心理変化

今、ほとんど人と関わらず、閉じこもった内閉的な世界で生きている。

そして、仕事を辞める瀬戸際まで来ている。

親からの攻撃は止まった。理解が得られた。親も親戚や祖母のことなど、色々なことが重なり、情緒不安定になって、ちょっとおかしくなってたようだ。

今は、新しい仕事を探して、例えば障碍者枠で、のんべんだらりとゆったりと、生きていけばいいではないか、と言ってくれている。こういう精神的なセーフティネットはありがたい。

 

つまり、以前のかなりのストレスフルな環境から、逃れている。自分で楽な道を選択できる。

 

そして、このような状況にあって、自分にじわりと起こってきた心理変化、環境と内面との化学反応によって引き起こされたそれが、自分としては興味深かったので、ここに書き記しておく。

 

何と、会社でしっかり仕事してみたい、という欲求が湧き上がってきたのだ。もちろん、一過性のものである可能性もある。(次の日には、いや、一時間後には、やっぱり会社やーめた、と言ってるかもしれない。僕も現在、情緒不安定なのだ。)

 

大学の友人が有名企業の最終面接にまでいった。多分受かる。それを聞いたとき、これから大手企業(といっても子会社なのだが、ほとんど大手親会社からの出向組で、僕の待遇や将来的な展望の広さという点で、親会社に対し少し見劣りする程度のものである。しかも、今の総務グループ長(阪大工出身)に後釜がいないので、彼が定年退職すれば、自動的に僕がグループ長最有力候補となる)を辞める自分と彼を比較している自分がいた。他の友人も、大手企業でしっかりやっている。

 

恥ずかしい話だ。あれほど無頼気取りで会社には飲み込まれまいとしていた自分の感情が、弱くなっている。というか、会社に残る恐怖と、今の会社から離れてエリート(と呼ぶにはあまりにヘボいんだけど)コースから外れることに対する恐怖があって、退職が現実味を帯びてくるにしたがって、後者がムクムクとその存在感を増してきたのだ。

 

つまり、残念ながら、僕は俗人だったということですね。もちろん、エリートから外れても余裕で生きてはいける。しかし、現実にそれをリアルに想像し始めた時、恐怖に襲われた。何よりの恐怖は、やはり、僕は知的な人間がいない場所では働きたくないということだ。(今の職場には、阪大、京大、東大出がうじゃうじゃいる。僕の直属の上司(グループ長)は阪大工学部出身)。これが僕の、等身大の醜い本音である。

 

僕は、学歴が中卒・高卒のときにフリーターをするという経験をしている。そして、その後に結構な有名大学に入った。この落差は物凄いものだった。

はっきり言って、フリーター時代は、周りの人間も覇気がなく、思考停止状態で、知的な会話など全くできず、僕は完全な欲求不満状態だった。

大学では違った。皆、自分が高学歴であることを無意識に自覚しており、そこからでる自信、パワー、明るさを持っていた。知的な会話ができる。

こう言う形でこの落差を経験している人は、結構稀有だと思う。

退職間際になって、この落差を思い出し、中卒高卒時のやるせなさがフラッシュバックのように蘇った。

 

嫌だ。あそこには戻りたくない。

といっても、当時とは状況は違う。一応今は有名大学卒業という肩書きを得ているし、それなりの企業での僅かながらの職歴もついた。今やめたとしても、年齢的には中卒高卒時の方が有利だったとは言え、当時と今の選択肢の豊富さは雲泥の差だろう。それに、(僕はこういうことには頭が回るのだが)、いかがわしい方法(高学歴の障碍者枠就労というニッチ戦略など)を使えば色々とやれることはあるのだ。

それに、エリートコースでなくても、知的な会話をできる人はいる。それに、知的でなくても、上品なエネルギーに溢れている人がいれば、それでもいい。僕はとにかく、下品な人に耐えられないようです。自分は下品なくせに。

俗に言うエリートコース(僕にすれば、ね。もっと上から見れば全く大したことない)から外れれば、かなりの蓋然性を持って、そこに戻るのは難しくなる。

 

そう、残念ながら、僕は俗物だった。エリート生活を送りたいのだ家賃補助を使ってそれなりに良い一人暮らしの部屋に住み、収入に余裕があり、知的な友人と優雅に酒を酌み交わし、知的な会話をする。そんな生活を送りたいのだ。

