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孤独、客観視、自己観察について

瀬戸内寂聴『孤独を生ききる』より

遁世の閑居の孤独に耐えかねた心情が歌になって昇華されてしまうとき、西行の孤独は既に客観化され、孤独から抜け出しているのです。

西行にとっては、仏道や自然以上に、歌が孤独を慰める何よりの友となっていたわけです。

出ましたね。客観視(見る(診る)神=【妄想】における他者)による感情の昇華。歌を擬人化している。

西行と言えば、哲学者の中島義道の本『孤独について』にも出てきた。

数年前、奥吉野の西行庵を訪れた。桜が散り落ちたころで、それはいかにもひっそりとうずくまるようにあった。完全に世間から隔絶したところである。夜は恐ろしいほどの闇が支配するであろう。私は、そこには住めないと直感した。私の求めている「孤独」はこのようなかたちではない。

西行のように強靭な人は、他人から完全に離れて文字通り独りで生活すればいいと思う。しかし、私のようにそれほど強くない人は、孤独を実現するために、孤独を理解してくれる家族や知人によって幾重にも補強する必要がある。私はそれを三十年にわたって求め続け、今ようやくそれを実現し始めたのである。

と言っても本から垣間見える中島の生活は、かなり孤独なものだけれども。

 

再び『孤独を生ききる』より

私たちが日ごろ孤独をそれほど切実に感じないで、のんきに暮らしていけるのは、孤独が怖いから、つとめてそれを見て見ぬふりをして、ごまかしているからです。 

・・・

嵯峨野で・・・虫の音が次第に数を減らし、ふっと気が付いたら一声もしなくなっているのに気が付きます。

そんな時、この嵯峨野の一隅の庵の中でたった一人いる自分の姿を、幽体離脱者の目で眺める自分の、もう一つの目を感じることがあります。その目から見たら、この私の姿はひどく孤独で寂しそうに見えるだろうなと思います。ところが現実の私は少しも寂しくない。むしろ、私自身は孤独を愉しんで、すがすがしい気分なのです。でも、それはわたしがもう古希の尼だし、そのうえ小説家だからなので、誰にでもすすめられる形ではないのです。

まだ若いあなたは、もっと多くの挫折や蹉跌にぶつかっても、俗世で生き続けてほしいのです。多く愛し、多く悩んだ人は、その分他者の悲しみや苦しみを思いやる力がそなわります。何度も言うように思いやる想像力こそ「愛」なのです。

 またまた出ましたね。幽体離脱者の目=見る(診る)神=【妄想】における他者

ここでは他に面白いことも言ってる。最後の段落ですが、これは、(とここでは言ってますが文脈からしては愛というより慈悲です。まー瀬戸内さんは恋多き人でしたから、その道を究めた結果、愛と慈悲の融合する境地に辿り着いたのかもしれませんが、仏教者ならばここは慈悲という言葉を使うのが正しいと思います。まーでも一般向けにこの言葉を用いたのでしょう)とは認識力である、ということを言っているのだと思う。

愛とか慈悲というと、何か内から湧いてくる感情で、能力とは違うものと思われがちだけど、瀬戸内さんは知らず知らずのうちに、そういう認識に疑問符をつけている。

愛情が深いから他者の痛みを認識できるのではなく、認識力があるから愛情が深いということですね。いくら利他性があっても、認識力がないと、その利他行為は頓珍漢なものになりやすいわけで。いや、そもそも認識できないと、そのこと(他者の痛み)に対してコミットすることはできないわけで。

 

 

見る神的な客観性ではなく(これを身体的客観性とでも呼びましょうか)、論理的客観性によって孤独を語る言葉もある。これはまあ孤独に関する格言とかが多い。

格言ではないが、論理的客観性によって孤独を語った苫米地の言葉も興味深い。身体的客観性による孤独解体とはまた趣が違う。

・・・孤独というのは主観的な発想だということです。・・・西洋的個人主義が礎にあるから、自分を中心にして考えられているのです。この世に本当に孤独な人なんているのでしょうか。みんな誰かと関係して生きているはずです。

・・・

六十六億人(2015年当時)も地球上に人がいるのに、なぜ自分が孤独だと思うのでしょうか。つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 

 望むと望まず都に関わらず、みんな誰かと関係して生きている、というのは「縁起」の考えですね。部屋で一人で引きこもっていても、このベッドを作ったのは誰だ、あのオーディオを作ったのは誰だ、と想像力を膨らませれば、一人で生きているとは言えないわけです。

この点については、僕の場合、ある言葉について穿った見方をすることで、近い認識を得たことがある。

誰でも聞いたことがある「人は一人では生きていけない」ってやつですね。これは「だから人と大いに関わって生きていきましょう」という言葉が後続するはずなんですが、僕は違った読み方をします。

つまり、「人は一人では生きていけない」「じゃあ今僕たちは生きているから一人じゃないということですね。」って(笑)。どうでしょう、ちょっと「縁起」の匂いがしませんか。

 

孤独に関する格言でかなり的を射てると思ったのは、正確には覚えていないが、

「孤独自体が怖いのではない。人が孤独を恐れるのは、むしろその条件に対してである」みたいなのがあった。例えば、大学生がぼっち飯を見られたくないから、便所飯をするとか。OLのランチメイト症候群とかもありますね(ランチメイト症候群といえば、ドラマ『カルテット』のすずめちゃんは全くそんなこと気にしてなかったな。女子の方がぼっちを多分気にすると思うけど、その中でこの強さ。すごいな。かわいいし。)

