好きなもの

ワンパンマン好きだわー。

読者にとっても天才的で苦労知らずで自信に溢れ少し傲っていたスイリュー。初めての挫折と恐怖による支配。完全に追い詰められ赤子のように泣きじゃくる。読者もこれにショックを受ける。

そこに現れるヒーロー。115話のこのシーン好きだわー。

まあここだけ観ても良さは伝わらないかもだけど。スイリューの天才と余裕ぶりを知ってないとね。ここまで追いつめられるという落差を知ってないと。

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116話もいいね↓

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ハンターハンターのクロロvsヒソカも最高だなあ。

HUNTER×HUNTER 34巻 -漫画村 -まんがまとめ・無料コミック漫画・ネタバレ-

 

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あと、モデルのemmaちゃんかわいいしかっこいい。普段はナチュラルなのに。このギャップルール。

 

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びっくらこいた

退職してしばらく日が経った。

無職とかニートとかは既に経験済みだったが、「金の心配から前に比べると大分解放された状態で」無職になるのは初めてかもしれない。

つまり、時間と金という2大自由構成要素が揃ってるわけだ(といっても知れてるが)。

そういう時には思考も変わる部分もある。というか、大学時代の時間に余裕があった時期に戻ってる部分もある。

 

この間のブログ↓

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で文句言いまくってたような人々、宮台とか苫米地とか、そういうのんをやっぱり面白いと思うようになった。でも前と変わったのは彼らの欺瞞的な面も認めたということかな。というか、彼らだって人間なんだから、ズルい面が無いわけがないのです。勝手に信奉に近い感覚で彼らを見ていた自分、過度に信奉してしまうという弱さを抱えた自分にも改善の余地あり。しかし、そういう弱さに敢えてつけ込んでる部分もあると直感したので、そこを「ズルい」というわけです。

 

まあそういうわけで、久々に宮台の喋ってる動画を見てたら、自分が宮台から離れていた時に考えていたことに非常に近いことが語られていてビックラこいた。

 

自分の記事を「受動性」というキーワードで検索すると、自分がどれだけ受動性について書いてきたかが分かる。そして、端的に言うと、「受動的主体(性)という生き方が自分にとって自然なのではないか」というこんがらがった結論に達したわけだが、この「受動的主体」というのが、↓の動画で語られている「他律的自立(受動的能動)」に非常に似通っていると感じた。

 

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そして、これが「受動的主体」関連の自分の記事の一部(いっぱいあるので一部だけ)↓。

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まあ、主に一個目と二個目か。

宮台の「他律的自立(受動的能動)」

僕の「受動的主体(性)」

ほぼ一緒だと思う。感覚的には全く同じものとして捉えている。

「受動的主体(性)」というこの結論的概念、これは本当に生きている中での実感から自分なりに導き出した概念で、おこがましくも「これは俺のオリジナルだ―」みたいなこともどっかに書いてたと思う。でも、これは概念自体が新奇なものなのではないと思う(多分「荘子」や良寛の考えに近いものは出てくる)。でも、明確な言語として登場していなかったように思う。また、概念自体が新奇なものなのではなくても、アプローチの仕方は僕なりのものだった。

言葉遊び的なものではなく、本当に生きている中から大きな視点で、かつ地から足を離さずに導き出した、実感と実践性を伴った概念だと思ったから、この「受動的主体(性)」という結論に達したときに、というより、これを言語化・概念化できたときに、気分が高揚したのだ。といっても、まだまだ言葉足らずだが、まあ書くのが骨が折れる。まあ僕の頭の中には残ってるからそれでいいか、という感じ。

 

まあ↑の僕の記事で結構書いてるし記録しなくてもいいか。

 

この動画で他にも驚いたのは、こういうことを主題としている映画などの作品が、最近陸続しているということだ(宮台によれば)。

更に、動画でも出ているが『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本、國分功一郎さんという哲学者に書かれた本だが、この本の言う「中動態」というのも、宮台の言う「他律的自立(受動的能動)」と同じものらしい。つまり、僕の「受動的主体(性)」と同じだということだ。

このように同時多発的にこの概念が持ち上げられるようになっているというのは、オカルティックに言うと、何かがシンクロしているようにも思う。でも、多分、後になってみると、例えば100年後とかにはオカルトでもなんでもなくて、「こういう因果関係でこうなっただけだよねー」と言われるものかもしれない。科学とかってそういうもんだよな。

