強みと弱みは表裏一体②

更に「働くことがイヤな人のための本」より

期末テストの一点に、学力試験の席次に、通知表の成績にくよくよすることは、たしかに醜いよ。生きるうえでは弱点だよ。とても生きにくいからね。みんなから厭がられるからね。しかし、私はいまとなって悟ったんだ。みんなこぞって「こだわるな」と忠告してくれたが、このせせこましい醜いこだわりこそ自分の宝ではないかと次第に思いはじめたんだ。

きみの中のこうした弱点をよく見据えることだよ。まだ若いときはわからないかもしれない。しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。

何事にも決断がつかないこと、真剣に戦う前に戦場から退散してしまうこと、こうした弱腰こそかえってきみ自身を鍛える指針になると信じるんだ。自分でも厭になるほどの実力不相応のプライド、うんざりするほどの自己愛と他人蔑視、それと奇妙に両立するはなはだしい自己嫌悪、こうしたことを引きこもっている者は多かれ少なかれ所有していると思う。それらこそ、君を導く羅針盤なんだ。まさにそれらがきみを鍛えてくれ、数々の仕事を準備してくれるんだよ。

・・・

大学教授になるとか、作家になるという目標は、それがかなえられなければ失敗したことになる。それに精魂を傾ければ傾けただけ、悲惨な結果だよね。だが、きみがきみのすべての弱点をそのまま背負ってできる固有のよい生き方を目標にするかぎり、失敗はない。・・・

 

 「しかし、長い人生の道のりにおいて、弱点と思ったことが存外自分を救ってくれることにきみも気がつくと思う。」

これは、自分の人生に照らし合わせても本当にそうだと思う。いっぱいあるのでわざわざ例は挙げないけれども。「強みと弱みは表裏一体」の記事で出した例はそうだね。

 

まあ直近の小さな例だけ挙げようか。

僕は人との距離の取り方が分からなくなることがある。というか人の話を聞いていないことも多い。訓練によってかなり改善したが、昔からそうだった。それに、忘れ物、置き忘れ、などが異常に多い。小学生の時の通信簿18クール全てにおいて「人の話を聞けない」「忘れ物が多い」と評されたくらいだ。今から考えると完全に発達障害の症状だった。これらはすべて、現実世界への意識の低さが原因の一つだと思う。

 

しかし、確かにそれらが僕を救ってくれている面もあるのだ。

距離の取り方が分からず忘れ物が多い、これらの特性はしばしば天然と評され、人々の笑いを誘う。それが良い方向へ進むことは多い。先日友人宅へ泊まり込み、数人で遠出もした。遠くの滝を見に行ったり、鳥取砂丘まで見に行った。集団生活が苦手な僕が長時間人と共に過ごすわけだが、天然な特性がプラスに働いた場面は数知れない。まあ彼らとは付き合いが長いので、お互いの特性をかなりよく理解していることも大きいが。非常に楽しく過ごせた。

 

現実への意識の低さは、現実の厳しさから自分を守る事にもなる。 

人の話を聞かないから余計な情報が入ってこない。これは、人並みの人生を歩まなければならないというプレッシャー(洗脳)を軽減する。ある意味、普通の人生行路から外れてしまうという弱みだ。しかし、それが長期的に見て適切な選択を導くことも多いと思う。

例えば、皆結婚したいと言うが、今のこの時代にホントに満足のいく結婚なんかできると思いますか?なかなか難しいでしょう。僕は現実認識(結婚するのが当たり前という認識)の低さによって、このような洗脳やプレッシャーから比較的解放されているので、結構冷静な判断ができる。その方がまだ結婚に成功する確率が高いんじゃないかな。それに、結婚の失敗はかなり地獄です。それなら独り身の方が絶対マシだと思う。

また、学校に行くのが当たり前、というのもそう。僕の無意識が「学校行かなくても大丈夫」と判断した。で、5年間プラプラしながら、ゲームで英語力を鍛えていた。ほとんど何も努力してない。でも、結局最終的にいい大学に入れてる。これも、「学校に行かなきゃならない。受験を勝ち抜きいい大学にはいらなきゃならない。」という洗脳やプレッシャーがあっては歩めない航路だ。僕の母親はものすごい教育ママだったが、現実認識の低さで乗り切れた部分も多いのだ。

就職についても、尋常じゃないくらい手を抜いていたが、結局いいところに就職できた。はっきり言って、僕だから続かないのであって、普通の人からしたら超絶ホワイト企業ですよ。休み異常に多いし、僕の場合更に休みまくってたわけだが、その割には給料も結構いい。これも、「就活頑張らなきゃ!いいところに就職しなきゃ!」というプレッシャーや洗脳が少なかったから冷静な判断・冷静な面接対応ができたことなどが大きい(面接がうまくいったので孫会社から子会社に引き抜かれ、その子会社が親会社とほぼ同じ待遇だった(ほとんどが親会社の社員)。むしろ成績のいい、かつ最古参の部署なので、保護されており、親会社より給料がいいことすらある。学閥でのパーティがあったが、新卒社員の僕の部署への配属希望者がどれだけ多かったことか)。

そもそも、これから40年以上(僕らが年を取った時代にはもっと長いですよ)一つの会社で働くなんて息苦しい事がホントにできると思いますか?それができた後には相当つまらない人間になってると思うけどなあ。それに、一つ目の就職先がいきなり自分にピッタリであるなんてことが早々起こるわけないと思いませんか?20代の自己分析なんてほとんど当てにならないんですよ。なら、一つ目の会社は結構適当に選んでも大丈夫なんです。新卒切符を使って待遇がいいところを選べばいいんです。むしろその方が、自分の先入観から解放されて、今回僕がしたような発見もできるかもしれない。しかも、これから10年20年と経つと、社会も激変していますよ。ハイパーインフレで、貯金なんて吹っ飛ぶかもしれない(金(ゴールド)に変えたりしてたら別だが)。現在のうすっぺらい価値観にしがみついていてもしょうがない。もっと普遍的な価値観にしがみついた方が良い。更に言えば、その洗脳を、適した洗脳を、その都度選べればいい。結局、好きなように色んなことに挑戦し、自分の特性に合ったことをできればその方が最終的に得をする確率が高いんじゃないかな。僕の特性が、こういう大局的な見方を可能にしたように思う。でも世の中は電通自殺事件に代表されるような価値観に染まっている。歯を食いしばって苦手な仕事にも取り組むべきだ、自殺しても、みたいな。僕ですら染まりかけた。ここでも、本来弱点であるはずの僕の特性が、その歯止めとなった。

 

何か気づいたらいろんな例を挙げてた。このほかにも枚挙に暇がない。

この、弱みと強みの表裏一体性という意味では、映画「チェンジリング」の宮台の評論を思い出す。

http://www.miyadai.com/index.php/index.php?itemid=734

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。

 

