ゲシュタルト

最近、自分の頭の中で、これまで学んできた知識がゲシュタルトを構成しようとしている気がする。

 

苫米地や仏教の「空観」、苫米地のいう「レジリエンス」や「前頭前野の介入」、「高い抽象度」という概念。認知科学などの「メタ認知」「情報空間と物理空間」

宮台や仏教の「往相・還相」「<世界>と<社会>」「遊動社会と定住社会」「<なりすまし>(宮台の最近の言説は、ここに力が込められている。映画「ゴーンガール」など)」。キリスト教の「見る神」「神の視点」

矢作直樹などが言う「(気などの)霊力や目に見えないもの」の世界。ボディワーク(瞑想含む)における「自己や世界の客観視(観察)」

他にも、「言語と非言語」

今思いつくだけでもこれだけある(他に思い出したらここに付け足す)。

 

自分の興味の赴くままに学んできたが、バラバラに感じられて、これまで「自分は一体何をしたいんだろう」と思っていた。

しかし、所詮は一人の人間のやっていること。あとになってみると結びついてくる。

一言でいうと、僕は「高い次元の世界に行きたかった」のだ。僕が<超越>という言葉で求めていたものはそれだったのだろう。

世間的な利害損得をなるべく考えず、興味のままに学ぶ。これはとても大事なことなのだろう。

中観思想

苫米地英人は、「空観」「仮観」「中観」という仏教の考えの内の、「中観」を支持している。釈迦の本当の思想は、中観思想であると主張する。

 

「空観」とは、この世の全ては「空」である、という考えで、例えば、目の前に広がる世界も、真実とも言えるし偽物とも言える、という考えだ。これは全く突拍子もない話ではなく、最先端の物理学や哲学の世界では当たり前のことだそうだ。

物理学で言えば、素粒子という物質の最小単位を見ると、それは生滅しているらしい。素粒子の振動数が高ければ、それは「有」る。振動数が低ければ、それは「無」い。真空状態とは、実は全く物質が無い状態ではなく、物質が振動していないだけ、ということらしい。(ちなみに、ここから超ひも理論などが生まれるらしい。そして、それを突き詰め、また、ダークマター論(この世で観察できている物質は全体の10%にも満たない)などを考え合わせると、「パラレル宇宙」の存在を想定したほうが良い、と真面目に考える物理学者もいるようだ。まあ、ここまでいくと、もう僕にはよく分からない世界だが。)つまり、物質とは、「有るとも言えるし無いとも言える」ものなのだ。

哲学で言えば、例えば、「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」という、カール・グスタフユングの言葉を借りて、宮台真司が説明していた。この言葉は、「あなたがどんなに不思議なことを体験しても、それはあなたの『脳内』で起こっている事であって、現実にはそんな現象は生じていないですよ」という内容だろう。しかし、少し考えを突き詰めてみれば、「僕たちが現象と思っていることも、所詮は僕たちが、『現象』という名前をつけた『体験』に過ぎないではないか。」という考えに行き着く。そう、人間はどこまでいっても客観的になれないように、人間は純粋に現象のみの世界に生きることはできないのだ。僕たちは、自分の脳のフィルターからしか世界を見つめられない。そう考えれば、世の中の見方が「空観」に近くならないだろうか。僕たちの見ている世界は、「現象」と見られるものや「客観的」とされるものすら、全て自分の脳から生み出された「幻想」の世界なのだ。しかし一方で、「じゃあお前は崖から飛び降りれるんだな」と言われれば、「いや、怖いから無理」となるだろう。これは、この世界が完全に幻想のみでないことも表している。

つまり、物理学のところで出た話で言えば、この世界は「有」でもあり、「無」でもある。この、「有」と「無」の上位概念(苫米地の言葉で言うと、「一つ上の抽象度」。一般的にいうと、一つ上の次元、というところか)が「空」だ。そして、空観とは、「この世は全て空である」とするのだ。僕も含めてほとんどの人が、この現実世界をガチコに「実在する!」と思っているから、空観はカウンターパートとして、「この世の全ての苦しみも喜びも、幻想である」という主張が強調されやすい。

 

次に「仮観」だが、これは、「世の中の仮の見方」を追及する考えだ。空観では、この世は有るとも言えるし無いとも言えるものだったが、仮観では、この世に「ある特定の見方」を与える。例えば、「お金があれば幸せになれる」とか「土地は多ければ多いほどよい」とか。しかし、世の中はそれを仮初の考えとは捉えず、マジガチで「資本主義には実態がある!」「この世には実態がある!」などと考える。経済戦争や実際の戦争に繋がる。