仕事においても、レベルの高い仲間とレベルの高い仕事がしたいのだ。

確かに、僕の能力が追い付いていない。しかし、はっきり言って少し手抜きをしてたし、周りに助けを求めることに変なプライドや面倒臭さを感じていて一人で抱え込み、上司の指導も真剣に受け止めなかった。始めから仕事に対する真剣さが足りなかったのだと思う。それらが原因でもあった。そのあたりを必死に埋めていけば、やれる可能性はあるのだ。

 

そして、以前までは、そんなこと全くやる気が無かったのだが、今はできる限り最大限に自分の能力をフル稼働したいという思いがある。

 

こう思ったもう一つの原因は、退職したとして、自分に何ができるのか、と思ったことだ。何もできないじゃないか。高学歴障碍者枠のニッチ戦略は、自分がしたいことを、自分のペースでできるかもしれない、かなり有望な策ではあるが(ここからむしろ本物のエリートになったという事例もある。好きなことをしている人の生産性は半端じゃないからね。そういう意味では、今の企業を退職となったとしても、道はある。門は狭いかもしれないが、何かしらあるのではないかと直感している。可能性は未知数だ。

 

というか当初は、そういう道ではなく、何というか、人の生死や根源に触れる、広義での仕事、本当の自分の根源に根差した生き方、ミッション、みたいなものを望んでいた。しかし、結局はそれにも金が必要だったりするのだ。こういう話は、そういう生々しい話を、神経症的に敬遠する。そこに僕はどうしても欺瞞を感じてしまうのだ。「結局金だろ?」という言葉を、僕は全面的に肯定するわけではないが、完全否定する人々のうさん臭さも感じている。

確かに自分の根源、人生の根源、そういうものに向き合うのが「本当の人生」であり、僕もそれを求めている。しかし、そういう「本当の人生」に関する議論は、「でも(よっぽど人格を含めた才気に溢れているとか、人と繋がっていく力があったりする人とかでない限り)金がなきゃ始まらない部分もあるよ」という残酷な事実をひた隠しにする部分がある。

だって、そういう「本物」を標榜する人たちが、実際に僕たちに何かしてくれますか?厳しい言い方をすれば、講演やって自分の好きなことくっちゃべって、本に自分の言いたいこと書き殴って、それで終わりじゃないですか。彼らが良く言う言葉は「自分を変えるのも救うのも自分自身です」。僕は、ここに大いなる欺瞞を読み取る。中途半端に自分に興味を持たせて自分の世界に引きずり込もうとする割には、結局何もしてくれない。僕が今まで慣れ親しんできた著者などを「洗脳」と見切ったのも、こういうところが大きい。彼らは、自分の正しさを主張し、人々は自分についてくるべきだと主張し、洗脳されてついてきた人々を今度は「甘えるな。自分でやれ」と突き放す。

 

東北食べる通信の講演をしていた人にも同じ欺瞞を嗅ぎとった。農業体験もさせずに雑誌だけ買ってくれって?んでもって吉野家で食ってる人を鶏の餌付けに喩えたり、ランニングする人を揶揄したり、てめーはいったい何様なんだ。片腹痛いわ(笑)そういう事言ってるてめーが一番人間として低劣だ、バーカ(笑)って感じ。人の事情も知らないで、上から目線で、最悪だよ。まー消えていくね。

 

僕はついに、こういう人たちの醜さ、傲慢さを嗅ぎとってしまったわけですね。だから全ては洗脳であると見切り、逆に洗脳を自分の都合のよいように「利用」してやればいいと思ったのです。洗脳をツールとして自由に選び取ればいいと考えたのです。これが僕が思いついた脱洗脳なのです。無限回廊的な。

彼らは「真実」を標榜し「本物」を標榜し「知性」を標榜し、俺は人々に真実を本物を知性を伝えているんだ!と主張するわけですが、その裏は、本人ですら気づいていない支配欲や自己顕示欲、自己正当化欲であったりすることも多々あるわけです。多分そうじゃない本当の意味で本物の人というのは、非常に少ない。どちらかというと、表に出てこない。

 

気付いてしまった今となっては、そっち系の人々の傲慢さは、はっきり言って片腹痛い。主張する割には何もせず、放置し、弱くて洗脳されやすい人々を振り回す。だから、はっきりと、僕はこういう人たちにはある程度の見切りをつけたわけです。

それだけ主張するのなら、そのメッセ―ジにコミットした人間のために何かしてみろよ。てめーらは声高に主張しても何もしてくれないが、てめーらが嫌いな企業とかは、一応働けばちゃんと報酬をくれるぜ?てめーらは何をしてくれた?都合がいいときだけ顔出して人が困ってるときに限って逃げてんじゃないか?