以下引用

■以降、このモチーフが繰り返し反復される。感動の再会であるはずが息子の替玉をあてがわれた際も、激昂するでもなく、手を口にあてて息をのんだまま、警察の要請通り、記者のカメラの前で「感動の再会」のポーズをとってしまう。ここにも極端な「遅れ」があろう。
■替玉であることを訴える母親と、それを無視する「悪役」ジョーンズ警部との、やりとりにも「遅れ」がある。母親は警部の高速のリプライにまったくついて行けていない。たぶん聞こえていない。だから「あなた方には息子を捜す責任がある」と返すのが、やっとなのだ。
■この映画をよく観てほしい。「母の強さ」に視えるものも、「権力を恐れぬ意志」に視えるものも、すべてはこの「遅れ」に由来している。そう。この「遅れ」ゆえに、比喩的にいえば、「普通の人には命中してしまうはずの弾丸が、クリスティンには当たらない」のだ。

・・・

喜怒哀楽の反応が人よりも「遅れ」るアンジェリーナ・ジョリーの演技──いわば受動性の演技──は、この南軍兵士を髣髴させるものがある。二人は共通して、離人症的ないし幽体離脱的な疎隔(による〈システム〉からの脱落)を、実にみごとに演じきっているだろう。
■疎隔による〈システム〉からの脱落が、脱落した者に死をもたらすこともあれば(『白い肌の異常な夜』)、脱落させた〈システム〉に死を宣告することもある(『チェンジリング』)。後者にだけ注目すると、イーストウッドは「社会派」の面目躍如ということになる。

・・・

■単なる「世の摂理」(としての「人の原罪」)をディスクリプト(記述)するのみならず、彼の映画には極めて珍しく、世を相涉るための知恵として「遅れ」をプレスクリプト(処方)している。人によっては違和感を感じるかも知れないが、私はこの処方箋に連なりたい。
■全てにおいて映し出された「遅れ」が、単なる役作りを越えて、〈システム〉に対する根本的な違和として生き続けるための処方箋となることで、〈システム〉は人を裏切るというイーストウッドの右翼的確信を補完している。これが彼の設計によるのか否か分からない。

・・・

私が「遅れ」のプレスクリプションに敏感なのは、私自身の感覚がいつも「遅れ」るからである。この「遅れ」はそもそも3月生まれで発達が遅れ気味だった上に、小学校のときに六回も転校して周囲から疎隔された感覚を味わう経験が積み重なったせいかもしれない。
周囲が冗談を言いあって笑い声をあげても、私がその中に入ることはできなかった。集団行動でアレをしましょうコレをしましょうと言われても、私は何を言われているのかよく分からなかった。私がヤクザの子供たちに庇護われる存在だったことも、それに輪をかけた。
世間の「いい」「悪い」の道徳的判断にうまくついていけなかったのだ。道徳的通念についていけずに「遅れ」をとる私の存在形式は、世間的に処断される援交女子高生をフィールドワークしたりオウム信者を取材する際に、ある種のアドバンテージとして働くことになる。
口に手を当てたまま佇んでしまう母親クリティン・コリンズの、誰の目にも焼き付けられてしまう印象的な所作が、単なる受動的なパーソナリティの表現であることを越えて、ソツなく回る〈システム〉を逆に凍りつかせるための戦略として機能していることは間違いない。

・・・

〈システム〉にはコンピュータと同じように作動クロックがある。人々の反応速度が作動クロックにシンクロしたものである限りにおいて〈システム〉は円滑に回転する。そこに、シンクロしない人間が現れて周囲を巻き込みはじめれば、〈システム〉は確実に阻害される。
今回の作品はそれを推奨しているように受け取れる。私もそう書いてきた。だがイーストウッド作品のいいところは両義性を正直に提示するところにある。どのみち人を裏切る〈システム〉を阻害するべく「遅れ」よ! だがそうした推奨も所詮はイデオロギーにすぎない。
イーストウッド作品では、観念で戦う人は疑念のまなざしでしかみられない。クリスティン・コリンズが警察相手に戦ったのは、観念によるのでも、ましてイデオロギーによるのでもない。「遅れ」る女が、関係性への執着から、歴史に名を残す存在になったにすぎない。

 

まあ、「遅れ」(僕の現実認識の低さと似る)という弱みが強みとなり、それがやはり弱みともなる、という映画です。

 

こういうのを見るにつけ、やはり人生は面白いなあ、と思う。

決して見通せない、張り巡らされた糸の目。死ぬまで結果が分からないあみだくじ。世界の未規定性。

湊かなえ

湊かなえ原作のドラマ「リバース」。おもしろかった。

映画「告白」「白ゆき姫殺人事件」も。「贖罪」も。今は「Nのために」を見ている。

 

彼女は最初に物語に対するメタ的視点を持っている。そこから小さな個々の視点を考えていく。僕の感覚との親和性を感じる。

読者または視聴者には逆の道を歩ませる。まずは小さな個々の視点を示していく。だんだんとメタ的視点、物語の全容が浮かび上がってくる。

 

群像劇がうまい。個々の多くの視点的な群像劇を見せることによって世界の全容を浮かび上がらせる。<世界>を見せる。

 

 

世界のカラクリ

圧倒的な知識(「小さな知識」であるリベラルアーツと「大きな知識」)によって、世界のカラクリを知る。

それによって世界に何が必要なのか、自分が何を成すべきかが分かる。

分かればいいなあ。。。

 

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強みと弱みは表裏一体

有休を使い果たし、休職期間に入った。

猶予期間は残り日ほど。これまでに復帰しなければ自然退職となる。

ほぼ間違いなくそうなる。もう戻りたくない気持ちが凄い。よっぽどの心理変化が起きない限り、退職になるだろう。

 

でも、会社勤めをして良かった点もあった。

一つは、自分の特性の一面を理解できたことだ。

仕事というものは、容赦のない他者からの評価に晒される世界だ。良い上司に当たれば、仕事の評価、どこが良くてどこが駄目だったかを的確に指摘してくれる。

はっきり言って直属の上司はそのあたりの見極めが下手だった。部下への仕事の采配が下手。僕の苦手な仕事、主に事務処理能力を求められる仕事だが、そういう仕事を僕に割り振り、結果、グループ全体の生産性が落ちたように思う。

僕の弱みは事務処理能力の低さに加え「当事者意識の低さ」だ。

これをはっきり指摘してくれたのは直属の上司ではなく、たまたま数か月前にこっちに赴任した人だった。人事・総務に20年以上関わってきた人。人事経験から人を見る目があるし(人事でも全く人を見る目が無い人もいるけど)総務経験から会社全体のことを把握している(総務は雑用的な仕事も多いが)。