苫米地は、「ほとんどの人がこの仮観に洗脳されている。資本主義という宗教などに縛られている」とする。

 

こう書くと、空観が素晴らしい思想のように思えるが、実はそうでもない。空観「のみ」を信仰すると、達磨大師のように、自分だけ気持ちよくなって何もしない人間ができあがる(達磨大師は瞑想で最高に気持ちよくなりすぎて、自分の足が腐ってるのに気づかなかった)。この場合、別に積極的な害はないが、それがある場合もある。説明は割愛するが、空観の論理を利用してあれだけの凶悪な犯罪を犯したのが、オウムなのだ(具体的には、オウムの「ポア」の思想)。

更に、これは個人的な経験だが、空観を実践しようとすると、どうしても虚無主義に陥りやすい。かなり空観寄りの仏教観を持っている人として、アルボムッレ・スマナサーラ長老や小池龍之介という僧侶の本をよく読んでいたが、彼らの世界にどっぷりつかっていると、何のやる気もおきなくなってくる(達磨大師のように極めれば、それでも全く問題ないのであろうが、社会的には少し問題な気もする)。

かと言って、仮観だけでもガチマジの戦争が起こる。こちらは分かりやすい弊害だ。

 

だから、中観という思想が必要になってくる。中観は、空観と仮観の良い所を合わせたような思想だ。空観を経由した上での仮観とも言える。

つまり、「世の中は空だ」という空観を持った上で、「この空の世界における仮の目的」を持つ(洗脳ではなく自ら設定した仮観を持つ)、というような考えだ。これを空観を持たずに、ガチマジで世の中を生きるようになると、例えば「弟を殺した彼と僕」の長谷川さんみたいにガチコに追い詰められ、犯罪を犯したりするかもしれない。

しかし、この中観ならば、仮観による目的を果たせずとも、空観的な考えがあるので、ガチで悩んで自殺他殺をするようなことはない。逆に、空観だけだと、「どうせ『空』なのだから、ちょっと悪い程度のやつでも、まあ殺しとこう」みたいな考えになる可能性があるが、仮観があると、「ああ、この人たちにとっては、その仮観の中に役割や目的があるのだ。」と観られる。

 

この中観、つまり「空観を念頭に置いた上での仮観」が、とてもバランスが良いように思える。最近、仏教に抱いていた違和感は、空観を重視しすぎる著書ばかり読んでいたからだろう。空観だけで、かつ空観を極めきれていないと、非常に虚しい人生となる。

僕で言えば、「恋愛で悩みまくる」「人生に悩みまくる」「仕事に悩みまくる」というのは、仮観的なこの世の見方に染まりすぎているのが一因だ。

一方、「この世なんて所詮虚しい」「生きてても特に意味なんてない」「何のやる気も起きない」みたいなときは、中途半端な空観に侵されているときだ。

中観だと、「恋愛も人生も仕事もうまくいかない。でも、所詮それらは幻想だから、全く問題ないなー。」と空観的に捉え、一方で仮観的な考えもあるので「恋愛、人生、仕事・・・全て幻想だ。だから何にもやらなくていい。ただただひたすら世間に背を向けよう」ともならない。

 

「中観」を自分の人生に取り入れたい。もちろん、まずは空観を体感する必要があるんだろうけど。

 

↓の動画の45分くらいから、「空観」「仮観」「中観」の説明があります。

 

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上司と面談 ホームレスのおっちゃんと対話

最近会社を休みがちになっていた(今週は結局火曜日しか出勤できなかった)ので、上司が心配して心療内科の診断を勧められた。

僕としては、この精神的な症状は明らかに仕事が嫌で出ているから、鬱病などはあり得ないと考えていた。案の定、鬱病ではなかった。鬱症状とは書かれたけど、よくある「今、鬱っぽいわー」という症状だけである。会社を辞めれば一瞬で治るだろう。

で、その診察結果を踏まえて、上司から面談を提案された。まずはそのことを考えたい。

 