もっと科学的に近づけて言うと集合的無意識とかか。これでも十分オカルトなのかな。でもこの概念は「アーキタイプ」とかにも関わってくるし、実際こういうシンクロは歴史上何回も起こってるからなー。何の関わりもない地域なのに、同時多発的に何かが起きたり。なぜかあらゆる民族の根源に特定の「型」があったり。アーキタイプだな。

 

ちなみに宮台の「受動的能動」と僕の「受動的主体(性)」って、ネーミングからしてほとんど似てる。僕は能動という言葉と区別するために「主体」という言葉を使った。能動ってなんか暑苦しくて、そういうイメージとは違うからね。

でも、この言葉の類似を観た時にまず、「えっ!」ってなったな。そして、内容を知るにつれて更に「えっ!」「えっ!」「えっ!」ってなった。それに國分功一郎さんも「中動態」って言ってたりして。自分と同時期に示し合わせたようにこんなマニアックなことを考えてたなんて、そりゃ驚きますよ。ちなみに國分功一郎のこの本『中動態の世界 意志と責任の考古学』はかなり売れてるそうです。僕も府立図書館に行ったけど、何と予約十何人待ちとか。借りるの待ってたら何年先になるか。さすがに買うしかない。ちなみに、今は彼の「暇と退屈の倫理学」読んでるがめちゃくちゃおもしろい。これもこの記事で述べたようなこととかなり関わってる。

かなり人気ってことです。みんなこういうことに興味を持ち始めてるのかな。それこそシンクロしてるみたいだ。

 

まあこの動画とか「受動的能動」とか「受動的主体(性)」とか「中動態」とか見てると、時間感覚とも深く関わってそうで、「時間の比較社会学」とかとも関わってそうだな。後は動画でも言ってるけど東浩紀の「観光客」という概念とも(自慢じゃないが、この動画を観るちょっと前に既に目を付けて本も読んでた)。既読の「弱いつながり」は良かった(検索ワード変更のための身体移動の必要性とか)。しかも自分の今の時期ともシンクロしてる。色々な条件が重なって、自分にとっては旅に出るにはもってこいの時期なのだ。まあ東の言う「観光」から始めようと思う。初めは低いハードルで国内の方がいいかなあ。そして徐々に「旅」的なものにしていく。だから、東の「ゲンロン0 観光客の哲学」も読む(こちらも図書館の予約数膨大。買うしかないか・・・)。ちょっと前に出版って、何か示し合わせたようだな。最近こういうことが多すぎるなあ。

 

ということで、今自分がやることは、休暇を楽しみつつ「中動態の世界 意志と責任の考古学」「ゲンロン0 観光客の哲学」を読み(「暇と退屈の倫理学」や既読の「弱いつながり」も)、↑の動画で紹介されてるような映画も楽しみ、まあ似たような内容を扱った動画もちょっと見たりしつつ、「観光客」になる準備、つまり「観光」や「旅」の準備をする。って感じかな。

すぐに動きたいけど、退職後の手続きに必要な書類が2週間後待たないと手に入らなかったり。まあその間に友人に会いに行こう。

 

・・・といいつつ、すぐに気が変わったりして(笑)まあ状況も変わるから仕方ないけど、今回は結構強く「観光」「旅」をしたいと思ってる。いわゆるダークツーリズムというのも視野に入れつつ。

 

うん、何かワクワクしてきた。

自分探しでもなく、自分を変えるのでもなく、検索ワードと自分の欲望の変化を発見したい。

強みと弱みは表裏一体②

更に「働くことがイヤな人のための本」より

期末テストの一点に、学力試験の席次に、通知表の成績にくよくよすることは、たしかに醜いよ。生きるうえでは弱点だよ。とても生きにくいからね。みんなから厭がられるからね。しかし、私はいまとなって悟ったんだ。みんなこぞって「こだわるな」と忠告してくれたが、このせせこましい醜いこだわりこそ自分の宝ではないかと次第に思いはじめたんだ。

きみの中のこうした弱点をよく見据えることだよ。まだ若いときはわからないかもしれない。しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。

何事にも決断がつかないこと、真剣に戦う前に戦場から退散してしまうこと、こうした弱腰こそかえってきみ自身を鍛える指針になると信じるんだ。自分でも厭になるほどの実力不相応のプライド、うんざりするほどの自己愛と他人蔑視、それと奇妙に両立するはなはだしい自己嫌悪、こうしたことを引きこもっている者は多かれ少なかれ所有していると思う。それらこそ、君を導く羅針盤なんだ。まさにそれらがきみを鍛えてくれ、数々の仕事を準備してくれるんだよ。