「当事者意識の低さ」。これは明らかに弱みだ。「自分がこの仕事を進めていく」という意識が低いのだ。何となくポワ~ンとしていて、どこか目の前の仕事への意識が低い。それが事務処理能力の低さ、具体的にはミスや納期の遅れの原因にもなっていたと思う。

個々で僕は、中島義道の本「孤独について」で読んだ内容を思い出した。

これまでの人生を振り返って、自分の真の適性を見いだすこと。そして、それがわずかでも見えてきた人は、それを力あるものに鍛えることである。孤独を求める人には、それしか生きる道はない。だから、真剣に求めるべきである。どんなに迷い続けても求めるべきである。

その場合、自分が何に躓くかをよく見ることが必要であろう。みんなが造作なくできることに自分ひとり躓くことがある。そして、そこに自分の適性へのヒントを読みとることを私は学んだ。私がどうしても給食の肉を食べられないことのうちに適性のヒントはある。(今なお)ボールが転がってくると恐怖に襲われることのうちに適性のヒントはある。私が小便をこらえ続けたことのうちに適性のヒントはある。つまり、私の不適正のうちにこそ私の適性のヒントはあるのだ。

あなたが、思い出すのも鳥肌が立つほどの辛い体験があるとしたら、自分の最大の欠点を自覚しているとしたら、目をそむけたくなるほど嫌な自分の一面を知っているとしたら、それから目を逸らさず、それらをとことん観察しなさい。そして、それらを大切に育てなさい。そこにかならず、「固有の自分のもの」へのヒントが見えてくるはずである。あるいは、どんなに努力しても効果のないときにこそ、私はそこにヒントを読みとる。 

 不適正のうちに適性のヒントがある。まさに慧眼。

僕が今回赴任した上司から言われたこともそうだった。

最初は叱られた。仕事に対して「当事者意識が無い」「傍観者的だ」と。

しかし、ある案件について直属の上司に抗議した時、その内容を聞いて陰でこそっと「君が正しい」と言ってくれた。そして後からこう言った。

 

「君が当事者意識に欠けること。仕事に対して傍観者的であることは間違いない。これはかなり多くの場合、仕事において欠陥となるだろう。しかし、今日の君の抗議内容はまぎれもなくど真ん中の正論だった。大局を観ることができていないとあのような反論はできないよ。

当事者意識に欠ける。傍観者的な立ち位置から抜け出すことができない。これらは言い換えれば『第三者的な視点、俯瞰的・鳥瞰的な視点を獲得してしまっている』ということなんだ。世の中に対する視点というものは人によって違うが、君はかなり遠くから世界を見つめているタイプだね。それが君の強みでもあり弱みでもある。弱みはさっき言った通りだけど、もう一つ言うと、君は細かいところに囚われるとダメなんだ。というか、細かい所を見るのが苦手なんだね。だから忘れ物をする、言われたことを忘れる、それどころか右から左に抜けていることもある。事務処理能力が低い。だがそれはさっき言った強みの副作用でもあるんだ。形而下的な事柄が苦手な君は、形而上的、もっと言えばメタ形而上的な視点から世界を眺めるのが得意なんだ。そういった特性は『大局を読むことに長ける』『情報を総合的に精査して大まかな方向性を決めることに長ける』という強みを生み出すんだ。だからあのような反論が可能になったし、直属の上司も反論に窮したというわけだ。」

 

まあかなり言い方は変えているが、だいたい上記のようなことを言われた。そして驚いた。まさしくその通りだと思ったからだ。でも、人から言われるまではこんな簡単な自分の特性にも気づかなかった。

今まで書いてきたこのブログを見ても分かる。僕がどれだけ「メタ視点」「無限回廊的世界観」「抽象度の高い視点」を大事にして、それらの記録に時間と手間を割いてきたことか。まさに「鳥瞰的・俯瞰的視点」だろう。

一方で、日常の些細な事柄について書き記すことは少なかった。そういう細かいことを書くのがめんどくさいのもあるが、そもそもそういった細かい日常的なことを記すことに対する興味が薄いのだ。つまり、おそらくはそういったこと自体にも興味が薄いのだ。あくまで相対的には、という話だが。

 

自分のこのような特性についての気づきは、本当に大きかった。今までのアルバイトにとことん躓いてきたのも合点がいく。発達障害にも合点がいく。プレゼンではうまくいったのも合点がいく。記者を志したことにも合点がいく。形而下的な狭い視点に立つことが苦手であるからできないのだ。そしてそもそもそのような世界観、世界に対する視点に興味が少ないのだ。だから、間違える。興味が無いから集中できない。

 

一方、休職に入る前に与えられた仕事では強みが発揮されたように思う。ホームページの内容を考えることを任されたのだ。社員がワンストップで様々な情報や問題の解決法を知ることができるようなホームページが求められていた。

まず、何が求められているか、その候補を割り出すために、あらゆる自社関係のホームページの情報を大雑把に洗った。その量は膨大だった。つまり、「森から入った」のだ。そして、それらのコンテンツから更に重要なものを抽出し、「分類」した。具体的には大まかな分類とリンクの階層をどのようにするかを考えた。仕上げに階層化されたコンテンツをエクセル表という形に落とし込み、補足を加えた報告書で示した。

報告書をもとに会議で更に洗練させていくつもりだったが、その前に会社へ行かなくなり、報告書だけを共有フォルダに残した。「後の細々としたところは皆さんでこの報告書を参考にして考えてください」という意思表示だ。

この報告書を見た途端、直属の上司の対応が変わったように思う。とにかく僕に戻ってこさせようとしているように感じた。烏滸がましい言い方だが、恐らく僕の特性に気づいたのかもしれない。「こいつはある特定の分野(俯瞰的視点が要求される分野)では使える」と思ったのかもしれない。だが、こちらとしては「もうあなたたちと会議などしたくありません」という気持ちだ。こちらとしては、最後に自分の特性を確かめるkとができて良かった。

 

僕は、木からはいるのではなく森からはいるタイプだった。この特性を自覚すれば、仕事だけでなく生活のあらゆる場面で対応が変わってくる。

人にはそれぞれ特性がある。僕も自分のこの特性をできる限り把握し、世界と関わっていきたい。広義の仕事において特に、この特性を発揮できればと思う。

 

とりあえずワーホリでも行ってみようかな。30歳までだし。それかすぐに就職先を探すか。色んなことをやってみるか。

さてさて、どうなるか。

というか、何度もブログで使ってきたこの言い方がすでに「傍観者的・第三者的」つまり「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」だよな。普通は「さてさて、どうるか」だろう。

言葉一つとっても特性がよく分かる。自分の人生に対してすら「傍観者的・第三者的」「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」なのだ。

