強みと弱みは表裏一体②

更に「働くことがイヤな人のための本」より

期末テストの一点に、学力試験の席次に、通知表の成績にくよくよすることは、たしかに醜いよ。生きるうえでは弱点だよ。とても生きにくいからね。みんなから厭がられるからね。しかし、私はいまとなって悟ったんだ。みんなこぞって「こだわるな」と忠告してくれたが、このせせこましい醜いこだわりこそ自分の宝ではないかと次第に思いはじめたんだ。

きみの中のこうした弱点をよく見据えることだよ。まだ若いときはわからないかもしれない。しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。

何事にも決断がつかないこと、真剣に戦う前に戦場から退散してしまうこと、こうした弱腰こそかえってきみ自身を鍛える指針になると信じるんだ。自分でも厭になるほどの実力不相応のプライド、うんざりするほどの自己愛と他人蔑視、それと奇妙に両立するはなはだしい自己嫌悪、こうしたことを引きこもっている者は多かれ少なかれ所有していると思う。それらこそ、君を導く羅針盤なんだ。まさにそれらがきみを鍛えてくれ、数々の仕事を準備してくれるんだよ。

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大学教授になるとか、作家になるという目標は、それがかなえられなければ失敗したことになる。それに精魂を傾ければ傾けただけ、悲惨な結果だよね。だが、きみがきみのすべての弱点をそのまま背負ってできる固有のよい生き方を目標にするかぎり、失敗はない。・・・

 

 「しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。」

これは、自分の人生に照らし合わせても本当にそうだと思う。いっぱいあるのでわざわざ例は挙げないけれども。「強みと弱みは表裏一体」の記事で出した例はそうだね。

 

まあ直近の小さな例だけ挙げようか。

僕は人との距離の取り方が分からなくなることがある。というか人の話を聞いていないことも多い。訓練によってかなり改善したが、昔からそうだった。それに、忘れ物、置き忘れ、などが異常に多い。小学生の時の通信簿18クール全てにおいて「人の話を聞けない」「忘れ物が多い」と評されたくらいだ。今から考えると完全に発達障害の症状だった。これらはすべて、現実世界への意識の低さが原因の一つだと思う。

 

しかし、確かにそれらが僕を救ってくれている面もあるのだ。

距離の取り方が分からず忘れ物が多い、これらの特性はしばしば天然と評され、人々の笑いを誘う。それが良い方向へ進むことは多い。先日友人宅へ泊まり込み、数人で遠出もした。遠くの滝を見に行ったり、鳥取砂丘まで見に行った。集団生活が苦手な僕が長時間人と共に過ごすわけだが、天然な特性がプラスに働いた場面は数知れない。まあ彼らとは付き合いが長いので、お互いの特性をかなりよく理解していることも大きいが。非常に楽しく過ごせた。

 

現実への意識の低さは、現実の厳しさから自分を守る事にもなる。 

人の話を聞かないから余計な情報が入ってこない。これは、人並みの人生を歩まなければならないというプレッシャー(洗脳)を軽減する。ある意味、普通の人生行路から外れてしまうという弱みだ。しかし、それが長期的に見て適切な選択を導くことも多いと思う。

例えば、皆結婚したいと言うが、今のこの時代にホントに満足のいく結婚なんかできると思いますか?なかなか難しいでしょう。僕は現実認識(結婚するのが当たり前という認識)の低さによって、このような洗脳やプレッシャーから比較的解放されているので、結構冷静な判断ができる。その方がまだ結婚に成功する確率が高いんじゃないかな。それに、結婚の失敗はかなり地獄です。それなら独り身の方が絶対マシだと思う。

また、学校に行くのが当たり前、というのもそう。僕の無意識が「学校行かなくても大丈夫」と判断した。で、5年間プラプラしながら、ゲームで英語力を鍛えていた。ほとんど何も努力してない。でも、結局最終的にいい大学に入れてる。これも、「学校に行かなきゃならない。受験を勝ち抜きいい大学にはいらなきゃならない。」という洗脳やプレッシャーがあっては歩めない航路だ。僕の母親はものすごい教育ママだったが、現実認識の低さで乗り切れた部分も多いのだ。

就職についても、尋常じゃないくらい手を抜いていたが、結局いいところに就職できた。はっきり言って、僕だから続かないのであって、普通の人からしたら超絶ホワイト企業ですよ。休み異常に多いし、僕の場合更に休みまくってたわけだが、その割には給料も結構いい。これも、「就活頑張らなきゃ!いいところに就職しなきゃ!」というプレッシャーや洗脳が少なかったから冷静な判断・冷静な面接対応ができたことなどが大きい(面接がうまくいったので孫会社から子会社に引き抜かれ、その子会社が親会社とほぼ同じ待遇だった(ほとんどが親会社の社員)。むしろ成績のいい、かつ最古参の部署なので、保護されており、親会社より給料がいいことすらある。学閥でのパーティがあったが、新卒社員の僕の部署への配属希望者がどれだけ多かったことか)。

