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またもや受動性について

僕が考える、というか感性が鋭くなっている時には気づけるんだけど鈍くなってるときにはその本質を見失ってしまう受動性、というのがある。つまり、鈍くなってるときに読み返すために書いている。

 

例えば、少し前の記事で、受動性のデメリットとして、市場における受動性(神の見えざる手)が大きな格差につながることを話題にした。

この時は受動性に対する感性が鈍っている時だったと言える。僕が本当に思う受動性とは違うからだ。

これは結構当たり前のようなことなのに、結構言われていない、そういう意味で僕のオリジナルに近い考えだと思うのだけど。

つまり、市場の例で言えば、神の見えざる手によって生じる著しい格差、それに対する世界の反応・変容、そしてその世界を見つめる自分の感情、これら全てを「見つめる視点」としての受動性だ。

著しい格差を見て動揺する程度の受動性(弱い受動性)ではない。著しい格差に対して、反動で「それを楽しめ!」というようなものでもない。かと言って、それに反旗を翻すことでもない。そして、ただただ極小化された点としての冷静を装うということでもない。

 

あくまで例として、市場の話を持ち出すが、神の見えざる手では著しい格差が生じてしまう、という話を聞いたときに、人が示す反応は大体同じだろう。これは、思考レベルではなく、もっと深い感情レベルでの反応の話だ。つまり、動物本能的に、そのような未来に対して「不安」の感情を持つはずだ。

この時点で、既にある意味「洗脳」されているのだ。人間が「持つべき」とされている感情に矯正されているのだ。本当は、個人史・先天的なもの、環境、その日の体調や精神状況など、あらゆる変数の違いによって、感情の反応にはかなりのバラつきがでるはずだ。しかし、上記の話を「本当に理解していれば」そうはならない。つまり、何らかのバイアスがかかっている。

現に僕は不安を感じた。別に、これだけじゃない。もうウォールストリートの支配、その裏の中世から続くヨーロッパ王侯貴族などの支配はもうそこまで迫っている(別にこれは妄想でもなんでもいいんです。現状を見て分かるように、背後にあるものが何であれ、これから超格差社会になることは目に見えている。現時点でもウォール街で働くビジネスマンの年収は650億円)。

googleapplemicrosoftfacebookなどの超サイバー企業が対抗馬となるが、まあ、一般人には計り知れない世界の流れの中にこれから放り込まれる。

 

市場の話だけど、その話を聞いたときに、素朴に不安を感じるのは、まあ別にどうでもいい。不安を感じないと豪語するタイプもどうでもよくてしょうもない。

うーん、なんだろう。言語化できない。こういう風に消去法的に浮かび上がらせるしかほとんど言語化の方法がないように思うのだけど、消去法でも限界がある。

 

こうして書いてる最中にも、もう消えてしまっていってる。繊細すぎる概念。論理的なものというより感情的にふってくるものだからか。

どうにか残したい。

 

つまり、本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことを極めている。その思考や感情には「寄る辺」がない(のにある)。例えば、上記の市場の話で言えば、不安を感じた自分すら客観化する自分すら客観化する・・・という無限回廊。でも、これは「自発的」なものだと「気付いてしまう」。その気付いてしまったことによる変化が起きた自分すら客観化・・・つまり、受動性だと「気づく」、それをまた客観化&受動性・・・のまた無限回廊

でも、無限回廊ではないのだ。論理的に言語的に言うと必ずこの無限回廊てきな説明になってしまう。でも、言葉の要らない実践形としては、無限回廊ではない。

円周率に近い。数値という言語的には、永遠にその計算は終わらない。ただし、実践形として、僕たちはこの世界でそれを実際に使っている。幻想ではない。

お、ちょっとだけ何とか消去法ではない形で言語化できたぞ。

 

本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている、という言語化なわけだけど、言葉のイメージとは違い、これが実際に徹底できると、実践形としては、『孤独』ではないという矛盾。これも幻想ではなく、つまり、「そこにいないけど繋がっている」というような、ある意味でのおためごかしではない。これもやはり円周率の例が分かり易い。

「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている>という言語自体、孤独の表現を極める形だけど、実践形ではそうではない。この矛盾は致し方なく生じる。