自己分析すると、まず、先天的に僕はこういう特性を持っていた。いつもボーっとしていて、空想に浸っていたり、現実に対する意識が低い。運動会でもボーっとしていて、走る方向を間違える(皆と逆向きに走る)。ボーっとしながらふらっと教室を抜け出して一人で遊んでいる。今はもうしてないが、絵を描いた。ノート上でゲームを作って友達を遊ばせた。長編小説を書いた。漫画を作った。進路についてもボーっと決める。ボーっとしながら何となく高校を中退する。現実に目がいかない。先天的にそういう「性質」なのだ。

更にこの特性は子供の頃に(つまり後天的に)拍車がかかる。上記のような性質は異物扱いされることも多かったので、いじめもあった。かなり強烈な。家でもひどい状況。非常につらい状態だった。そういう時、離人症的な感覚によって自分を守ってきた。心理学ではスプリッティング(分離)とも言うようだが、自分の苦しみと自分の本体(というか視点)を分離するのだ。自分が苦しんでいるのに、赤の他人が苦しんでいて、本体である自分は俯瞰した視点からそんな自分(他人)を見つめているという感覚。

先天的にも後天的にも、こういった感覚が強い。僕が仏教に異様に興味を示したのも、こういう感覚が似ているからだろう。

僕が好む著者も似たような感覚の持ち主が多い。

このような感覚の引用がどれだけ多いか。

nobunaga0101.hatenablog.com

↑この記事全体もそうだけど、瀬戸内寂聴の引用↓とか

遁世の閑居の孤独に耐えかねた心情が歌になって昇華されてしまうとき、西行の孤独は既に客観化され、孤独から抜け出しているのです。

西行にとっては、仏道や自然以上に、歌が孤独を慰める何よりの友となっていたわけです。

 

私たちが日ごろ孤独をそれほど切実に感じないで、のんきに暮らしていけるのは、孤独が怖いから、つとめてそれを見て見ぬふりをして、ごまかしているからです。 

・・・

嵯峨野で・・・虫の音が次第に数を減らし、ふっと気が付いたら一声もしなくなっているのに気が付きます。

そんな時、この嵯峨野の一隅の庵の中でたった一人いる自分の姿を、幽体離脱者の目で眺める自分の、もう一つの目を感じることがあります。その目から見たら、この私の姿はひどく孤独で寂しそうに見えるだろうなと思います。 

 苫米地の引用もまあこう言う感覚と近いとも言える↓

・・・孤独というのは主観的な発想だということです。・・・西洋的個人主義が礎にあるから、自分を中心にして考えられているのです。この世に本当に孤独な人なんているのでしょうか。みんな誰かと関係して生きているはずです。

・・・

六十六億人(2015年当時)も地球上に人がいるのに、なぜ自分が孤独だと思うのでしょうか。つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 

宮台の引用もど真ん中ですね。↓

・・・景色の中には自分も含まれているんですね。景色を見る時は、景色の中の自分も見ます。つまり景色の中にいる自分とは別に、それを眺める<自分>がいる。自分が景色の中を旅する車だとすると、それとは別に車を運転する<自分>がいる。

・・・

自分を乗りにくい車に喩えるんです。その上で、運転される自分と運転する<自分>を分けてみます。そして、運転する<自分>だけを、本体だと見做すんです。つまり、自分を<自分>へと縮小して抽象化するんです。

すると、<自分>は自意識から離れ、自意識が「運転される自分」になります。そうして、世界と自分を含めたすべての情報空間を、外側に括りだすんです。すると、情報が自分に侵入してきてオーバーフローする事態を、避けられるようになります。

人生が景色だというのは、世界と自分を含めた全情報空間を外側に括り出すことに当たりますよね。外側に括り出した後に残るのは、抽象化されて点にまで縮小した「運転する自分」です。 

 

こっちの記事↓だと

nobunaga0101.hatenablog.com

 

これも記事全体がそうだけど、園子温の引用↓とか

「もう一人の自分と仲良くなれたら本当に幸せです。ひとりで死んでも孤独死ではなく、安らかな死と言えるでしょう。死ぬ間際にも、優しく慰めてくれるに違いありません。『いまあなたは無様に倒れてしまい、看取る人もいないけど私がついていますよ』と。求めず慌てず、自分との関係性を気付いていくことが大切です」

「自分自身と安定的な関係を築くこと。もっといっちゃうと、自分自身と溶け合えるということは、最大の幸福ですよね。」

「家に帰って一人で落ち込むのはなぜかというと、外で他人と一緒にいた時の自分の情けなさや嘆かわしさにもう一人の自分自身が怒っているからです。自分以外に人を責める人間はいないわけですから。人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる。だからこそ反省をするし、後悔もする。もう一人の自分にそういうことをさせられちゃってるんですよ。となると、いかにもう一人のじぶんと和解できるか、仲良くなれるかがものすごい重要です。」 

斎藤環↓の引用とか

大学時代の私は いまでいう「コミュ障」だった。

・・・

いまの私が診察したら、「ちょっとアスペルガー症候群の可能性が否定できない」くらいは考えたかもしれない。

・・・

ひきこもりの青年を見ていていつも思うのは、一歩間違えれば自分も同じ境遇だったという確信だ。彼らの悩みは、とうてい他人事には思えない。私の書いたひきこもり関連本がそれなりに評価されているとすれば、それはこうした「当事者への過剰な思い入れ」ゆえだろう、と勝手に考えている。

ただ、私とひきこもりとで決定的に違う点がある。われながらあきれるのだが、私自身は、決して自分自身に愛想を尽かすということがなかったということだ。当時の私は、並外れて自己愛が強かったのである。自己中心的という意味ではない。謙遜や他人への気遣いも、つねに「それが自分自身の利益になるから」ということを意識しているような、こすっからい若者だったのである。・・・対人恐怖の感情の基礎には、こうした強い自己愛がしばしば潜んでいる。私もそうした意味で、自己愛の強い若者だった。

・・・

こういうことを書きながら、私はべつに特別な自己開示をしているつもりはない。それというのも、私は自己愛が強いわりには、いつも自分自身を外側から見ていたからだ。「この一風変わった人間が、このシビアな状況に置かれたら、どんな反応を示すだろうか」、これが私の自己愛のかたちだ。つまるところ私の自己愛は、私というよく分からない存在がどういう変化を遂げていくかということに対する”好奇心”なのである。

・・・「好奇心」や「自己愛」も重要ではないかということだ。厳しい状況に置かれて「失敗したらどうしよう」と自分で不安を煽りたててもしようがない。むしろ一歩離れた視点から、「さあたいへんだ。いったいどうなる?」と無責任に事態を眺める「見物人」の立場くらいでちょうどいい。

 