自分の症状をかなり正直に話した結果、上司も「仕事が嫌で症状が出ている」ということに気付いた。あちゃー、バレちゃったか。まあ、バレてもいいやと思ってたんだけど。

でも、そこからの反応が予想とは違った。「良い年こいた社会人が甘えてんちゃうぞ!」と、丁重に言われると思っていたけど、冷静に「まずは、会社のどんなところにストレスを感じているか考えよう。その上で、会社のその部分で変えられるところは変える。変えられない部分については、別の対処法を考えよう」と言われた。

うっ、何か、思ってたのと違う・・・会社(の上司)なんて社員を奴隷としか思っていないと思ってたのに・・・

 

話し込んでいくうちに、自分の本音もどんどん出てしまった。んで、ついに言っちゃった。

「働いてるせいで休みも力が湧かず、友達と会えず好きなこともできないのが嫌なんです。」

「友達に会えず好きなこともできないから余計に仕事のやる気がでないんです。」

「そもそも根本的に、実は、会社で長い事やっていくのが、ちょっと・・・って感じなんです。そもそも自分の人生について悩んでいるんです。(今も自分のしたい仕事じゃないから、時間を無駄にしているような気がして、鬱になっていてミスも多いんです。でも、お金は欲しいから無理矢理働いてるんです。)」・・・()部はかなり婉曲に言ったので、言葉では伝わっていないと思うが、鋭い人なので、多分言外で伝わっているかも。()部以外も、こんな直接的には言ってないが。

 

上司「・・・うん、そういう人はおるよ。人には2種類いてさ。何でも自分のルールでやりたい人と、誰かの指示で動ける人。前者の人はサラリーマンしていることにすごいストレスを感じると思うよ。そういう人が無理矢理企業の歯車として働き続けることは、本人にとっても会社にとっても不幸やと思うよ。」

おっと、これまた以外な冷静な反応。しかし、これは、辞めろということなのか?給料泥棒扱いされるか?と身構えた。

上司「まー、でも君がどちらかは分からないからな。とりあえず、休職してみるのもありちゃうか?休職するなら心療内科の先生に『会社を休むように』という内容の診断書を書いて貰うこと。そうしたら休んでても給料貰えるから。減額されるけど。」

あれ?何か俺の人生のこと真剣に考えてくれてる?だって会社の利益を考えれば、欠勤扱いにして給料出さないほうが得なのに。

上司「利用できる制度は利用したらいい。しばらくして辞めてから世界一周回ってみるとかもええやろし。ほんで自分がホンマにやりたいことを探すのもええやろ。君はまだ若いんやから、なんぼでもやり直しきくんやから。俺みたいに家庭持っちゃったら、なかなかやり直しなんてきかんけど、それでもやり直そうと思ったらやり直せるんやから。会社の都合なんて考えんでええよ。君が辞めても、新たに人を補填するだけやねんから。」

 

な、なんて懐の深い人だ!何でこんな人が企業にいるの?いや、そもそも会社員はほぼ皆、主流秩序に完全に絡めとられてるという自分の発想が狭量だったのか・・・

でもよく考えてみればこの会社、懐の深さはところどころに表れていた。福岡伸一さんが語っていた働きアリの話を研修の最中に話す人がいたり。

「どんな組織でも、2割は真面目、6割は結構真面目、2割は怠ける。でも、2割の怠け者をリストラしても、残り8割のうちの2割がまた怠け者になるんです。だから、企業も、切り捨てるのではなく、2割の怠け者も受け入れなきゃならんのです。」

この市場原理主義、競争主義の社会において、企業の、しかもかなりの上役がこんなこと言うとは・・・と驚いた。福岡伸一さんがいう、「長い目で見る」ことを地でやっている気がする。そう言えば、長い視点に立っているから、同業他社がリーマンショックでやばい中、この会社は比較的少ないダメージで立ち直った。そして、この業界でのシェア1位になったのだった。

 

ここで今日会った上司の話に戻るが、彼自体が2度も死にかけたことのある人だった。

心臓の大動脈の弁が機能しなくなる病気だ。心臓の大動脈は脳への血管と直接に繋がっている。ここの弁がないと、逆流が起こり、脳への血流量が減少する。それを補おうとして心臓が肥大する(心肥大)。で、その心肥大が原因で、心臓の上半分が機能しなくなったらしい。それである日倒れたと。ステージ4の心臓移植レベル手前の、ステージ3.5だったらしい。でも、ペースメーカーの利用と、人工弁をつける手術でよくなった。

