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あらゆる偶然を必然と感じる才能

悩める自分が無意識的に手に取る色んな本には、結構共通性があるような気がする。一言でまとめるなる「客観性の重視」というところか。客観性というところから、「自分を見つめるもう一人の自分」「【妄想】世界における他者」「見る(診る)神」などに繋がっていく。

 

瞑想における自己観察。これも、実際には存在しない他者の目とも言える。

統合失調症における妄想における存在(これは自分を攻撃する存在であることが多いが。苫米地氏によると統合失調症者は逆に「統合」が、ある種のゲシュタルト構築がうますぎる。でも、それを「自分の都合の悪いように」統合していると。だから、「自分の都合の良いように」統合しろと)。

アファメーションも最近は「ユーアファメーション」と言って、目的語を「I」から「You」に変えるほうが効果的とされます。つまり、これもアファメーションを行うのは「自己」ではなく「他者」であるということ。

キリスト教における「見る神」。(「神よ。私が皆を裏切らないように見ていてください」。神が見ているという感覚によって普段は出ない力が出る(例えば利他行為)こと自体が福音である、とするなどという意味で、福音諸派エヴァンジェリカルズ)とは違う意味での見る神)

浄土真宗阿弥陀仏でもいいです。仏さまが見てくれているとかよく聞きますね。お天道様が見ているとかも言う。(これも福音主義的(日本では御利益信仰っていうのかな。例えば大阪なら「えべっさん」とか)に解釈されがちだが、それとは違う意味。)

スピリチュアル界隈では「ハイヤーセルフ」とかありますね。臨死体験により、より高次元のパラレルワールドの自己が見てくれていることに気付く、とか。

幽体離脱により、これまでの自分が周囲の環境への反射反応しかできないオートマタでしかなかったとの認識に至る人もいます。つまり、本体は体から抜け出た方だと。

トランスパーソナル心理学でも、当たり前にこういう存在を想定しているようです。トランスパーソナル心理学にも詳しい諸富祥彦さんは、「セルフカウンセラー」とか言ってた。

 

漫画や映画とかでもよく出てきます。例えば、漫画「ヒメアノ~ル」とか映画「BIG DRIVER」(スティーブンキング原作)とか。前者は悪い統合例で、本人をしばしば破滅に導きますが、後者では窮地を救う存在でした。

坂口恭平の本に出てきた実在の人物も、【妄想】世界を持っており、その世界に多くの友達がいました。てか、坂口恭平自身が、完璧な【妄想】者だ。レイヤーとか。

代々木忠の「オープンハート」では、性被害体験に会いながらも健全に成長した女性と没落していく女性を比較し、前者の女性にはここでいうような【妄想】世界とその住人が存在し、それにより過酷な現実に耐えられたとしています。

強烈なトラウマ体験により多重人格になる人もいますが、これも似た構造でしょう。

そういえば子供はよく人形に話しかけてますね。人形が【妄想】世界の他者。

 

【なりすまし】もそうですね。瞑想的なメタ認知もそうです。

映画鑑賞というものも、映画の主人公に自己を没入させ(感情移入。ここでは、「感情委託」といったほうが適切かもしれない)たうえで、映画鑑賞している自己が「見る神」となって、主人公(没入した自己)を観察するという、複雑なことをやってのけている気もします。そして、カタルシス(感情浄化)が起こる。カタルシスは寓話性(「<世界>は確かにそうなっている!」という感覚)から得られるんだとか。その意味で前回紹介した映画「ミスト」(これもスティーブンキング原作)は強烈なカタルシスをもたらしました。小説でもなんでも、ある種のナラティブにはそんな効果があるのかも。

というか、小説家や映画監督とか、物語を作る人は、【妄想】の達人ではないか。

学者、特に哲学者とかだって、自分で構築した学問体系を少なからず「見る(診る)神」としているのではないか。学問だってある意味【妄想】だもんね。

 

ご先祖様が見守ってくれている、ってのも存在しない他者の想定という意味で【妄想】世界における住人の想定ですね。「おじいちゃんが見守ってくれている」とかの発言もよく聞く。「3歳の時に亡くなった弟がいつも傍にいる。」とか。

漫画や映画の登場人物の存在が、心に生き続けているという人もいる。ノンフィクションならなおさら。

 

『夜と霧』のフランクルの言う「あなたを待っている存在が、時間が、人生がある。」存在、時間、人生という「見る(診る)神」。

そういえば、ニーチェの運命愛だって、「運命」という名の「見る(診る)神」を想定している。

「植物すげえ!」って言ってる友人がいるが、彼にとっては、植物も「見る(診る)神」の一部な気がする。

 