もうこういう感覚のオンパレードだな。
そもそも「妄想の他者」とか「もう一人の自分」とか「観る(診る)神」とか「無限回廊」とかの自分の造語もまさしくこういう感覚から生み出されたもの。よく使う「メタ的」とか「高い抽象度」とか「客観性」とかの一般的な言葉も頻繁に使うが、これらもまさしくこういう感覚から。
今から考えると映画の見方も俯瞰的だなあ。
こんなにヒントがあったのにちっとも気づかなかった。これほどまでに自分の事には気付かないということだな。

 

それに会社で気づかされるとは。たまたまちょっと前に赴任してきた上司が言ってくれた。彼が赴任しなかったらこの先もかなり長い間気付かなかったかもしれない。ほんと人間万事塞翁が馬感謝。

 

そして、ここまでの人生を見返したとき、なんかもう、ぜ~んぶ繋がってる事に気付く。

ホント、無意識的に選んでる。

そして、またもあの言葉を思い出す。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?」

 

僕は、「(自分も含んだ)世界の観察者(観測者)」になりたいのかもしれない。

さて、(自分も含んだ)世界、一体どうなるのか。

会社あれこれ

仕事行きたくなさが最高潮に達している。ストレスのあまり、左肩甲骨から左首筋、左頭にかけての痛み、そして右のリンパの腫れが生じている。ボーナスだけを目指して会社に行っているが、もう辞めることは決定だな。ここまでくると迷う必要がないので、そういう意味では楽だ。

 

具体的な次の職探しには動いていないが、打つ手はある。というか、自分の色々な条件を鑑みれば、日本では、生きていくだけに目的を絞れば、結構ユルゲーだ。多分。

でも、これはあくまで自分だけの場合。親戚とか親とかも、にわかに色々な問題を抱え始めたようだし、それらを手助けしなければならないとなると、少しは話が変わってくる。まーでも、余裕でなんとかなるだろうけど。悪い事というのは一気に起こるものだな。でも、これだけ色々な問題が起こっても何とかなるというのは、いろいろ問題はあろうが、日本という国はやはり恵まれた国ではあると思う。

 

実際に色々な問題が起こって、それでも何とかなっているのを見ていると、「何とかなるもんだなー」という安心感も得る。日本の平均に比べれば、僕や僕の周りは見えない条件も含めると、恵まれてない方だと思うのだが、何とかなる。

 

ところで、日本には未だに多くの自殺者がいる。自殺には複合的要因が多いと聞いていたが、そうだろうなと思う。悪循環が止まらなくなる、ということがあるのだ。

例えば自分の場合で言うと、

 

先天的な脳機能の異常(発達障害

→仕事に支障

→ストレス増加、経済的問題(を深刻に考えすぎる。見方を変えれば大したことはない。)

→家族との軋轢、職場の人間関係の悪化

→更にストレス増加

という風に。

こういう状態ではなかなか誰かと会う気にもなれないし、家族、職場でも孤立する。家族内でも無視とか攻撃とかあったし(今は完全に改善)、職場でもそう。職場はやはり、立場を利用した圧力ですね。

多分、こういうケースが多いんだと思う。僕が思うに、そこで自殺に傾くか傾かないかの差は、状況の悲惨さの程度の差によるものが大きいが、知識の有無や、気の強さもある思う。この日本で、会社辞めても家放り出されても、(あらゆるセーフティネットを使って)さしあたり最低限の生活はできるということを、知っているか否か。別方向なら、自分を攻撃する人間に対して、全面対立して徹底的に戦うことを覚悟できるか。

 

自分で言うのもなんだが、僕はこういうのには結構強いと思う。昔に比べれば、もし数値で苦しみを表せるとしたら、客観的に言えば300分の1くらいだと思うからね。

でも、実際は10分の1くらいの苦しみは感じちゃってる。なぜなのか。

 

一つには、プライドですね。

もう昔みたいな本当に苦しいときってのは、なりふりかまってられないからな。プライドがなければ、人間は結構あらゆることに耐えられるもんです。でも、それが良い事かどうかは別。プライドとは尊厳と言い換えてもいいけど、尊厳が奪われるのを許した状態で一定期間過ごすことが、その後にどのような影響を与えるかということは、想像に難くない。

だから、僕は会社では自分の尊厳を傷つけないように戦っているわけです。つまり、常に警戒を怠らない状態。これは中々のストレスになる。でもね、尊厳を失った時期があるからこそ、これは大事なことだと分かる。簡単に謝ったり(僕もめんどくさくてしちゃうことあるけど)あんまりしない方がいい。

上司に対しても、相手が高圧的に来たらこちらも高圧的にいく、という感じ。というか、普通に口論してたし、9割自分が悪くても、あらゆる言い訳を駆使して謝らない、ということもやっていた。以前9割上司が悪いのに、こっちが謝るハメになったことがあったからね。そのお返し。

まあ上司からしたら何とも扱いづらい、というか歯痒い部下ですな。1対1なら、勝つのは難しくても、大きく負けることもない。実際、上司の言い分をホワイトボードで説明させるまで追い込んだこともある。ホワイト企業では、パワハラで訴えるとうまいこと匂わせると、結構効く。だって、世間体を気にするからホワイト企業になったんだから、「あの会社訴えられたらしいよ」とかいうのは避けたいわけです。

でも、相手が3人とかになってくると、ちときついですな。一人切れ者を呼んできててね、これはちょっと敵わなかった。社内規定の知識量の差(というか僕は社内規定なんてほとんど読んでない。めんどくさいもん。)やトラブルの経験値の差に圧倒された。まあ、論理的に論破されるんなら納得するよ。そもそも普通の社員ならとっくに自分の尊厳を差し出して謝ってるところだろうしね。でも、そんなことしてたらすぐに社畜になっちまう気がするよ。僕はあるところは強いけど、あるところはめちゃくちゃ弱いから、謝り続けたらすぐ社畜になる気がする。つまり、僕とは違い「謝り続けても社畜にならない強さ」ってのがある人もいるのかもしれないね。分からないけど。

論破されたとしても、態度として「俺は負けてねえぞ」ってオーラを出しとくことにはすごく意味がある。人間のコミュニケーションは、9割がノンバーバルですからね。僕が嫌いなお局がいるんだけど、その人との闘いは特にノンバーバルですね。だから、調子が悪くて、そういう強気でいられないときは、僕はすぐに休んだ。これも、自分の尊厳を守るため。

まあある意味戦争だね。体調悪いのに戦地に赴いたら死ぬでしょう。死にたくなかったら最低限のコンディションは確保して戦地に臨まないと。

 

討論において、社内規定の知識が無いから、なけなしの一般知識を使うんだけど。例えばパワハラとか。実は、実際にはパワハラで訴えるなんて至難の業なんだよね。パワハラって各省庁や自治体によって定義が違ったり、難しいらしいんだよね。というか、そもそも訴えるとかめんどくさいし。