 

とまあ、真実とかを標榜するそっち系の人の傲慢さに気付いてしまって、「こりゃ駄目だ」と思ったわけです。

というわけで、僕の中で、相対的に「真実・真理系」の人々に対するコミットが非常に小さくなりました。宮台とか苫米地とかね。

もう彼らはいいよ。現実的に地に足の着いた道を歩もう。せっかくエリートコースにいる(何度でも言うが、たいしたことはないです。僕にとっては、って感じ)のだから、一度くらいは本気で取り組もう。あっち系より全然マシ。

 

何か、嫌いな先輩や上司がいて、それで辞めていく、というのも、違うと思った。よくよく考えれば、自分が仕事をしんどいと思っていて、それが性格の歪みを生み出し、あえて被害妄想的に彼らを悪者に仕立て上げていたところはある。それもこれも、人間面倒くさい、人間と向き合いたくない、という昔からの僕の逃げ癖のせいだ。

女の子と付き合った時もそうだった。いつも真剣に相手に向き合おうとしない。そして、相手から愛想をつかされる。その繰り返し。自分に自信が無いから、向き合うのが怖いのだ。向き合うと、相手の女の子にはしっかりと芯があって、だからこちらにしっかりと向き合ってくれるのだが、僕はその視線を暑苦しく感じ、自分には何の芯もないことに気付かされて、自信喪失し、逃げ出してしまうのだ。結果、相手の女の子からの評価は「あいつはヘタレだ」となることが多かった(言われてないけど、多分そう思われている)。僕は逆に「あいつ、何でそんなに毅然と人と向き合えるんだ」という感じだった。でも、僕、気の合う男友達とはそれなりに向き合えるんだけどな。何か女性恐怖みたいなのがあるのかな。

僕の課題は、逃げずに、人と向き合うことだ。上司の言葉を思い出す。「しっかりと本音ベースで話をしてくれ。君という人間が見えない。」これは、ちゃんとこっちを向いてくれ、向き合ってくれ、という叫びだったのだと思う。

総合的に言うと、「甘え」という言葉に集約されますね。

多分、僕の心の深い所に到達した傷が原因だと思う。今のこの奇妙な状況で、それに向かい合わざるを得ない状況に来ている

 

まーとにかく、もう一度、しっかりと、逃げずに、向き合って、真剣に、仕事に取り組むということをやってみたい。僕がエリート街道を駆け上がるのを愉しみにしてくれている人もいる。僕はこの人がすごく好きだ。

それで敗退したのなら、しっかりと納得できる。

今は、まだだ。まだ力を出し切っていない今退職しても、不全感が残る。

 

不全感が残る形で、知性のない世界に没落していくことに対する恐怖。これが、今の僕のこの気持ちを駆動している。これは、以前は、尻を叩かれてる家畜のようで嫌だったけど、でも違った。もはやこれは対人での問題ではない。僕自身の傷との対決・問題だ。

 

僕自身の問題だ。その場として、会社を利用させてもらおうと思う。

 

いやはや、でも、こういう環境と自我の化学反応による様々な変化を観察するのは楽しい。受動的に、放っといても、こういう風に千変万化していくわけです。映画を観るより、やはり自分の人生の方がリアリティがあり、圧倒的な臨場感を持っている。自分の人生という物語の観察のほうが面白い。これは普遍的な娯楽であるように思う。

 

そして、それを書き記すことは愉悦である。

 

「全て」が何を選ぶのか。

もう一度言うが、明日には「やっぱやーめた。あほらし。」ってなってるかもしれないんだからね(笑)

それも化学反応により「全て」が選んだ結果。興味深く眺めさせてもらう。


あと、散々「真実系」をこきおろしてきたが、最終的に僕が目指すのはやはりこっちだということは変わらない。

知的で、立派で、格式があり、エネルギーに溢れた正の世界。

ただ、あまりにもエセが多すぎるということ。