数年して、また倒れた。原因は、人工弁が240°(2/3)剥がれて、その部分が膿になり、大動脈から脳の血管に至り血栓となり、脳梗塞を起こしたからだ。しかも、膿の細菌が血中にしみだし、それを浄化してからでないと手術ができない。約一か月、いつまた脳梗塞が起こるか分からない状態で過ごしたそうだ。一か月後の13時間の手術の末、医師から家族に「どう転ぶかは分からない」と言われたが、事なきを得た、とのことだ。

2度とも、死んでもおかしくない状態だったそうだ。そして、そのような手術などで、合計2年間程、会社を休んだそうだ。「なのに、会社は自分を切り捨てなかった。真面目でお堅い会社やけど、懐の深い会社やと思うよ。」と言っていた。

このような自身の経験からも、僕に対して「俺に比べたら数か月休職するなんてなんてことない。」と言ってくれた。

 

とりあえず、会社への見方は変わった。上司も社員も一枚岩ではない。そんな当たり前のことにも気づいた。自身も、もっとゆったり構えていればよいと思った。とりあえず、休職するかどうかだな・・・

 

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上司と別れた後、煙草を吸いたくなって、大阪駅構内から出た。煙草を吸っていると、ホームレスと思しき煙草を咥えたおっちゃんが、ライターを貸してほしいと言ってきた。火をつけると、隣にちょこんと座る。

おっちゃん「申し訳ないんやけど、200円くれへんかなあ。」

前におばちゃんにも言われたことあるなあ、これ。あの時は学生で金ないから断ったっけ。何か裏がありそうやったし。でもこの人はちょっと違いそう。今は働いてるし、200円くらいええか。

と思って、あげた。ついでに、興味があったのでいろいろ聞いてみた。

 

自分「どこに住んでるんですか?」

おっちゃん「ここらへん(と言って人ひとり寝られるくらいのスペースを指す)」

自分「食事はどうしてるんですか?」

おっちゃん「扇町公園の炊き出し行ったりしてますよ。あと、この辺でも弁当配ってたりする」

自分「夏は暑いでしょう。冬は寒いでしょう。」

おっちゃん「その時は地下に潜る。」

自分「こうやってお金くれる人も結構います?」

おっちゃん「ぼちぼちいますよ」

自分「生活保護は受けないんですか?」

おっちゃん「何か、かっこ悪いからなー。」

生活保護への遠慮。日本人独特の考えだなー、と思った。自分だったらすぐに申請するけど。でも、この人は明らかに健康に問題を抱えそうだと思ったので、生活保護を申請したほうがいいんじゃないかと思った。

自分「現状から抜け出したいとかってないんですか?夢とか、やりたいこととか。今、何かやってないんですか?」

おっちゃん「あんま考えへんようなったなあ。何もやってないです。・・・でも、話し相手がおらんのが辛いかなあ。」

食事などはぎりぎり大丈夫なようだ。体も臭くない。それなりに入浴できているのかもしれない。でも、やっぱり孤独は辛いようだ。

現状から抜け出したくないはずはないだろう。ただ、諦めてしまっているのではないか。いや、それは、自分が上から目線で、「そんな生活いやでしょ?こっちの方がいいでしょ?」と押し付けている気もする。西洋が東洋に文化を押し付けたように。

でも、やはり孤独は辛いのだから、人のために何かした方が良い気がした。そこから人間関係も生まれるかもしれない。だから、押し付けがましいと知りつつも、遠回しでそういうことを言った。そしたら、「同じこと言われたよ。ありがとうって言われるようなことした方がいいって確かにそうですねー」と言っていた。

何か、自分に言えそうなことはそれ以上なかったので、後は雑談をして、1時間くらい喋って帰った。僕も最近寂しかったから結構喋った。

 

でも、自分と彼と世間の人と、そんなに違うだろうか?と思う。

仕事に時間を取られ、もしくは、時間があっても、何かしこりがあって、しんどい自分。

お金と気力がなくて、人間関係を築けず、寂しいおっちゃん。

電車で、疲れた顔で眉間にしわをよせている、幸せじゃなさそうな人々。

おっちゃんが普通にサラリーマンとして働いても、そこまで幸せ度変わるかな?という気もした。

でも、自分がおっちゃんのような生活をしたいか?と聞かれると、いや、それは嫌だ、となる。だから、やっぱり違うのだ。布団で寝られて、飯が簡単に手に入って、パソコンできて、映画見れて、漫画読めて、本読めて、自転車で移動できて・・・物質的なことだけど、僕にはやっぱり最低限必要だ。そして、それは今みたいに働かなくても、軽く働くだけで手に入る。生活保護でも手に入る。