だから、ハッタリかますくらいが一番コスパが良いのです。でも、社内規定や法律に熟知している人には通用しませんわな。

もちろん、あまりにひどいパワハラなら話は別。その時は訴えたり、コンプライアンス窓口がある会社なら、そこへの相談は必須。

でも、ひどくなる前に「俺に攻撃するとひどい目にあうぞ」と匂わせることには、大いに意味がある。特に、高学歴の上司というのはプライドが高い。だから、部下に言い負かされるなんて自分のプライドが許さないから、一度思いっきり反論すると、結構それ以上言ってこなくなってきたりする。負けるのが怖いんですね。そして、その後も隙を見せないことも大事。これが結構疲れるわけです。

結構ネチネチした攻撃は続けてきたりもする。まあ、正直僕の場合、僕みたいな部下を持ってしまった上司に少しは同情する気持ちもあるから、それくらいは甘受している。

というか、もともとはそこまで意地の悪い人ではないんだよね、上司。でも、ちょっと頑固。その頑固さが、部下、特に新入社員、特に僕みたいな頑固な奴には、わざとこっちを困らせているようにすら思う。そうゆう企業文化なんだ、郷に入りては郷に従えと言われればそれまでなんだけど、僕が以前から上司に直談判していたことが、正しかったことが証明される出来事が、先日あった。僕の言うことに耳を傾けてれば、あんな集中砲火浴びずに済んだだろうに・・・

あー、やっぱり新入社員だって足元見て、俺の意見を軽んじてるところもあったんだなあ、と分かってしまって、この上司への元々少なかった尊敬すらも無くなってしまった。

で、まあ色々あって僕と上司の関係は徐々に結構敵対的なものになってしまった。退職の理由No1は人間関係らしいけど、すごいよく分かる。

本気でしたい仕事なら、そして、他に尊敬できる人がいるなどの利点があれば、上司と戦って会社に残ろうとするけど、はっきり言ってそこまでするほどの場ではない。むしろ、いい区切りだと思っている。

 

ちょっと前は、復讐の念に燃えたこともあった。でも、まー自分も相当暴れまわってたわな。そして、上司の心も、お局の心も傷つけている。よく考えてみると。

やっぱ、家庭の事と発達障害があったから余裕がなかったんだよな。今となっては、よくもまあここまで耐えてくれたなって気持ちも芽生えてきてる。はっきり言って、申し訳ないと言う気持ちが、最近むくむくと出てきている。あーあんなこともしてくれたのになーとか。

でも、もう相手は怒ってるからね。特にお局は。ここで変に下手に出ると、急に増長しだす可能性がある。

それでも、最近は上司には素直に謝るときもある(お局は危険度が高いから、まだそこまでしない)。増長しない程度に。尊厳は傷つかない。納得の上での謝罪では、尊厳は傷つかないのです。納得してないのに無理やりさせられる謝罪は、確実に人の尊厳を傷つける。それは子供時代の経験から嫌というほど分かる。まあ、謝罪なんて生易しいものではなかったけど。

 

申し訳ないと思うけど、でも、ボーナスはしっかりもらうし、それまでは諸々の理由から迷惑をかけることもある。これはもう、罪だとしても(法的な罪ではないですよ。倫理的な罪)。倫理的には罪だとしても、僕はボーナスを貰う。

 

心理変化リバース

リバースした。

 

もう一度言うが、明日には「やっぱやーめた。あほらし。」ってなってるかもしれないんだからね(笑)

 

って書いてたが、まさにそうなった。

 

やっぱ、会社行きたくない(笑)

 

昨日のは一時の気の迷いだったか。でも、ボーナス貰ってから辞めるために、あと何日かは行かないとなー。明日は行けたら行きたい。

 

エリートから転落とか今は全然気にしてない。山に行ったからかな。何か気分が変わった。てかそもそもエリートと呼ぶには厳しいし。エリートに必要な能力もないし。

 

やはり、収入低くてもステータス低くても、自分が好きなことをやるのが一番であることに変わりはない気がしてきた。今日山を登ってると。

副次的にステータスや金が入ったら、それはそれで喜ばしい事。ステータスはあんまいらないか。

 

でも、好きなこと、よりも、できること、かもしれない。貢献感が得られるもの。

 

何か昨日の記事は自分の醜い部分が思いっきり出てて面白いな。でも、人間の性格というのは普遍的じゃないんだなあ。今はできる仕事をして貢献して、そこに普通の仲間がいれば、それ以上何もいらないじゃん、と思ってるけど、昨日は「そんなのやだ!俺はエリートに囲まれていきていくんだーーーー!」とか思ってたんだから。

 

大体、僕が求めてる知性は、学歴で決まるようなものではなく、何というか、人生の深淵に対する洞察力というか、そういう感じの知性だったのに。本来は。まーでも、やっぱり、そういう知性も、学歴的な頭の良さと、ある程度相関関係はあるんだけどね。絶対ではない。

 

昨日のは、完全に洗脳されてましたね、あれ。テレビやら何やらが提出する価値観に飲まれてましたな。気を付けねば。

 

なんだかんだ言って、僕は結構小賢しくて、自分に適した人生航路を、無意識的に、本能的に、選択していたんだなー、と思う。エリートで金持ちになるより、ゴロゴロしてられるほうがやっぱり重要な体質なんだ。

でも、それだけもしんどいんだ。だから、自分の好きなこと、できることでもって、無理のあまりない範囲で貢献し、貢献感を持てるようになり、また、そこで仲間ができれば、それで十分なのだ。

きっと、僕がしたいような対話ができる人もいるだろうし。今でもいるけど。

 

とにかく、僕は無理できない体質だなー。昨日みたいな気持ちになる日なんて、せいぜい一年に一回くらいですよ、多分。

 

棚ぼたで手に入った学歴と職歴も、まあ使えるかもしれない。職歴はあまりに短すぎると思うけど。発達障害があるので、障碍者枠とかも考えられるし。

 

そう、そもそもやっぱり、発達障害があるから、エリート的な、全能力が万遍なく高い、みたいな仕事は無理があるのだ。

 

うんうん、やっぱり無理だ。奇跡でも起きない限り。

 

なーんか気が楽になったなー。

 

あと、昨日の記事では、「あっち系」と名指してこき下ろしをしていたけど、やはり彼らと目指すところが似ている部分もあるし、何で昨日あんなに憤りが文章に表れたんだろう。

あれだな、多分やっぱり僕が勝手に信用しすぎてたり依存しすぎてたり、あと洗脳され過ぎてたんだな。で、裏切られた―!とか思ったんでしょう。お子ちゃまだなあ。

 