他にもいくらでもあったと思うけど、忘れちゃった。

 

園子温(映画監督)はあるインタビューで「人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる」と言っています。

以下引用

「もう一人の自分と仲良くなれたら本当に幸せです。ひとりで死んでも孤独死ではなく、安らかな死と言えるでしょう。死ぬ間際にも、優しく慰めてくれるに違いありません。『いまあなたは無様に倒れてしまい、看取る人もいないけど私がついていますよ』と。求めず慌てず、自分との関係性を気付いていくことが大切です」

「自分自身と安定的な関係を築くこと。もっといっちゃうと、自分自身と溶け合えるということは、最大の幸福ですよね。」

「家に帰って一人で落ち込むのはなぜかというと、外で他人と一緒にいた時の自分の情けなさや嘆かわしさにもう一人の自分自身が怒っているからです。自分以外に人を責める人間はいないわけですから。人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる。だからこそ反省をするし、後悔もする。もう一人の自分にそういうことをさせられちゃってるんですよ。となると、いかにもう一人のじぶんと和解できるか、仲良くなれるかがものすごい重要です。」 

 

内面化された他者という言葉が思い浮かびますね。

別に特別異常な経験を持たない人でも、【妄想】世界における他者の存在を、常に既に想定しているということか。どうせなら、それを力強い味方にしたいものです。ジョジョのスタンドみたいに(笑)

インタビュアー(宮台)はここで、園子温の映画『紀子の食卓』の「あなたはあなたの関係者ですか」というセリフや、黒沢清監督『CURE』の「あんた誰だ」「○○署の刑事だ」「○○署の刑事であるあんたは誰だ」というやり取りを持ち出します。自分の中のもう一人の自分。

 

性風俗界隈のフィールドワークでの宮台の発見。性風俗で働く女性たちは、ネグレクトを受けて育った女性たちが多い。ネグレクトを受けて育った人たちは、社会的に「壊れた存在」になりやすいのだそう。「自分は誰からも見られていない」という認識が、彼女たちを、人間的な感情の働かない存在にしてしまう。

「見る存在」の重要性。残念ながらその存在に恵まれず、その状態が人間が人間であることにとって重大な危機であると、本能的に察知した人々が【妄想】を始める。

これに対して、宮台と対談していたカトリックの晴佐久神父は、(こんな言い方したら失礼かもしれないが)精密に計算された「見る(診る)神」を提供する、キリスト教を推奨する。宮台もカトリックである。

 

精神科医斎藤環氏(「ひきこもり」という言葉を生み出したその人)の本を読んでいて、「そう!その感覚なんだよなあ。」という部分があった。

大学時代の私は いまでいう「コミュ障」だった。

・・・

いまの私が診察したら、「ちょっとアスペルガー症候群の可能性が否定できない」くらいは考えたかもしれない。

・・・

ひきこもりの青年を見ていていつも思うのは、一歩間違えれば自分も同じ境遇だったという確信だ。彼らの悩みは、とうてい他人事には思えない。私の書いたひきこもり関連本がそれなりに評価されているとすれば、それはこうした「当事者への過剰な思い入れ」ゆえだろう、と勝手に考えている。

ただ、私とひきこもりとで決定的に違う点がある。われながらあきれるのだが、私自身は、決して自分自身に愛想を尽かすということがなかったということだ。当時の私は、並外れて自己愛が強かったのである。自己中心的という意味ではない。謙遜や他人への気遣いも、つねに「それが自分自身の利益になるから」ということを意識しているような、こすっからい若者だったのである。・・・対人恐怖の感情の基礎には、こうした強い自己愛がしばしば潜んでいる。私もそうした意味で、自己愛の強い若者だった。

・・・

こういうことを書きながら、私はべつに特別な自己開示をしているつもりはない。それというのも、私は自己愛が強いわりには、いつも自分自身を外側から見ていたからだ。「この一風変わった人間が、このシビアな状況に置かれたら、どんな反応を示すだろうか」、これが私の自己愛のかたちだ。つまるところ私の自己愛は、私というよく分からない存在がどういう変化を遂げていくかということに対する”好奇心”なのである。

・・・「好奇心」や「自己愛」も重要ではないかということだ。厳しい状況に置かれて「失敗したらどうしよう」と自分で不安を煽りたててもしようがない。むしろ一歩離れた視点から、「さあたいへんだ。いったいどうなる?」と無責任に事態を眺める「見物人」の立場くらいでちょうどいい。