・・・

大学教授になるとか、作家になるという目標は、それがかなえられなければ失敗したことになる。それに精魂を傾ければ傾けただけ、悲惨な結果だよね。だが、きみがきみのすべての弱点をそのまま背負ってできる固有のよい生き方を目標にするかぎり、失敗はない。・・・

 

 「しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。」

これは、自分の人生に照らし合わせても本当にそうだと思う。いっぱいあるのでわざわざ例は挙げないけれども。「強みと弱みは表裏一体」の記事で出した例はそうだね。

 

まあ直近の小さな例だけ挙げようか。

僕は人との距離の取り方が分からなくなることがある。というか人の話を聞いていないことも多い。訓練によってかなり改善したが、昔からそうだった。それに、忘れ物、置き忘れ、などが異常に多い。小学生の時の通信簿18クール全てにおいて「人の話を聞けない」「忘れ物が多い」と評されたくらいだ。今から考えると完全に発達障害の症状だった。これらはすべて、現実世界への意識の低さが原因の一つだと思う。

 

しかし、確かにそれらが僕を救ってくれている面もあるのだ。

距離の取り方が分からず忘れ物が多い、これらの特性はしばしば天然と評され、人々の笑いを誘う。それが良い方向へ進むことは多い。先日友人宅へ泊まり込み、数人で遠出もした。遠くの滝を見に行ったり、鳥取砂丘まで見に行った。集団生活が苦手な僕が長時間人と共に過ごすわけだが、天然な特性がプラスに働いた場面は数知れない。まあ彼らとは付き合いが長いので、お互いの特性をかなりよく理解していることも大きいが。非常に楽しく過ごせた。

 

現実への意識の低さは、現実の厳しさから自分を守る事にもなる。 

人の話を聞かないから余計な情報が入ってこない。これは、人並みの人生を歩まなければならないというプレッシャー(洗脳)を軽減する。ある意味、普通の人生行路から外れてしまうという弱みだ。しかし、それが長期的に見て適切な選択を導くことも多いと思う。

例えば、皆結婚したいと言うが、今のこの時代にホントに満足のいく結婚なんかできると思いますか?なかなか難しいでしょう。僕は現実認識(結婚するのが当たり前という認識)の低さによって、このような洗脳やプレッシャーから比較的解放されているので、結構冷静な判断ができる。その方がまだ結婚に成功する確率が高いんじゃないかな。それに、結婚の失敗はかなり地獄です。それなら独り身の方が絶対マシだと思う。

また、学校に行くのが当たり前、というのもそう。僕の無意識が「学校行かなくても大丈夫」と判断した。で、5年間プラプラしながら、ゲームで英語力を鍛えていた。ほとんど何も努力してない。でも、結局最終的にいい大学に入れてる。これも、「学校に行かなきゃならない。受験を勝ち抜きいい大学にはいらなきゃならない。」という洗脳やプレッシャーがあっては歩めない航路だ。僕の母親はものすごい教育ママだったが、現実認識の低さで乗り切れた部分も多いのだ。

就職についても、尋常じゃないくらい手を抜いていたが、結局いいところに就職できた。はっきり言って、僕だから続かないのであって、普通の人からしたら超絶ホワイト企業ですよ。休み異常に多いし、僕の場合更に休みまくってたわけだが、その割には給料も結構いい。これも、「就活頑張らなきゃ!いいところに就職しなきゃ!」というプレッシャーや洗脳が少なかったから冷静な判断・冷静な面接対応ができたことなどが大きい(面接がうまくいったので孫会社から子会社に引き抜かれ、その子会社が親会社とほぼ同じ待遇だった(ほとんどが親会社の社員)。むしろ成績のいい、かつ最古参の部署なので、保護されており、親会社より給料がいいことすらある。学閥でのパーティがあったが、新卒社員の僕の部署への配属希望者がどれだけ多かったことか)。