そもそも、これから40年以上(僕らが年を取った時代にはもっと長いですよ)一つの会社で働くなんて息苦しい事がホントにできると思いますか?それができた後には相当つまらない人間になってると思うけどなあ。それに、一つ目の就職先がいきなり自分にピッタリであるなんてことが早々起こるわけないと思いませんか?20代の自己分析なんてほとんど当てにならないんですよ。なら、一つ目の会社は結構適当に選んでも大丈夫なんです。新卒切符を使って待遇がいいところを選べばいいんです。むしろその方が、自分の先入観から解放されて、今回僕がしたような発見もできるかもしれない。しかも、これから10年20年と経つと、社会も激変していますよ。ハイパーインフレで、貯金なんて吹っ飛ぶかもしれない(金(ゴールド)に変えたりしてたら別だが)。現在のうすっぺらい価値観にしがみついていてもしょうがない。もっと普遍的な価値観にしがみついた方が良い。更に言えば、その洗脳を、適した洗脳を、その都度選べればいい。結局、好きなように色んなことに挑戦し、自分の特性に合ったことをできればその方が最終的に得をする確率が高いんじゃないかな。僕の特性が、こういう大局的な見方を可能にしたように思う。でも世の中は電通自殺事件に代表されるような価値観に染まっている。歯を食いしばって苦手な仕事にも取り組むべきだ、自殺しても、みたいな。僕ですら染まりかけた。ここでも、本来弱点であるはずの僕の特性が、その歯止めとなった。

 

何か気づいたらいろんな例を挙げてた。このほかにも枚挙に暇がない。

この、弱みと強みの表裏一体性という意味では、映画「チェンジリング」の宮台の評論を思い出す。

http://www.miyadai.com/index.php/index.php?itemid=734

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。

 

以下引用

■以降、このモチーフが繰り返し反復される。感動の再会であるはずが息子の替玉をあてがわれた際も、激昂するでもなく、手を口にあてて息をのんだまま、警察の要請通り、記者のカメラの前で「感動の再会」のポーズをとってしまう。ここにも極端な「遅れ」があろう。
■替玉であることを訴える母親と、それを無視する「悪役」ジョーンズ警部との、やりとりにも「遅れ」がある。母親は警部の高速のリプライにまったくついて行けていない。たぶん聞こえていない。だから「あなた方には息子を捜す責任がある」と返すのが、やっとなのだ。
■この映画をよく観てほしい。「母の強さ」に視えるものも、「権力を恐れぬ意志」に視えるものも、すべてはこの「遅れ」に由来している。そう。この「遅れ」ゆえに、比喩的にいえば、「普通の人には命中してしまうはずの弾丸が、クリスティンには当たらない」のだ。

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喜怒哀楽の反応が人よりも「遅れ」るアンジェリーナ・ジョリーの演技──いわば受動性の演技──は、この南軍兵士を髣髴させるものがある。二人は共通して、離人症的ないし幽体離脱的な疎隔(による〈システム〉からの脱落)を、実にみごとに演じきっているだろう。
■疎隔による〈システム〉からの脱落が、脱落した者に死をもたらすこともあれば(『白い肌の異常な夜』)、脱落させた〈システム〉に死を宣告することもある(『チェンジリング』)。後者にだけ注目すると、イーストウッドは「社会派」の面目躍如ということになる。

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■単なる「世の摂理」(としての「人の原罪」)をディスクリプト(記述)するのみならず、彼の映画には極めて珍しく、世を相涉るための知恵として「遅れ」をプレスクリプト(処方)している。人によっては違和感を感じるかも知れないが、私はこの処方箋に連なりたい。
■全てにおいて映し出された「遅れ」が、単なる役作りを越えて、〈システム〉に対する根本的な違和として生き続けるための処方箋となることで、〈システム〉は人を裏切るというイーストウッドの右翼的確信を補完している。これが彼の設計によるのか否か分からない。

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私が「遅れ」のプレスクリプションに敏感なのは、私自身の感覚がいつも「遅れ」るからである。この「遅れ」はそもそも3月生まれで発達が遅れ気味だった上に、小学校のときに六回も転校して周囲から疎隔された感覚を味わう経験が積み重なったせいかもしれない。
周囲が冗談を言いあって笑い声をあげても、私がその中に入ることはできなかった。集団行動でアレをしましょうコレをしましょうと言われても、私は何を言われているのかよく分からなかった。私がヤクザの子供たちに庇護われる存在だったことも、それに輪をかけた。
世間の「いい」「悪い」の道徳的判断にうまくついていけなかったのだ。道徳的通念についていけずに「遅れ」をとる私の存在形式は、世間的に処断される援交女子高生をフィールドワークしたりオウム信者を取材する際に、ある種のアドバンテージとして働くことになる。
口に手を当てたまま佇んでしまう母親クリティン・コリンズの、誰の目にも焼き付けられてしまう印象的な所作が、単なる受動的なパーソナリティの表現であることを越えて、ソツなく回る〈システム〉を逆に凍りつかせるための戦略として機能していることは間違いない。

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〈システム〉にはコンピュータと同じように作動クロックがある。人々の反応速度が作動クロックにシンクロしたものである限りにおいて〈システム〉は円滑に回転する。そこに、シンクロしない人間が現れて周囲を巻き込みはじめれば、〈システム〉は確実に阻害される。
今回の作品はそれを推奨しているように受け取れる。私もそう書いてきた。だがイーストウッド作品のいいところは両義性を正直に提示するところにある。どのみち人を裏切る〈システム〉を阻害するべく「遅れ」よ! だがそうした推奨も所詮はイデオロギーにすぎない。
イーストウッド作品では、観念で戦う人は疑念のまなざしでしかみられない。クリスティン・コリンズが警察相手に戦ったのは、観念によるのでも、ましてイデオロギーによるのでもない。「遅れ」る女が、関係性への執着から、歴史に名を残す存在になったにすぎない。

 

まあ、「遅れ」(僕の現実認識の低さと似る)という弱みが強みとなり、それがやはり弱みともなる、という映画です。

 

こういうのを見るにつけ、やはり人生は面白いなあ、と思う。

決して見通せない、張り巡らされた糸の目。死ぬまで結果が分からないあみだくじ。世界の未規定性。