あらゆる人々に見る(診る)神が

自分が孤独に苦しむ時間が長かったからか、一人でいる人々を見ると、どうしても「大丈夫かな」と思って自分までしんどくなってしまうことが多かった(全然利他性じゃないですよ。むしろ自分がしんどくなっちゃうから嫌だという利己性)。

というか、自分自身、別に孤独や承認感覚の欠如を克服できているわけではないので、一人でいるひと、とりわけ一人で険しい顔をしている人を見ると、反射的に悲観的な目で見てしまうというところがあった。

更に言えば、人と一緒にいたり、カップルを見ても、何となく孤独感が漂っているような人を見ると、辛いだろうな、という偏った見方になることもある(もちろん逆に、満たされているようで羨ましいな、と感じたり、羨望どころか嫉妬を覚えることもある、いや多分、こちらの方が多いんだけれども)。

 

でも、最近の記事で示したような考え方を少しは持てるようになったので、孤独そうな人を見ても、あまり悲観しないようになった気がする。

「本人は気づいていなくても、この人にも『見る(診る)神』がついている」というように思える時が多くなった。後は、自分でそのことに気付く、いや、気づくというより、そのこと自分で発見して腑に落とすことができればいいなあ、と思う。

 

ちなみにこの見方ができると、楽しそうな人々やカップルなどを見て変に羨望や嫉妬をすることも減ると思う。どんなに連帯していても、彼ら彼女らも一人一人の別個の人間であるという事実が見えてくるから。それぞれの個に、それぞれの「見る(診る)神」がついており、それこそが最後まで自分を裏切らない絶対的な味方たりえるです。その事実に気付かずに行う連帯は、あまり安定的なものではない気がする。

いやもちろん、そこから学ぶことも多いわけですが、やはり、「見る(診る)神」が自分には存在すると(無意識的にでも)悟った、その意味で安定した人間同士が結ぶ人間関係が、一番安定的でしょう。一般的に言えば、本当の意味で自分を大事にできる(肯定できる)人間同士の関係が、一番安定的である、という言い方もできると思います。遠いな~。

 

ちなみに、こんなことを言うと、「こいつ宗教に走っちゃった」という声が聞こえてきそうですね。でも、前回までの記事にも示したように、僕が考えるに、人は、「常に既に」【妄想】の中の他者の存在を想定しています。

(そこが人間とチンパンジーの違いです。人は仲間の不在にも仲間の存在を想像(妄想)できるが、チンパンジーにとっては、目の前にいない仲間は、もう物理的に「存在しなく」なってしまう。山極寿一氏のゴリラ研究によると。つまり、人間はチンパンジーと違って【妄想】する生き物なのです。

更に言えば、チンパンジーは「目の前で為される」パートナーの自分以外の異性との性交にだけ嫉妬します。対して人間は、パートナーの不在にも「他の男(女)といるんじゃないか」とか、妄想して嫉妬します。何とも人間は【妄想】と親和性の高い生き物です。

多分これは、人間が言語を獲得しちゃったからでしょう。そういう意味で、【妄想】は「言語的に構成されている」とも言えそうです。

悟って【妄想】から抜け出られない間は、どうせだったら【妄想】をうまく使いこなしたいものです。)

そういう意味で、なんの理論的根拠もなく盲目的にそういう存在の「実在」を妄信することとは違うと思っています。

 

もちろん、これは副作用もあるので要注意だ。

つまり、「見る(診る)神がついてるんだから、孤独なんかじゃないでしょ。大丈夫でしょ。」と言って、現に孤独に苦しんでいる人々を見捨てる言い訳にもなるからだ。

ただ、現実問題として、現時点では、自分には他者の孤独を癒すだけのエネルギーがない。いや、実際にそのような場に置かれ、そのような人々を目の前にすれば、そうしたエネルギーが湧いてくるかもしれない。しかし、現に体を動かしてその場に赴くということを、自分はしていない(例えば、ホスピスにボランティアに行ったりとか)。この感覚が、自己否定にもつながっている多くの要因のうちの一つでもあった。

 

ただ、最近は、もうそれも仕方ないと思えるようになった。自分のことすら馴致できていない人間なんだから。まずは自分で自分を支えられるようになることだ。他者を慮れる(おもんばかれる)ようになったときに慮れば良いのだと。動ける時に動けばいい(まーそれに、身近に一緒にいるだけでその人の孤独を癒しているってことも、あるかもしれないしね)。多分、しっかりと「見る(診る)神」の存在を自分の中に落とし込み、安定した人間にならないと、人にも安定感や優しさを与えられない。

もちろん、その前にまず他者と繋がり、支え合えば良い、という考えもあるし、そうなれればいいなあとも思う。ある程度はしてると思うが。

まあそこは、どちらの道筋でも良い。

 

ここでは敢えて「孤独」を取りあげたが、孤独以外の様々な辛い感情についても、同じことが言える。

 

それにしても、僕のブログは自分のことばかり書いていますね。自己愛の強さがにじみ出ているようです。

でも、それも最近は別に良いと思うようになった。

自己愛が強いのは良くないというのも、一種の洗脳であるということに気付いたから。社会の都合による何とも理不尽な洗脳ですよ、これは。自己愛が強い人だって、そうなりたくてなったわけじゃありません。

それに、自己愛が薄い人間って簡単に流れに流されちゃいますからね。もちろん、そういう人が大多数いないと社会は成り立たないわけですから、そういう人たちに感謝しないといけないんだけど。

 

ただ、自己愛が強いと、他人ももちろん多かれ少なかれ自己愛を持っているので、ぶつかることが多くなりそう。様々な環境との衝突も起こる。

これを緩和するために

仏教的に自己愛を薄めていく

②①が実現できないうちは、(うまい)【妄想】と【なりすまし】に頼る

という作法を、採用しようと思う。

 

最近の記事で述べてきた②の方法は、つまり、自己愛(によって生じる問題)を自己愛によって解決するという方法なのです。