そもそも、これから40年以上(僕らが年を取った時代にはもっと長いですよ)一つの会社で働くなんて息苦しい事がホントにできると思いますか?それができた後には相当つまらない人間になってると思うけどなあ。それに、一つ目の就職先がいきなり自分にピッタリであるなんてことが早々起こるわけないと思いませんか?20代の自己分析なんてほとんど当てにならないんですよ。なら、一つ目の会社は結構適当に選んでも大丈夫なんです。新卒切符を使って待遇がいいところを選べばいいんです。むしろその方が、自分の先入観から解放されて、今回僕がしたような発見もできるかもしれない。しかも、これから10年20年と経つと、社会も激変していますよ。ハイパーインフレで、貯金なんて吹っ飛ぶかもしれない(金(ゴールド)に変えたりしてたら別だが)。現在のうすっぺらい価値観にしがみついていてもしょうがない。もっと普遍的な価値観にしがみついた方が良い。更に言えば、その洗脳を、適した洗脳を、その都度選べればいい。結局、好きなように色んなことに挑戦し、自分の特性に合ったことをできればその方が最終的に得をする確率が高いんじゃないかな。僕の特性が、こういう大局的な見方を可能にしたように思う。でも世の中は電通自殺事件に代表されるような価値観に染まっている。歯を食いしばって苦手な仕事にも取り組むべきだ、自殺しても、みたいな。僕ですら染まりかけた。ここでも、本来弱点であるはずの僕の特性が、その歯止めとなった。

 

何か気づいたらいろんな例を挙げてた。このほかにも枚挙に暇がない。

この、弱みと強みの表裏一体性という意味では、映画「チェンジリング」の宮台の評論を思い出す。

http://www.miyadai.com/index.php/index.php?itemid=734

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。

 

以下引用

■以降、このモチーフが繰り返し反復される。感動の再会であるはずが息子の替玉をあてがわれた際も、激昂するでもなく、手を口にあてて息をのんだまま、警察の要請通り、記者のカメラの前で「感動の再会」のポーズをとってしまう。ここにも極端な「遅れ」があろう。
■替玉であることを訴える母親と、それを無視する「悪役」ジョーンズ警部との、やりとりにも「遅れ」がある。母親は警部の高速のリプライにまったくついて行けていない。たぶん聞こえていない。だから「あなた方には息子を捜す責任がある」と返すのが、やっとなのだ。
■この映画をよく観てほしい。「母の強さ」に視えるものも、「権力を恐れぬ意志」に視えるものも、すべてはこの「遅れ」に由来している。そう。この「遅れ」ゆえに、比喩的にいえば、「普通の人には命中してしまうはずの弾丸が、クリスティンには当たらない」のだ。

・・・

喜怒哀楽の反応が人よりも「遅れ」るアンジェリーナ・ジョリーの演技──いわば受動性の演技──は、この南軍兵士を髣髴させるものがある。二人は共通して、離人症的ないし幽体離脱的な疎隔(による〈システム〉からの脱落)を、実にみごとに演じきっているだろう。
■疎隔による〈システム〉からの脱落が、脱落した者に死をもたらすこともあれば(『白い肌の異常な夜』)、脱落させた〈システム〉に死を宣告することもある(『チェンジリング』)。後者にだけ注目すると、イーストウッドは「社会派」の面目躍如ということになる。

・・・

■単なる「世の摂理」(としての「人の原罪」)をディスクリプト(記述)するのみならず、彼の映画には極めて珍しく、世を相涉るための知恵として「遅れ」をプレスクリプト(処方)している。人によっては違和感を感じるかも知れないが、私はこの処方箋に連なりたい。
■全てにおいて映し出された「遅れ」が、単なる役作りを越えて、〈システム〉に対する根本的な違和として生き続けるための処方箋となることで、〈システム〉は人を裏切るというイーストウッドの右翼的確信を補完している。これが彼の設計によるのか否か分からない。

・・・

私が「遅れ」のプレスクリプションに敏感なのは、私自身の感覚がいつも「遅れ」るからである。この「遅れ」はそもそも3月生まれで発達が遅れ気味だった上に、小学校のときに六回も転校して周囲から疎隔された感覚を味わう経験が積み重なったせいかもしれない。
周囲が冗談を言いあって笑い声をあげても、私がその中に入ることはできなかった。集団行動でアレをしましょうコレをしましょうと言われても、私は何を言われているのかよく分からなかった。私がヤクザの子供たちに庇護われる存在だったことも、それに輪をかけた。
世間の「いい」「悪い」の道徳的判断にうまくついていけなかったのだ。道徳的通念についていけずに「遅れ」をとる私の存在形式は、世間的に処断される援交女子高生をフィールドワークしたりオウム信者を取材する際に、ある種のアドバンテージとして働くことになる。
口に手を当てたまま佇んでしまう母親クリティン・コリンズの、誰の目にも焼き付けられてしまう印象的な所作が、単なる受動的なパーソナリティの表現であることを越えて、ソツなく回る〈システム〉を逆に凍りつかせるための戦略として機能していることは間違いない。