それを拒否するおっちゃんは、おっちゃんの信念を貫いているんだから、それはそれで幸せなのかもしれない。人によって、何が譲れないかは違うんだなー。

 

とにかく、いろんな生き方があるなあ。視野が狭くなって、世間の常識や自分の先入観や過剰な執着などに囚われなければ、この日本での人生は案外楽なものかもしれない。

塚本晋也監督「野火」

を見た。2回目だ。一回目は映画館で。

 

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今から一年前だが、映画館を出てからも、しばらくショック状態だった。

今回はDVDなので、やはり当時ほどの臨場感は無かったが、それでも衝撃的な内容だ。

 

塚本監督は、戦後70年ということで、もう戦争を語れる世代がいなくなってしまうと危惧し、無理矢理製作費を捻出して、この映画を作ったそうだ。その意気込みだけあって、手加減は無く、映像や描写は容赦ないものだった。

 

映画館では、始まってしばらくすると、もう自分の現実の規範意識は薄らいでいた。兵士の疲弊しきった様子や状況の悲惨さから、リアルに映画世界に連れ込まれる。彼らの目に光は無い。ただただ諦めている。人間らしい理性は吹き飛び、ただただ本能の奴隷となっている状態。

それを見て、自分も兵士を追体験させられる。追体験してしまうと、「ああ、こりゃ駄目だ。この状況なら自分も確実に狂ってしまうだろう。人間性を失うだろう」と分かってしまう。それがショックだったのだ。自分の嫌な面、業の深い面を見せられるのだ。

 

更に映画が進み、更に悲惨さが増すと、もはやショックすら感じなくなってくる。「慣れる」のだ。兵士たちも状況に慣れ、人間でなくなっていくのだなあ、と思った。

「人間性なんて簡単に潰せる。お前だって状況によっては簡単に本能だけの獣に変えられるんだ」と言われ「はい、その通りです」と認めざるを得ないような迫力がある。

 

これを見ると、V.E.フランクルの「夜と霧」のような状況下で、人間性を保ち続けることがいかに難しいかが分かる。ほとんど超人的な意志の強さを持っているのではないか。

 

とにかく、見終わった後に、今の平和な社会に感謝した。そして、このような平和の状況で嘆いてばかりいるのは、全くお門違いだと思い至った。

今の社会に、実質的に死の危険はほとんどゼロだ。それなのに何を自分は焦っているのか。餓死もしないし、ほとんど殺されもしない。雨風しのぐ屋根があり、腹いっぱい食べられる。

不安や恐怖を感じる理由などないにも関わらず、感じてしまう。これは、苫米地英人によれば、人類にとって長らく続いた危険な時代には、不安や恐怖がないと死んでいたからだという。現代日本のような安全な社会こそ、例外中の例外なのだ。

でも、今度は、その生きのびるために必要だった不安や恐怖が、人を自殺にまで追い込むのだから皮肉なものだ。苫米地は、不安や恐怖は脳の海馬と偏桃体によって無駄に増幅されていると言う。そこに前頭前野を介入させると、不安や恐怖はやわらぐと。

前頭前野を介入させるとは、理性を働かせることだ。つまり、物事をもっと客観的に、ドライに、現象として捉えること。現代日本における不安や恐怖など、「野火」の世界に比べれば、実はまやかしでしかないのだから、不安や恐怖は消して消し過ぎることはほとんどない。前頭前野を鍛え、どんどん消していこうと思った。

 

そのためのメソッドは苫米地の本から学べるので、ありがたいことだ。

 

そう考えると、映画の見方にもバリエーションが出てくる。

1、映画の世界やそれが醸し出す感情にどっぷり浸かる(感性を鍛える)。

2、映画の世界に入りつつも、前頭前野的思考によって、客観性と冷静さを保つ(冷静さや理性を鍛える)

2は、レジリエンスを鍛えることとも関係がありそう。

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山登り 福岡伸一

 

