体」というのが、↓の動画で語られている「他律的自立(受動的能動)」に非常に似通っていると感じた。

 

www.youtube.com

 

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そして、これが「受動的主体」関連の自分の記事の一部(いっぱいあるので一部だけ)↓。

nobunaga0101.hatenablog.com

 

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まあ、主に一個目と二個目か。

宮台の「他律的自立(受動的能動)」

僕の「受動的主体(性)」

ほぼ一緒だと思う。感覚的には全く同じものとして捉えている。

「受動的主体(性)」というこの結論的概念、これは本当に生きている中での実感から自分なりに導き出した概念で、おこがましくも「これは俺のオリジナルだ―」みたいなこともどっかに書いてたと思う。でも、これは概念自体が新奇なものなのではないと思う(多分「荘子」や良寛の考えに近いものは出てくる)。でも、明確な言語として登場していなかったように思う。また、概念自体が新奇なものなのではなくても、アプローチの仕方は僕なりのものだった。

言葉遊び的なものではなく、本当に生きている中から大きな視点で、かつ地から足を離さずに導き出した、実感と実践性を伴った概念だと思ったから、この「受動的主体(性)」という結論に達したときに、というより、これを言語化・概念化できたときに、気分が高揚したのだ。といっても、まだまだ言葉足らずだが、まあ書くのが骨が折れる。まあ僕の頭の中には残ってるからそれでいいか、という感じ。

 

まあ↑の僕の記事で結構書いてるし記録しなくてもいいか。

 

この動画で他にも驚いたのは、こういうことを主題としている映画などの作品が、最近陸続しているということだ(宮台によれば)。

更に、動画でも出ているが『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本、國分功一郎さんという哲学者に書かれた本だが、この本の言う「中動態」というのも、宮台の言う「他律的自立(受動的能動)」と同じものらしい。つまり、僕の「受動的主体(性)」と同じだということだ。

このように同時多発的にこの概念が持ち上げられるようになっているというのは、オカルティックに言うと、何かがシンクロしているようにも思う。でも、多分、後になってみると、例えば100年後とかにはオカルトでもなんでもなくて、「こういう因果関係でこうなっただけだよねー」と言われるものかもしれない。科学とかってそういうもんだよな。

もっと科学的に近づけて言うと集合的無意識とかか。これでも十分オカルトなのかな。でもこの概念は「アーキタイプ」とかにも関わってくるし、実際こういうシンクロは歴史上何回も起こってるからなー。何の関わりもない地域なのに、同時多発的に何かが起きたり。なぜかあらゆる民族の根源に特定の「型」があったり。アーキタイプだな。

 

ちなみに宮台の「受動的能動」と僕の「受動的主体(性)」って、ネーミングからしてほとんど似てる。僕は能動という言葉と区別するために「主体」という言葉を使った。能動ってなんか暑苦しくて、そういうイメージとは違うからね。

でも、この言葉の類似を観た時にまず、「えっ!」ってなったな。そして、内容を知るにつれて更に「えっ!」「えっ!」「えっ!」ってなった。それに國分功一郎さんも「中動態」って言ってたりして。自分と同時期に示し合わせたようにこんなマニアックなことを考えてたなんて、そりゃ驚きますよ。ちなみに國分功一郎のこの本『中動態の世界 意志と責任の考古学』はかなり売れてるそうです。僕も府立図書館に行ったけど、何と予約十何人待ちとか。借りるの待ってたら何年先になるか。さすがに買うしかない。ちなみに、今は彼の「暇と退屈の倫理学」読んでるがめちゃくちゃおもしろい。これもこの記事で述べたようなこととかなり関わってる。

かなり人気ってことです。みんなこういうことに興味を持ち始めてるのかな。それこそシンクロしてるみたいだ。

 

まあこの動画とか「受動的能動」とか「受動的主体(性)」とか「中動態」とか見てると、時間感覚とも深く関わってそうで、「時間の比較社会学」とかとも関わってそうだな。後は動画でも言ってるけど東浩紀の「観光客」という概念とも(自慢じゃないが、この動画を観るちょっと前に既に目を付けて本も読んでた)。既読の「弱いつながり」は良かった(検索ワード変更のための身体移動の必要性とか)。しかも自分の今の時期ともシンクロしてる。色々な条件が重なって、自分にとっては旅に出るにはもってこいの時期なのだ。まあ東の言う「観光」から始めようと思う。初めは低いハードルで国内の方がいいかなあ。そして徐々に「旅」的なものにしていく。だから、東の「ゲンロン0 観光客の哲学」も読む(こちらも図書館の予約数膨大。買うしかないか・・・)。ちょっと前に出版って、何か示し合わせたようだな。最近こういうことが多すぎるなあ。

 

ということで、今自分がやることは、休暇を楽しみつつ「中動態の世界 意志と責任の考古学」「ゲンロン0 観光客の哲学」を読み(「暇と退屈の倫理学」や既読の「弱いつながり」も)、↑の動画で紹介されてるような映画も楽しみ、まあ似たような内容を扱った動画もちょっと見たりしつつ、「観光客」になる準備、つまり「観光」や「旅」の準備をする。って感じかな。

すぐに動きたいけど、退職後の手続きに必要な書類が2週間後待たないと手に入らなかったり。まあその間に友人に会いに行こう。

 

・・・といいつつ、すぐに気が変わったりして(笑)まあ状況も変わるから仕方ないけど、今回は結構強く「観光」「旅」をしたいと思ってる。いわゆるダークツーリズムというのも視野に入れつつ。

 

うん、何かワクワクしてきた。

自分探しでもなく、自分を変えるのでもなく、検索ワードと自分の欲望の変化を発見したい。