・・・

〈システム〉にはコンピュータと同じように作動クロックがある。人々の反応速度が作動クロックにシンクロしたものである限りにおいて〈システム〉は円滑に回転する。そこに、シンクロしない人間が現れて周囲を巻き込みはじめれば、〈システム〉は確実に阻害される。
今回の作品はそれを推奨しているように受け取れる。私もそう書いてきた。だがイーストウッド作品のいいところは両義性を正直に提示するところにある。どのみち人を裏切る〈システム〉を阻害するべく「遅れ」よ! だがそうした推奨も所詮はイデオロギーにすぎない。
イーストウッド作品では、観念で戦う人は疑念のまなざしでしかみられない。クリスティン・コリンズが警察相手に戦ったのは、観念によるのでも、ましてイデオロギーによるのでもない。「遅れ」る女が、関係性への執着から、歴史に名を残す存在になったにすぎない。

 

まあ、「遅れ」(僕の現実認識の低さと似る)という弱みが強みとなり、それがやはり弱みともなる、という映画です。

 

こういうのを見るにつけ、やはり人生は面白いなあ、と思う。

決して見通せない、張り巡らされた糸の目。死ぬまで結果が分からないあみだくじ。世界の未規定性。

湊かなえ

湊かなえ原作のドラマ「リバース」。おもしろかった。

映画「告白」「白ゆき姫殺人事件」も。「贖罪」も。今は「Nのために」を見ている。

 

彼女は最初に物語に対するメタ的視点を持っている。そこから小さな個々の視点を考えていく。僕の感覚との親和性を感じる。

読者または視聴者には逆の道を歩ませる。まずは小さな個々の視点を示していく。だんだんとメタ的視点、物語の全容が浮かび上がってくる。

 

群像劇がうまい。個々の多くの視点的な群像劇を見せることによって世界の全容を浮かび上がらせる。<世界>を見せる。

 

 

世界のカラクリ

圧倒的な知識(「小さな知識」であるリベラルアーツと「大きな知識」)によって、世界のカラクリを知る。

それによって世界に何が必要なのか、自分が何を成すべきかが分かる。

分かればいいなあ。。。

 

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強みと弱みは表裏一体

有休を使い果たし、休職期間に入った。

猶予期間は残り日ほど。これまでに復帰しなければ自然退職となる。

ほぼ間違いなくそうなる。もう戻りたくない気持ちが凄い。よっぽどの心理変化が起きない限り、退職になるだろう。

 

でも、会社勤めをして良かった点もあった。

一つは、自分の特性の一面を理解できたことだ。

仕事というものは、容赦のない他者からの評価に晒される世界だ。良い上司に当たれば、仕事の評価、どこが良くてどこが駄目だったかを的確に指摘してくれる。

はっきり言って直属の上司はそのあたりの見極めが下手だった。部下への仕事の采配が下手。僕の苦手な仕事、主に事務処理能力を求められる仕事だが、そういう仕事を僕に割り振り、結果、グループ全体の生産性が落ちたように思う。

僕の弱みは事務処理能力の低さに加え「当事者意識の低さ」だ。

これをはっきり指摘してくれたのは直属の上司ではなく、たまたま数か月前にこっちに赴任した人だった。人事・総務に20年以上関わってきた人。人事経験から人を見る目があるし(人事でも全く人を見る目が無い人もいるけど)総務経験から会社全体のことを把握している(総務は雑用的な仕事も多いが)。

「当事者意識の低さ」。これは明らかに弱みだ。「自分がこの仕事を進めていく」という意識が低いのだ。何となくポワ~ンとしていて、どこか目の前の仕事への意識が低い。それが事務処理能力の低さ、具体的にはミスや納期の遅れの原因にもなっていたと思う。

個々で僕は、中島義道の本「孤独について」で読んだ内容を思い出した。

これまでの人生を振り返って、自分の真の適性を見いだすこと。そして、それがわずかでも見えてきた人は、それを力あるものに鍛えることである。孤独を求める人には、それしか生きる道はない。だから、真剣に求めるべきである。どんなに迷い続けても求めるべきである。

その場合、自分が何に躓くかをよく見ることが必要であろう。みんなが造作なくできることに自分ひとり躓くことがある。そして、そこに自分の適性へのヒントを読みとることを私は学んだ。私がどうしても給食の肉を食べられないことのうちに適性のヒントはある。(今なお)ボールが転がってくると恐怖に襲われることのうちに適性のヒントはある。私が小便をこらえ続けたことのうちに適性のヒントはある。つまり、私の不適正のうちにこそ私の適性のヒントはあるのだ。