まあでも、ある意味脱洗脳されたのは確かで、そういう人たちの言うことが全然普遍的でないことも事実。本人は普遍的であるかのように語っているが、ど~んなに賢い人でも、普遍性を語ることはできないんだ。できるのは、普遍的であると勘違いすることだけなんだ。そして、それでいいんだ。僕は、その都度、適切な洗脳を選び取るだけだ。

 

つまり、昨日は洗脳を選ぶ間もなく洗脳されてたということだな。せっかくなんだから、普遍性は得られなくとも、普遍性に「近い」洗脳を選ぶべきだな。

そして、それは心穏やかなものであるはずだ。それが一つの指標になる。多分

 

ところで、ここまで書いておきながら、またリバースしたら、それはそれで面白いな。

心理変化

今、ほとんど人と関わらず、閉じこもった内閉的な世界で生きている。

そして、仕事を辞める瀬戸際まで来ている。

親からの攻撃は止まった。理解が得られた。親も親戚や祖母のことなど、色々なことが重なり、情緒不安定になって、ちょっとおかしくなってたようだ。

今は、新しい仕事を探して、例えば障碍者枠で、のんべんだらりとゆったりと、生きていけばいいではないか、と言ってくれている。こういう精神的なセーフティネットはありがたい。

 

つまり、以前のかなりのストレスフルな環境から、逃れている。自分で楽な道を選択できる。

 

そして、このような状況にあって、自分にじわりと起こってきた心理変化、環境と内面との化学反応によって引き起こされたそれが、自分としては興味深かったので、ここに書き記しておく。

 

何と、会社でしっかり仕事してみたい、という欲求が湧き上がってきたのだ。もちろん、一過性のものである可能性もある。(次の日には、いや、一時間後には、やっぱり会社やーめた、と言ってるかもしれない。僕も現在、情緒不安定なのだ。)

 

大学の友人が有名企業の最終面接にまでいった。多分受かる。それを聞いたとき、これから大手企業(といっても子会社なのだが、ほとんど大手親会社からの出向組で、僕の待遇や将来的な展望の広さという点で、親会社に対し少し見劣りする程度のものである。しかも、今の総務グループ長(阪大工出身)に後釜がいないので、彼が定年退職すれば、自動的に僕がグループ長最有力候補となる)を辞める自分と彼を比較している自分がいた。他の友人も、大手企業でしっかりやっている。

 

恥ずかしい話だ。あれほど無頼気取りで会社には飲み込まれまいとしていた自分の感情が、弱くなっている。というか、会社に残る恐怖と、今の会社から離れてエリート(と呼ぶにはあまりにヘボいんだけど)コースから外れることに対する恐怖があって、退職が現実味を帯びてくるにしたがって、後者がムクムクとその存在感を増してきたのだ。

 

つまり、残念ながら、僕は俗人だったということですね。もちろん、エリートから外れても余裕で生きてはいける。しかし、現実にそれをリアルに想像し始めた時、恐怖に襲われた。何よりの恐怖は、やはり、僕は知的な人間がいない場所では働きたくないということだ。(今の職場には、阪大、京大、東大出がうじゃうじゃいる。僕の直属の上司(グループ長)は阪大工学部出身)。これが僕の、等身大の醜い本音である。

 

僕は、学歴が中卒・高卒のときにフリーターをするという経験をしている。そして、その後に結構な有名大学に入った。この落差は物凄いものだった。

はっきり言って、フリーター時代は、周りの人間も覇気がなく、思考停止状態で、知的な会話など全くできず、僕は完全な欲求不満状態だった。

大学では違った。皆、自分が高学歴であることを無意識に自覚しており、そこからでる自信、パワー、明るさを持っていた。知的な会話ができる。

こう言う形でこの落差を経験している人は、結構稀有だと思う。

退職間際になって、この落差を思い出し、中卒高卒時のやるせなさがフラッシュバックのように蘇った。

 

嫌だ。あそこには戻りたくない。

といっても、当時とは状況は違う。一応今は有名大学卒業という肩書きを得ているし、それなりの企業での僅かながらの職歴もついた。今やめたとしても、年齢的には中卒高卒時の方が有利だったとは言え、当時と今の選択肢の豊富さは雲泥の差だろう。それに、(僕はこういうことには頭が回るのだが)、いかがわしい方法(高学歴の障碍者枠就労というニッチ戦略など)を使えば色々とやれることはあるのだ。

それに、エリートコースでなくても、知的な会話をできる人はいる。それに、知的でなくても、上品なエネルギーに溢れている人がいれば、それでもいい。僕はとにかく、下品な人に耐えられないようです。自分は下品なくせに。

俗に言うエリートコース(僕にすれば、ね。もっと上から見れば全く大したことない)から外れれば、かなりの蓋然性を持って、そこに戻るのは難しくなる。

 

そう、残念ながら、僕は俗物だった。エリート生活を送りたいのだ家賃補助を使ってそれなりに良い一人暮らしの部屋に住み、収入に余裕があり、知的な友人と優雅に酒を酌み交わし、知的な会話をする。そんな生活を送りたいのだ。

仕事においても、レベルの高い仲間とレベルの高い仕事がしたいのだ。

確かに、僕の能力が追い付いていない。しかし、はっきり言って少し手抜きをしてたし、周りに助けを求めることに変なプライドや面倒臭さを感じていて一人で抱え込み、上司の指導も真剣に受け止めなかった。始めから仕事に対する真剣さが足りなかったのだと思う。それらが原因でもあった。そのあたりを必死に埋めていけば、やれる可能性はあるのだ。

 

そして、以前までは、そんなこと全くやる気が無かったのだが、今はできる限り最大限に自分の能力をフル稼働したいという思いがある。

 

こう思ったもう一つの原因は、退職したとして、自分に何ができるのか、と思ったことだ。何もできないじゃないか。高学歴障碍者枠のニッチ戦略は、自分がしたいことを、自分のペースでできるかもしれない、かなり有望な策ではあるが(ここからむしろ本物のエリートになったという事例もある。好きなことをしている人の生産性は半端じゃないからね。そういう意味では、今の企業を退職となったとしても、道はある。門は狭いかもしれないが、何かしらあるのではないかと直感している。可能性は未知数だ。

 

というか当初は、そういう道ではなく、何というか、人の生死や根源に触れる、広義での仕事、本当の自分の根源に根差した生き方、ミッション、みたいなものを望んでいた。しかし、結局はそれにも金が必要だったりするのだ。こういう話は、そういう生々しい話を、神経症的に敬遠する。そこに僕はどうしても欺瞞を感じてしまうのだ。「結局金だろ?」という言葉を、僕は全面的に肯定するわけではないが、完全否定する人々のうさん臭さも感じている。