つまり、この格言の「条件」ってのは、常識で構成されてるわけですね。一人で飯食ってるのは恥ずかしい、とか。常識によって視野が狭くなってるだけってこと。苫米地の言う「つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 」って台詞はこういうことを含むんじゃないかな。

 

僕も時に孤独を感じるのですが、やっぱり孤独自体というより、その「条件」に対する恐れって面も確かにありますね。

「こんなに長い事一人でいるって、社会的に見てやばいんじゃないか」とか

「何かすごい損してるんじゃないか」とか。

でもちょつとだけそういう想いは息をひそめていってるな。

なぜそうなっていったかというと、よくよく自己を観察してみると、下記の引用で示されていることに気付くから。

再び、中島義道の『孤独について』より

それまでの自分の行動を点検してみるがよい。いかに自分はこの状況をつくることに加担してきたかが分かってこよう。

そうなんです。僕もやりがちなのですが、「あー孤独だ。俺は独りぼっちだ―。」とか思うのですが、いざ友達とかと会うとなると、結構憂鬱になったりするわけですね。会うのが憂鬱にならない友人というのは、限られてる。

で、わがままだから自分に合う他者以外には会わなくなっていく。でも、その自分に合う他者が、同じように自分を合うと思ってくれるかというと、そうじゃないことも多い。ここらへんが人間の哀しい所ですね。

こうなると、かなり孤独になってくるわけです。

 でも、これは結局他者に対する許容力の欠如が招いた結果。つまり「いかに自分はこの状況をつくることに加担してきたかが分かって」くれば、自業自得だと分かるわけです。でも、その孤独を引き受けられるなら、別にわがままのままでいいですよね。僕はまだそんなに強くないけど。

 

で、僕は結構孤独な人間だと思うんだが、孤独の何がいいかっていうと、「自由だから」とか、そんな単純な理由ばかりじゃない。むしろ、辛いからこそいいのだ、と思うことがある。

やっぱりね、多くの人といる時は集団同調バイアスみたいなのがかかってね、まー人々の共同幻想に強制参加させられるわけです。で、どーでもいいことを語らなきゃならなくなる。まーこういうのも息抜きには良いし楽しいんですが。基本僕の興味は「死」とか「<世界>」とか「現実界」的なものとか、まー人生の本質とされるようなものが多いわけで、やっぱそういう課題が浮かび上がってくるのは一人の時やそういう話ができる仲間といる時であって、そういう時間こそ本質的かも。こういう仲間は本当に大事ですね。

 

そういう仲間といないときは、一人で考えることになるわけですが、まー孤独で辛い様な気がする時もある。でも、この時の対話相手は、同じことを考えている著者の本であったり、あるいは自分自身であったりして、一人ではないわけですね。それこそ、【妄想】の他者です。

 

そもそも、孤独に対して悲観的な見方が多すぎないか。カウンターパートとして以下を引用。

人間が独りでいる時にその人の内面で進行することは、他の人との相互関係で起こることと同じぐらい重要である、と私には思われる。

現代においては、親密な関係が個人的な充足感に不可欠であるという思い込みがある。そのために我々はそれ程親密でない関係の重要性を無視してしまいがちである。当然のことに、分裂的な行動を取る人やそのほかの多かれ少なかれ孤立している人は病的とみなされてしまう。多くの人が格別密接とは言えない関係で何とかやっているのが実状であり、こういう人が必ずしも病的ではないし、とりわけ不幸でもない。

・・・

ぼくは日本でまったくひとりで生活しているのだが、真っ暗な家に帰るのが大好きだ。・・・ドアを開けて何も反応がない事、それはすばらしい。朝目覚めて家中に誰もいないこと、これも心がうきうき弾むほどすばらしい。

・・・

マジョリティ=善良な市民は、想像力が恐ろしく欠如している。こういう人間が生きていることを否定しようとする。

 

 

そういえば、見る神や【妄想】他者的な表現を他にも見つけた。

・・・景色の中には自分も含まれているんですね。景色を見る時は、景色の中の自分も見ます。つまり景色の中にいる自分とは別に、それを眺める<自分>がいる。自分が景色の中を旅する車だとすると、それとは別に車を運転する<自分>がいる。

・・・

自分を乗りにくい車に喩えるんです。その上で、運転される自分と運転する<自分>を分けてみます。そして、運転する<自分>だけを、本体だと見做すんです。つまり、自分を<自分>へと縮小して抽象化するんです。

すると、<自分>は自意識から離れ、自意識が「運転される自分」になります。そうして、世界と自分を含めたすべての情報空間を、外側に括りだすんです。すると、情報が自分に侵入してきてオーバーフローする事態を、避けられるようになります。

人生が景色だというのは、世界と自分を含めた全情報空間を外側に括り出すことに当たりますよね。外側に括り出した後に残るのは、抽象化されて点にまで縮小した「運転する自分」です。 

 明らかに瞑想的ですねえ。でも、こういう表現に多数触れていて思うのだが、こういうのっての「乖離」「解離」とか「離人症」とかに近い気がする。ここら辺の関連が書かれてる本にはお目にかかっていないな。

これまでの記事に示したように多数の例があるので、おこがましくも、もうほとんど確信しているのだが、人生の奥義というのは、やはりこのような感覚にあると思う。

 

何か今日はすごく引用ばかりしたくなる日だったな。