あなたが、思い出すのも鳥肌が立つほどの辛い体験があるとしたら、自分の最大の欠点を自覚しているとしたら、目をそむけたくなるほど嫌な自分の一面を知っているとしたら、それから目を逸らさず、それらをとことん観察しなさい。そして、それらを大切に育てなさい。そこにかならず、「固有の自分のもの」へのヒントが見えてくるはずである。あるいは、どんなに努力しても効果のないときにこそ、私はそこにヒントを読みとる。 

 不適正のうちに適性のヒントがある。まさに慧眼。

僕が今回赴任した上司から言われたこともそうだった。

最初は叱られた。仕事に対して「当事者意識が無い」「傍観者的だ」と。

しかし、ある案件について直属の上司に抗議した時、その内容を聞いて陰でこそっと「君が正しい」と言ってくれた。そして後からこう言った。

 

「君が当事者意識に欠けること。仕事に対して傍観者的であることは間違いない。これはかなり多くの場合、仕事において欠陥となるだろう。しかし、今日の君の抗議内容はまぎれもなくど真ん中の正論だった。大局を観ることができていないとあのような反論はできないよ。

当事者意識に欠ける。傍観者的な立ち位置から抜け出すことができない。これらは言い換えれば『第三者的な視点、俯瞰的・鳥瞰的な視点を獲得してしまっている』ということなんだ。世の中に対する視点というものは人によって違うが、君はかなり遠くから世界を見つめているタイプだね。それが君の強みでもあり弱みでもある。弱みはさっき言った通りだけど、もう一つ言うと、君は細かいところに囚われるとダメなんだ。というか、細かい所を見るのが苦手なんだね。だから忘れ物をする、言われたことを忘れる、それどころか右から左に抜けていることもある。事務処理能力が低い。だがそれはさっき言った強みの副作用でもあるんだ。形而下的な事柄が苦手な君は、形而上的、もっと言えばメタ形而上的な視点から世界を眺めるのが得意なんだ。そういった特性は『大局を読むことに長ける』『情報を総合的に精査して大まかな方向性を決めることに長ける』という強みを生み出すんだ。だからあのような反論が可能になったし、直属の上司も反論に窮したというわけだ。」

 

まあかなり言い方は変えているが、だいたい上記のようなことを言われた。そして驚いた。まさしくその通りだと思ったからだ。でも、人から言われるまではこんな簡単な自分の特性にも気づかなかった。

今まで書いてきたこのブログを見ても分かる。僕がどれだけ「メタ視点」「無限回廊的世界観」「抽象度の高い視点」を大事にして、それらの記録に時間と手間を割いてきたことか。まさに「鳥瞰的・俯瞰的視点」だろう。

一方で、日常の些細な事柄について書き記すことは少なかった。そういう細かいことを書くのがめんどくさいのもあるが、そもそもそういった細かい日常的なことを記すことに対する興味が薄いのだ。つまり、おそらくはそういったこと自体にも興味が薄いのだ。あくまで相対的には、という話だが。

 

自分のこのような特性についての気づきは、本当に大きかった。今までのアルバイトにとことん躓いてきたのも合点がいく。発達障害にも合点がいく。プレゼンではうまくいったのも合点がいく。記者を志したことにも合点がいく。形而下的な狭い視点に立つことが苦手であるからできないのだ。そしてそもそもそのような世界観、世界に対する視点に興味が少ないのだ。だから、間違える。興味が無いから集中できない。

 

一方、休職に入る前に与えられた仕事では強みが発揮されたように思う。ホームページの内容を考えることを任されたのだ。社員がワンストップで様々な情報や問題の解決法を知ることができるようなホームページが求められていた。

まず、何が求められているか、その候補を割り出すために、あらゆる自社関係のホームページの情報を大雑把に洗った。その量は膨大だった。つまり、「森から入った」のだ。そして、それらのコンテンツから更に重要なものを抽出し、「分類」した。具体的には大まかな分類とリンクの階層をどのようにするかを考えた。仕上げに階層化されたコンテンツをエクセル表という形に落とし込み、補足を加えた報告書で示した。

報告書をもとに会議で更に洗練させていくつもりだったが、その前に会社へ行かなくなり、報告書だけを共有フォルダに残した。「後の細々としたところは皆さんでこの報告書を参考にして考えてください」という意思表示だ。