確かに自分の根源、人生の根源、そういうものに向き合うのが「本当の人生」であり、僕もそれを求めている。しかし、そういう「本当の人生」に関する議論は、「でも(よっぽど人格を含めた才気に溢れているとか、人と繋がっていく力があったりする人とかでない限り)金がなきゃ始まらない部分もあるよ」という残酷な事実をひた隠しにする部分がある。

だって、そういう「本物」を標榜する人たちが、実際に僕たちに何かしてくれますか?厳しい言い方をすれば、講演やって自分の好きなことくっちゃべって、本に自分の言いたいこと書き殴って、それで終わりじゃないですか。彼らが良く言う言葉は「自分を変えるのも救うのも自分自身です」。僕は、ここに大いなる欺瞞を読み取る。中途半端に自分に興味を持たせて自分の世界に引きずり込もうとする割には、結局何もしてくれない。僕が今まで慣れ親しんできた著者などを「洗脳」と見切ったのも、こういうところが大きい。彼らは、自分の正しさを主張し、人々は自分についてくるべきだと主張し、洗脳されてついてきた人々を今度は「甘えるな。自分でやれ」と突き放す。

 

東北食べる通信の講演をしていた人にも同じ欺瞞を嗅ぎとった。農業体験もさせずに雑誌だけ買ってくれって?んでもって吉野家で食ってる人を鶏の餌付けに喩えたり、ランニングする人を揶揄したり、てめーはいったい何様なんだ。片腹痛いわ(笑)そういう事言ってるてめーが一番人間として低劣だ、バーカ(笑)って感じ。人の事情も知らないで、上から目線で、最悪だよ。まー消えていくね。

 

僕はついに、こういう人たちの醜さ、傲慢さを嗅ぎとってしまったわけですね。だから全ては洗脳であると見切り、逆に洗脳を自分の都合のよいように「利用」してやればいいと思ったのです。洗脳をツールとして自由に選び取ればいいと考えたのです。これが僕が思いついた脱洗脳なのです。無限回廊的な。

彼らは「真実」を標榜し「本物」を標榜し「知性」を標榜し、俺は人々に真実を本物を知性を伝えているんだ!と主張するわけですが、その裏は、本人ですら気づいていない支配欲や自己顕示欲、自己正当化欲であったりすることも多々あるわけです。多分そうじゃない本当の意味で本物の人というのは、非常に少ない。どちらかというと、表に出てこない。

 

気付いてしまった今となっては、そっち系の人々の傲慢さは、はっきり言って片腹痛い。主張する割には何もせず、放置し、弱くて洗脳されやすい人々を振り回す。だから、はっきりと、僕はこういう人たちにはある程度の見切りをつけたわけです。

それだけ主張するのなら、そのメッセ―ジにコミットした人間のために何かしてみろよ。てめーらは声高に主張しても何もしてくれないが、てめーらが嫌いな企業とかは、一応働けばちゃんと報酬をくれるぜ?てめーらは何をしてくれた?都合がいいときだけ顔出して人が困ってるときに限って逃げてんじゃないか?

 

とまあ、真実とかを標榜するそっち系の人の傲慢さに気付いてしまって、「こりゃ駄目だ」と思ったわけです。

というわけで、僕の中で、相対的に「真実・真理系」の人々に対するコミットが非常に小さくなりました。宮台とか苫米地とかね。

もう彼らはいいよ。現実的に地に足の着いた道を歩もう。せっかくエリートコースにいる(何度でも言うが、たいしたことはないです。僕にとっては、って感じ)のだから、一度くらいは本気で取り組もう。あっち系より全然マシ。

 

何か、嫌いな先輩や上司がいて、それで辞めていく、というのも、違うと思った。よくよく考えれば、自分が仕事をしんどいと思っていて、それが性格の歪みを生み出し、あえて被害妄想的に彼らを悪者に仕立て上げていたところはある。それもこれも、人間面倒くさい、人間と向き合いたくない、という昔からの僕の逃げ癖のせいだ。

女の子と付き合った時もそうだった。いつも真剣に相手に向き合おうとしない。そして、相手から愛想をつかされる。その繰り返し。自分に自信が無いから、向き合うのが怖いのだ。向き合うと、相手の女の子にはしっかりと芯があって、だからこちらにしっかりと向き合ってくれるのだが、僕はその視線を暑苦しく感じ、自分には何の芯もないことに気付かされて、自信喪失し、逃げ出してしまうのだ。結果、相手の女の子からの評価は「あいつはヘタレだ」となることが多かった(言われてないけど、多分そう思われている)。僕は逆に「あいつ、何でそんなに毅然と人と向き合えるんだ」という感じだった。でも、僕、気の合う男友達とはそれなりに向き合えるんだけどな。何か女性恐怖みたいなのがあるのかな。

僕の課題は、逃げずに、人と向き合うことだ。上司の言葉を思い出す。「しっかりと本音ベースで話をしてくれ。君という人間が見えない。」これは、ちゃんとこっちを向いてくれ、向き合ってくれ、という叫びだったのだと思う。

総合的に言うと、「甘え」という言葉に集約されますね。

多分、僕の心の深い所に到達した傷が原因だと思う。今のこの奇妙な状況で、それに向かい合わざるを得ない状況に来ている

 

まーとにかく、もう一度、しっかりと、逃げずに、向き合って、真剣に、仕事に取り組むということをやってみたい。僕がエリート街道を駆け上がるのを愉しみにしてくれている人もいる。僕はこの人がすごく好きだ。

それで敗退したのなら、しっかりと納得できる。

今は、まだだ。まだ力を出し切っていない今退職しても、不全感が残る。

 

不全感が残る形で、知性のない世界に没落していくことに対する恐怖。これが、今の僕のこの気持ちを駆動している。これは、以前は、尻を叩かれてる家畜のようで嫌だったけど、でも違った。もはやこれは対人での問題ではない。僕自身の傷との対決・問題だ。

 

僕自身の問題だ。その場として、会社を利用させてもらおうと思う。

 

いやはや、でも、こういう環境と自我の化学反応による様々な変化を観察するのは楽しい。受動的に、放っといても、こういう風に千変万化していくわけです。映画を観るより、やはり自分の人生の方がリアリティがあり、圧倒的な臨場感を持っている。自分の人生という物語の観察のほうが面白い。これは普遍的な娯楽であるように思う。

 

そして、それを書き記すことは愉悦である。

 

「全て」が何を選ぶのか。

もう一度言うが、明日には「やっぱやーめた。あほらし。」ってなってるかもしれないんだからね(笑)

それも化学反応により「全て」が選んだ結果。興味深く眺めさせてもらう。


あと、散々「真実系」をこきおろしてきたが、最終的に僕が目指すのはやはりこっちだということは変わらない。

知的で、立派で、格式があり、エネルギーに溢れた正の世界。

ただ、あまりにもエセが多すぎるということ。