かつ、傲慢(言語)に聞こえるけど非常に謙虚(実践)。この矛盾も致し方なく生じる。

 

受動性(言語?)という自立性(実践?)。これだ。矛盾をそのまま表してる。まあこの言葉だけじゃ色んな方向に誤解釈してしまうけど。だから長々とした説明記録が必要だった。

ちなみに、

受動性→自立性

受動性←自立性

という両方向を秘める。

 

「世の中に洗脳ではないものはない」という考えも洗脳、という考えも洗脳・・・という無限回廊。うん、これもヒントになる。これも言語化では無限回廊だけど、実践形ではそうではない。

 

ここまでの話で重要なのは、あくまで徹底できれば、という話であるということ。でも、徹底の方向性にいること自体がすでに徹底である、という考えが既に徹底である・・・という無限回廊でもある。これもそうだね。

 

つまり、気づくことで既に完成している。

ある意味の、言語と実践の統合ではない。言語と実践の統合に「気付く」ということに気付くということに・・・無限回廊

 

ここの精神状態に極たまに偶然的に達していることがある。いや、偶然ではないか。やはりそれは<世界>に触れたときな気がする。いや、その精神状態だから<世界>に触れられたのか。どっちだろう。まあここはどっちでもいいや。どっちでもあるかも。

 

この精神状態、というか気づきに達している時のみ、精神がある種の特殊な、多分僕にオリジナルの高揚感を得る。オリジナル故の高揚感とも言えるし、でも<世界>を貫いているものを見ることによる高揚感でもあるから、それは独我論的なものでもない。個々も矛盾。

 

洗脳(「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」)の洗脳の洗脳・・・から実践というか実際に解き放たれた時とも言える。

 

僕の考える受動性は、(多分常に?)矛盾という形になるので、こういう意味不明な言語化になってしまう。

 

実践というか実際的には、言葉にするとまた矛盾と無限回廊をはらむけど、とにかく「世界がどうなるか楽しみ」「自分がどうなるか楽しみ」「ウキウキワクワク」と記しておこう。

 

そう、誰にも分からないということに気付いた。皆、独我論者であり独我論者でない。

とにかくオリジナル。オリジナルでしかあり得ない。ぜ~んぶ、無視と非無視の矛盾をはらんだ形(言語的に)

片方の意味で、人の意見なんて、完全に無視していいのだ。だって、本当は全て、ホントのホントに全て、確実ではないんだ。でもそれは片方で無視ではないのだ。無視は不可能なのだ。

 

全ての言語も意味も解釈も考え方も人生観も世界観も、他者から与えられたものであり、剥がれ落ちる。本当は全部オリジナルなのだ。それに気づくかどうかだけなんだ。でも結局剥がれ落ちてなくて、でも気付いたということは剥がれ落ちたことなんだ。

剥離と非剥離の矛盾。

 

嗚呼、気づく前まで、何と洗脳されていたことよ。まあまた洗脳に戻るだろうけど。できれば脱せれてる時間が多くなってほしい。

 

寄る辺が無いのに寄る辺があって、メタ的に怖くない。

どんなに自分の奥深くまで食い込んんだ親しみのある「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」でも、剥離とか無視。でも剥離とか無視じゃない。

 

とにかく気持ちいい。メタ的脱洗脳。そして、高揚感が導かれる。

メタ的に(あくまでメタ的に。でもこれこそ大事)、ま~ったく囚われる必要はない。

いやはや、一回性なるこの自分や世界、つまり「全て」、どうなるかな~。無限回廊的視点からの見晴らし。

 

 

これが僕の根源なのかな。

というか、あれ?これって結局、「空観ベースの仮観」である中観か?

自分の感情も心も、世界の見え方も、洗脳でないものは一つも、ホントのホントに一つもないんだな。空観だ。そして中観にする。それにさえ気づけば不自由さえ自由だ。つまり自由だ。

 

というか、こういうことに気付けたのは、僕が本当に不幸で変わった人生だからだろうな。一般から大きく逸脱した、ホントのホントに自分の考え、オリジナルでいいのだ。というか事実としてそうでしかあり得ない。「全て」決められている。ある意味ラプラスのデーモン。なのに受動的主体!高揚感!完全に脇役でも主役。

 

もうやめよう。永遠の言語化になってしまう。

 

 

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