自宅から30分くらい車を走らせると、なるかわ谷と呼ばれるところがあり、そこから山に入れることをネットで知り、行ってみた。大学時代、摂津本山駅で途中下車して山を登ったり、摩耶山を登って布引の滝を見に行ったりしていたが、そこまで行かずとも近場にこんないい場所があるのかと思った。こっちの方が人が少ない、というか山に入ると一人も会わなかったので、より現実からの隔絶感を味わえた。

 

山に入ると、繭の中に籠る感覚になる。現実を忘れ、自分が何者かもしばし忘れている気がする。アイデンティティなんてなくてもいいや、何もなくていい、この時間があればそれで良い、と思える時間だ。

山に入ると毎度のことだが、コバエみたいなのが何十匹もまとわりついてくる。蚊のように刺すでもないし無害なのだが、何のためにまとわりついているのだろう、と思った。煙草を吸うと消えていく。最初はウザったかったが、途中からは何か自分の周りを纏うオーラのようだ、とか、中二病臭い発想をしていた。

途中、カタツムリに会ったり

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よく分からん虫に会ったりした。

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黄色い蝶々が飛んでいてきれいだった。

途中、マムシに注意の看板が何回も出てきて、怖かった。マムシの知識もないので、もしかしたら噛まれたらかなりやばいのか?とか思った。草むらで音がすると瞬時に身構える。都会では決して感じない種類の恐怖感。こういうのをたまに感じて野生を取り戻すことも大事かもしれない。でも、以前、夜の富士山を一人で下るはめになったときに比べたら、全く大したことではなかった。

 

やはり、自然に帰ると心が安らぐ。ここは人がいないから特にだ。時間の流れも都市と自然の中では全然違う。都市の時間の流れについていくのは辛い。やっぱりこっちだなー、と思った。

 

最近、福岡伸一にはまって、動画で見たりしているが、働きアリの話は何度聞いてもいいなーと思う。どんなにメンバーを入れ替えても、2割は必ず怠けるという。

僕は、生来の怠け者だと思う。多分この2割だ。今日もこうして仕事を休んで書いているのだから(有給がそろそろなくなってくる)。以前は好きな子に見合う男になるために、という動機もあったが、今はそれもないし。

怠け怠けて、たまに友達と会って、たまに山に入って、それ以外は読書や映画。週に何度かは人助けにつながるような仕事して。もしくは趣味が高じた仕事とか。時間に追われていないから人間性を保っていられる。少ない消費で充足したスローライフ。いいなー。でも、何か、もっと大きな「物語」が欲しい気もする。何らかの超越だ。

福岡さんは、「怠けろ」「遊べ」「自由であれ」とよく言う。遺伝子もそれを許していますよ、と。確かに、8時間労働を週5日繰り返すなんてのは、人類の歴史では最近の話であって、例外的なのかもしれない。

 

やっぱり、今の仕事は足掛けとしか思えない。こんな生活を定年まで続けるというのは、ちょっと自分には無理だろう。家庭を持っているわけでもないし、持ってもできればこんなに働きたくない。

とにかく、お気楽で生きていこうと思った。でも、仙人のように何でもかんでも諦めるわけではない。何らかの超越への欲望はある。でも、欲望を「持つ」ことは悪い事じゃない。欲望に「囚われる」ことが問題なのだ。

釈迦も、実は欲を捨てろとはいっていないらしい。囚われるなと言っているだけらしい。だよね、欲が無いって鬱の症状だからね(from "ビフォアサンセット")。

弟を殺した彼と僕

を読み終えた。

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人間の心情の複雑性を垣間見た。

死刑囚の長谷川さんと主人公の原田さん。お互いにここまで考えが変わるのか。

それでも変わらない考えもある。人の死の重み。

 

感じたのは、マスコミ、検察、刑務所の役人など、組織の人間たちの非人間性だ。遺族である原田さんたちは、人間として扱われているというより、事件に関連する歯車として扱われている。遺族の個人的感情や個人的事情は基本的には無視される。

 

また、やはり、長谷川さんが殺人を犯す経緯が悲しい。原田さんの文才なのか、彼が徐々に泥沼にはまっていく様子が伝わってきた。1の失敗を取り戻そうとして2の失敗になり、その2の失敗を取り戻すために4の失敗を犯す・・・というように、雪だるま式に厄介事(ここでは借金)が増えていく。しかし、一番厄介なのは、「現状から何とか抜け出したい」ともがく心だ。でも、泥沼においては、もがけばもがくほど深みにはまっていく。