この報告書を見た途端、直属の上司の対応が変わったように思う。とにかく僕に戻ってこさせようとしているように感じた。烏滸がましい言い方だが、恐らく僕の特性に気づいたのかもしれない。「こいつはある特定の分野(俯瞰的視点が要求される分野)では使える」と思ったのかもしれない。だが、こちらとしては「もうあなたたちと会議などしたくありません」という気持ちだ。こちらとしては、最後に自分の特性を確かめるkとができて良かった。

 

僕は、木からはいるのではなく森からはいるタイプだった。この特性を自覚すれば、仕事だけでなく生活のあらゆる場面で対応が変わってくる。

人にはそれぞれ特性がある。僕も自分のこの特性をできる限り把握し、世界と関わっていきたい。広義の仕事において特に、この特性を発揮できればと思う。

 

とりあえずワーホリでも行ってみようかな。30歳までだし。それかすぐに就職先を探すか。色んなことをやってみるか。

さてさて、どうなるか。

というか、何度もブログで使ってきたこの言い方がすでに「傍観者的・第三者的」つまり「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」だよな。普通は「さてさて、どうるか」だろう。

言葉一つとっても特性がよく分かる。自分の人生に対してすら「傍観者的・第三者的」「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」なのだ。

自己分析すると、まず、先天的に僕はこういう特性を持っていた。いつもボーっとしていて、空想に浸っていたり、現実に対する意識が低い。運動会でもボーっとしていて、走る方向を間違える(皆と逆向きに走る)。ボーっとしながらふらっと教室を抜け出して一人で遊んでいる。今はもうしてないが、絵を描いた。ノート上でゲームを作って友達を遊ばせた。長編小説を書いた。漫画を作った。進路についてもボーっと決める。ボーっとしながら何となく高校を中退する。現実に目がいかない。先天的にそういう「性質」なのだ。

更にこの特性は子供の頃に(つまり後天的に)拍車がかかる。上記のような性質は異物扱いされることも多かったので、いじめもあった。かなり強烈な。家でもひどい状況。非常につらい状態だった。そういう時、離人症的な感覚によって自分を守ってきた。心理学ではスプリッティング(分離)とも言うようだが、自分の苦しみと自分の本体(というか視点)を分離するのだ。自分が苦しんでいるのに、赤の他人が苦しんでいて、本体である自分は俯瞰した視点からそんな自分(他人)を見つめているという感覚。

先天的にも後天的にも、こういった感覚が強い。僕が仏教に異様に興味を示したのも、こういう感覚が似ているからだろう。

僕が好む著者も似たような感覚の持ち主が多い。

このような感覚の引用がどれだけ多いか。

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↑この記事全体もそうだけど、瀬戸内寂聴の引用↓とか

遁世の閑居の孤独に耐えかねた心情が歌になって昇華されてしまうとき、西行の孤独は既に客観化され、孤独から抜け出しているのです。

西行にとっては、仏道や自然以上に、歌が孤独を慰める何よりの友となっていたわけです。

 

私たちが日ごろ孤独をそれほど切実に感じないで、のんきに暮らしていけるのは、孤独が怖いから、つとめてそれを見て見ぬふりをして、ごまかしているからです。 

・・・

嵯峨野で・・・虫の音が次第に数を減らし、ふっと気が付いたら一声もしなくなっているのに気が付きます。

そんな時、この嵯峨野の一隅の庵の中でたった一人いる自分の姿を、幽体離脱者の目で眺める自分の、もう一つの目を感じることがあります。その目から見たら、この私の姿はひどく孤独で寂しそうに見えるだろうなと思います。 

 苫米地の引用もまあこう言う感覚と近いとも言える↓

・・・孤独というのは主観的な発想だということです。・・・西洋的個人主義が礎にあるから、自分を中心にして考えられているのです。この世に本当に孤独な人なんているのでしょうか。みんな誰かと関係して生きているはずです。

・・・

六十六億人(2015年当時)も地球上に人がいるのに、なぜ自分が孤独だと思うのでしょうか。つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 

宮台の引用もど真ん中ですね。↓

・・・景色の中には自分も含まれているんですね。景色を見る時は、景色の中の自分も見ます。つまり景色の中にいる自分とは別に、それを眺める<自分>がいる。自分が景色の中を旅する車だとすると、それとは別に車を運転する<自分>がいる。

・・・

自分を乗りにくい車に喩えるんです。その上で、運転される自分と運転する<自分>を分けてみます。そして、運転する<自分>だけを、本体だと見做すんです。つまり、自分を<自分>へと縮小して抽象化するんです。