 

彼も「見る(診る)神」、【妄想】の中の他者を持つことによって、生き抜いてきたのだ。

 

更に氏の考える幸福感に一番重要な要素が、自分の考えとぴったり合致する。

それは、本(『人間にとって健康とは何か』)に挙げられた六つの要素「意味と目的」「関係性と利他性」「平凡性と反快楽」「過程性」「いまここ・あるがままの肯定」「末梢性」のどれにも属さない要素だ。

氏曰く、それは、「あらゆる偶然を必然と感ずる才能」(ある友人も言ってた)だ。これ、ほとんど才能のない自分が少しは恵まれている才能だと思うし、これから増強していきたいと思っていた才能だ。これは、あらゆる現象をサイン(神の意志の表れ)と見做す、教義を徹底的に内面化した宗教者の感覚とは、異質なもののように思われる。

私は「あらゆる偶然を必然と感ずる才能」こそが幸福の才能であると考えている。すなわち、自分にはこうしか生きられなかったし、いままでに経験した失敗や挫折はすべて、いまの自分に到達するために必要なことだった。

・・・

私の仮説と合わせると、幸福とは、「全てが奇跡であるかのように生き、その過程がことごとく必然だったと思えること」ということになろうか。奇跡は感謝につながるし、必然は自己肯定感をもたらす。努力して得られる境地ではないが、そこをめざすことは不可能ではないはずだ。

 

これも、「必然」という名の「見る(診る)神」、【妄想】の中の他者だ。

これは、ニーチェ永劫回帰や運命愛や超人思想に非常に通ずるものであると思う。

なぜ宗教者のサインの感覚と違うかというと、この感覚は、単に認識を深めていけばきづく感覚だからだ。

よくよく考えてみれば、これまでの人生において、どれほど多くの別れ道があっただろうか。そこにはとんでもなく壮大な樹形図が展開しているはずである。しかし、現時点での自分は、その中のただ一つの場所にいるのだ。しかも、この先も樹形図はどんどん大きくなり、これからも自分はその中の一つでしかないのだ。

そして、その壮大な樹形図がこれまで生きてきた人間の数だけあり、いや生命の数だけあり、さらに時間的なスケールで考えても、宇宙誕生から120億年この営みが続いており、これからも無限に続いていく。にもかかわらず、宇宙の現在の形は「この形でしかあり得ない」のだ。しかも、これは宗教的な考え方でもなんでもなく、「単なる事実」なのだ。

この<世界>の「ゴロっとした存在感」。ただ単にこういう形をしているだけ、という単純「すぎる」事実が、単純「すぎる」からこそ、逆に圧倒的な意味性を帯びてしまい、「異様な必然」に見えてくる、という逆説的な感覚が、たまに自分にも訪れることがある。

どれほど苛烈残酷な人生であったとしても、逆に平平凡凡な人生であったとしても、この事実を目にすれば、人生の黒々とした根っこが浮かび上がってくるような気がするのだ。

 

そういえば、先日観た映画『ミスト』でも、選択肢の分岐がいくつもあった。「あと5分待っていれば・・・」「あそこで無理して銃を拾わなければ・・・」

主人公の樹形図の先は、筆舌に尽くしがたい悲劇だった。でも、この壮大な樹形図の中の「たった一本」に現に自分がいることを自覚したら、主人公も上記のような感覚を持つんじゃないかなあ。しかも、よりにもよってその一本が途轍もない悲劇だからこそ余計に。

そして、自分の壮絶な苦難の前に、必ず「必然」を感じる。少なくとも、鑑賞して主人公に没入した自分はそう感じた。悲劇を経験した人の少なからずが「必然」を感じると聞く。東日本大震災しかり、強制収容所然り。でも、よくよく見てみれば誰の人生も異様な必然性を帯びているのではないか。認識を広げさえすれば。

 

必然と言えば、今読んでいる漫画『火の鳥』もすごく必然に通ずる気がする。彼は必然を描くのが得意かも。立ったキャラよりナラティブで見せる漫画家(今はあんまいないとのこと)。『ミスト』もまさにコレ。立ったキャラなんか一人も出てこない。にもかかわらず圧倒的な寓話性を帯び、カタルシスをもたらす。

そういえば、友人が書いていたショートショートも、ナラティブだけだなあ。そこに立ったキャラは出てこない。星新一もそうだなあ。ナラティブで魅せることができるのはすごいと思う。