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受容性

今まで受動性という言葉で記してきたが、受容性という言葉に置き換えても良いように思う。

何でも受け入れる。この一言に尽きるのだが、何でも受け入れるというこの言葉が、この言葉だけだと、読み返す時に非常に勘違いしやすいので、長々とした説明記録が必要だ。

 

もちろん、僕の言う受容性も、一般的に言うそれとはかなり違う。受容性というと、なんでも受け入れてくれる優しいイメージ、って思うかもしれないけど、そうでもない。

というか、それは、一般的にいう受容性のイメージの方が間違っている。受容という言葉の本義、もしくは「何でも受け入れる」という言葉の本義に立ち返ると、全然違う。だって、何でも受け入れるって言ったときに、既に、何でも受け入れないような性質・排除性などを、それこそ「受容して」いない(排除的)のだから。だから、これも言語的には矛盾というか無限回廊にならざるを得ない。でも、人々は、この言葉の上澄みだけを見て、自分の都合の良い解釈をする。まあ精神が揺らいでしまう間は、そのことを否定はしないけど。

このようなことを含めて把握しない限り、やはり一般的に言う「受容性」とか「何でも受け入れる」という言葉・イメージにも、バイアス、もっと言えば洗脳が潜んでいる。まあ、これは、どの言葉でもそうだし、人間に対する洗脳が、どれだけ深いところまで達してしまっているか、ということも示す。

 

これらの言葉の説明は、基本的に、今までさんざん書いてきた無限回廊的な説明になるので省く。自分の頭の中では、もうこの思考方向には慣れてきた。

 

とにかく、特に僕のような人間は、どれだけ洗脳されてきたことか。いや、気づいてるだけマシか。ほとんどは、気づきすらしない。なんか傲慢な物言いになっちゃってるけど、まあ気にしないでおこう。本質を見失わないように必死で、そんなこと気にしてる余裕はない。

 

これも無限回廊だから記録は省くが、あらゆる洗脳が洗脳であり、洗脳でない、というか洗脳を洗脳のまま洗脳でなくすことができる。

 

これを実践するのに、とにかく受容する、という方向があるが、まだまだ深い洗脳状態に陥っている僕には、荒療治として、他の方法も併用するといいかも。

つまり、自分や自分の行動、考え方、感情などを否定するような全ての情報を逆に無限回廊的に否定し返す、という方法だ。人の言うことなんて完全に無視していいのだ(しかしそれは無限回廊的に無視ではないのだ)、と以前の記事で書いたが、これと関連する。色んな本とかで受容性の大事さが語られているが、このような方法はお目にかかったことが無い。だから、これは自分で思いついたというか、降ってきた方法だが、かなり効果のあるというか、本質に働きかける方法というか作法だという、結構深い確信がある。

 

空手などの武道で言う「型」。最終目標は型からも抜け出すことだけど、そのためには一度型を徹底することを通過しなければならない。不自由を経由しての自由。まあ上記の洗脳の場合、徹底まではいかなくていいかもだけど。

上記の場合も、受容に至るために非受容(否定)を経由する、という感じ。こういう矛盾や無限回廊があるから記録が煩瑣になるんだよな。

 

自分や自分の行動、考え方、感情などを否定する情報を何でもかんでも否定する。否定しつくす。外部からのあらゆる情報を否定する。否定の炎で焼き尽くす。これは、外部からの洗脳情報を跳ね返す、ということだ。ただ、否定すると言っても、これも無限回廊ね(否定に肯定が内包される)。その意味で、ことごとく矛盾的に無限回廊的に洗脳を跳ね返す。

また、行動、考え方、感情の中で、特に重視すべきは「感情」だ(これも無限回廊ね)。感情が、もっとも自分に影響を及ぼすもの、深い所のもの、純粋なもの、洗脳を受けていないもの、だからだ。次に考え方、行動、とくる。まあ結局全部だけど、とにかく自分に反するものを全て否定する。そして驚くべきことに、そこを通って逆説的に、本当の意味での受容に至ることができる(と思う)。

 

このことに気付くまでに、何と時間がかかっただろうか。そして、この視点から過去の自分を振り返ると、何と不自由だっただろうか。傍から見れば過去の自分の方が自由に見えるかもしれないけど。メタだからね。

 

 

ふう、結局、「とにかく自分を否定するものを悉く否定する」という作法、文章一行を記録しておきたかっただけなのに、なんと多くの説明記録が必要なことか。

よく、物事はシンプルだと言われるが、それは見かけ上の話で、裏ではとんでもなく複雑怪奇なものが潜んでいる。この世界についても、シンプルに単純に見たがる人が多いと思う。その方が楽だし、精神的にも安定するからね。でもその基盤が崩れた時どうすんだろ。これまでもそうだっただろうが、特にこれからの時代は、個々がどこまで考えを突き詰め、自分のオリジナルの強固な基盤を作ったかが試される時代なのに。あらゆる常識、あらゆる寄る辺、あらゆる基盤が崩れていくのだから。世界は全然シンプルじゃない。複雑怪奇のカオスです。

 

ところで、言葉とは、物事を固定する作用がある。だけど、世界というものは常に揺らぎ変化している。世界を記述するのに言葉を使う、ということに、そもそも無理があるのだ。でも他に有力な方法がないから、仕方なく使っているのだ。だから正確な言語記述は無限回廊にならざるを得ない。

しかも、数学で言うと、割り算で、同じ数字がずーっと続くというのがありますね。5.164164164164164164・・・というふうに。これならまだ言語化できてマシなのだが、無限回廊は円周率なんだ。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・と、ランダムで、つまりカオスなんだ。

 

世界構造もこれと似ている。だから概念言語的には無限回廊という言葉で表現するしかない。

つまり、

(複雑怪奇な)世界構造←→3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・

無限回廊」という概念←→「円周率」という概念

数学言語←→言語

という感じの対応関係。

 

ところで、こういう思想は、仏教や特に空観、中観やデリダ脱構築と、非常に親和性が高いだろう。やはり、個々の人がそれぞれ、本当に惹かれるというか吸い寄せられるものというのは、意味があるんだな。

 

やはり、fate/zeroのあの言葉が思い浮かぶ。

自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?