すると、<自分>は自意識から離れ、自意識が「運転される自分」になります。そうして、世界と自分を含めたすべての情報空間を、外側に括りだすんです。すると、情報が自分に侵入してきてオーバーフローする事態を、避けられるようになります。

人生が景色だというのは、世界と自分を含めた全情報空間を外側に括り出すことに当たりますよね。外側に括り出した後に残るのは、抽象化されて点にまで縮小した「運転する自分」です。 

 

こっちの記事↓だと

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これも記事全体がそうだけど、園子温の引用↓とか

「もう一人の自分と仲良くなれたら本当に幸せです。ひとりで死んでも孤独死ではなく、安らかな死と言えるでしょう。死ぬ間際にも、優しく慰めてくれるに違いありません。『いまあなたは無様に倒れてしまい、看取る人もいないけど私がついていますよ』と。求めず慌てず、自分との関係性を気付いていくことが大切です」

「自分自身と安定的な関係を築くこと。もっといっちゃうと、自分自身と溶け合えるということは、最大の幸福ですよね。」

「家に帰って一人で落ち込むのはなぜかというと、外で他人と一緒にいた時の自分の情けなさや嘆かわしさにもう一人の自分自身が怒っているからです。自分以外に人を責める人間はいないわけですから。人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる。だからこそ反省をするし、後悔もする。もう一人の自分にそういうことをさせられちゃってるんですよ。となると、いかにもう一人のじぶんと和解できるか、仲良くなれるかがものすごい重要です。」 

斎藤環↓の引用とか

大学時代の私は いまでいう「コミュ障」だった。

・・・

いまの私が診察したら、「ちょっとアスペルガー症候群の可能性が否定できない」くらいは考えたかもしれない。

・・・

ひきこもりの青年を見ていていつも思うのは、一歩間違えれば自分も同じ境遇だったという確信だ。彼らの悩みは、とうてい他人事には思えない。私の書いたひきこもり関連本がそれなりに評価されているとすれば、それはこうした「当事者への過剰な思い入れ」ゆえだろう、と勝手に考えている。

ただ、私とひきこもりとで決定的に違う点がある。われながらあきれるのだが、私自身は、決して自分自身に愛想を尽かすということがなかったということだ。当時の私は、並外れて自己愛が強かったのである。自己中心的という意味ではない。謙遜や他人への気遣いも、つねに「それが自分自身の利益になるから」ということを意識しているような、こすっからい若者だったのである。・・・対人恐怖の感情の基礎には、こうした強い自己愛がしばしば潜んでいる。私もそうした意味で、自己愛の強い若者だった。

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こういうことを書きながら、私はべつに特別な自己開示をしているつもりはない。それというのも、私は自己愛が強いわりには、いつも自分自身を外側から見ていたからだ。「この一風変わった人間が、このシビアな状況に置かれたら、どんな反応を示すだろうか」、これが私の自己愛のかたちだ。つまるところ私の自己愛は、私というよく分からない存在がどういう変化を遂げていくかということに対する”好奇心”なのである。

・・・「好奇心」や「自己愛」も重要ではないかということだ。厳しい状況に置かれて「失敗したらどうしよう」と自分で不安を煽りたててもしようがない。むしろ一歩離れた視点から、「さあたいへんだ。いったいどうなる?」と無責任に事態を眺める「見物人」の立場くらいでちょうどいい。

 

もうこういう感覚のオンパレードだな。
そもそも「妄想の他者」とか「もう一人の自分」とか「観る(診る)神」とか「無限回廊」とかの自分の造語もまさしくこういう感覚から生み出されたもの。よく使う「メタ的」とか「高い抽象度」とか「客観性」とかの一般的な言葉も頻繁に使うが、これらもまさしくこういう感覚から。
今から考えると映画の見方も俯瞰的だなあ。
こんなにヒントがあったのにちっとも気づかなかった。これほどまでに自分の事には気付かないということだな。

 

それに会社で気づかされるとは。たまたまちょっと前に赴任してきた上司が言ってくれた。彼が赴任しなかったらこの先もかなり長い間気付かなかったかもしれない。ほんと人間万事塞翁が馬感謝。

 

そして、ここまでの人生を見返したとき、なんかもう、ぜ~んぶ繋がってる事に気付く。

ホント、無意識的に選んでる。

そして、またもあの言葉を思い出す。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

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「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?」

 

僕は、「(自分も含んだ)世界の観察者(観測者)」になりたいのかもしれない。

さて、(自分も含んだ)世界、一体どうなるのか。