長谷川さんは、途中からはもう自分を完全に見失っていて、何が何だか分からなくなっていたのだろう。そういう状態で、良心や理性というものが機能しなくなっていた。そして、原田さんの弟を含め、3人を殺害する。

もちろん、追い詰められたからと言って人を殺すなんて、許されてはならない。同じ状況でも人を殺さない人が大半だ。長谷川さんは、元の生活に戻るという執着が強かったのだ。彼にとって、今のままなんてのはありえないことだった。そのためなら何でもする、と。自分の執着が自分を追いつめ、人の道を踏み外させた。

なぜそこまで執着したのか。彼自身も心に癒えない傷をもともと負っていて、現状の自分を許すことができなかったのだろう。自分で現状の自分を許し、認めてあげられていれば、他の道はいくらでもあっただろう。例えば、さっさと自己破産してしまう手だってあったはずだ。多分、ありのまま自分を認めてもらった経験がないか、少なかったのかもしれない、と思う。

そういう人は、ありのままの自分は誰からも認められない、という焦りがあると思う。だから、必死で認められる自分になろうとする。認められるためなら、何でもするようになる。これって、他人の奴隷だよなー。

 

でも、長谷川さんのみならず、僕も含め大半の人はそうではないだろうか。周りの輪からはみ出さず、認めてもらうために、無理して受験を頑張る、就活を頑張る、出世を目指す、モテるように頑張る・・・その根底にあるのは、他人から愛されたい、という一言に尽きるのではないか。

愛されるために背伸びをして、地獄を作り出してしまう。代々木忠の著書「オープンハート」のテーマそのものだ。ただ、「愛なんかいらない」とうそぶいて何もしなければ、ただの自己中心的な人間ができあがる気がする。

社会的生物である人間の本能からして、ほとんどの人が愛に飢えてさ迷っているのだと思う。まずは、自分で自分を認め、愛するところから始めればいいのではないか。また、人はそれぞれ独立した個人であることを忘れないことも大事だろう。

自分への愛を自分で充足すれば、自然と人への愛が生まれるだろうし、自分が独立した個人であることを忘れなければ、人間関係を加点方式で喜べる(逆に、人と分かりあえて当然と思っていると、人間関係は減点方式になる)。そんな人は、自然と周りから愛され、認められるようになるのだろう。

 

とまあ、こんなことを考えたが、長谷川さんは殺人を犯してしまった。

この一件によって、原田さんの家族や長谷川さんの家族にも、どんどん災難が押し寄せる。泥沼だ。それを高みの見物して同情したふりをするメディア、メディア享受者などなど。現実のリアルを知った。事件関係者が国民の溜飲を下げるための道具にされている。メディアは人の死さえも物語化し、つまらない日常を送っている国民は、それによって鬱憤を晴らす。

原田さんが徐々に長谷川さんに心を開いていくのは、自分たちが同じように世間によって虐げられている被害者であることに気付いていくからだ。深読みすれば、そもそもこの世界の庶民のほとんどは奪われる側で、被害者なのだ。なのに、あらゆる洗脳によって、それを忘れさせられ、被害者同士で競争させられる。時には殺しあう。被害者同士なのに、同じ被害者が更に深い穴に落ちたら、それで胸がスカッとする。ブラックショーのような胸糞悪い世界だ。

原田さんは、そこに気付いたのだろう。悪の大ボスだと思っていた長谷川さん、実は彼すらも被害者であるということ。もちろん殺人を絶対に許しはしないが、本当の敵はもっと強大で見えにくいところにいること。

 

本を読んで見えてきた社会構造は、こういうものだ。

 人は社会的生物で認められたい(愛されたい)。その人間の本能が悪く利用されるような社会がある。人はその社会でしか認められないと洗脳され、奴隷のようにその場所で背伸びをする。奴隷同士の蹴落としあい、傷つけあいがある。長谷川さんが諸悪の根源だと思ったが、彼も所詮は奴隷だったのだ。本当の敵は、人を無限に背伸びして競争させる社会構造だ。そして、その背伸びと競争を見てほくそ笑んでいる奴らだ。

これって、まさに主流秩序のことじゃないか!

(このあたりの「(社会的)洗脳」の話は苫米地英人に詳しい。例えば、「まずは信じることをやめなさい」など。)

こう書くと悲観的だが、もちろん、このような主流秩序に侵されていない社会が、この世界にはまだまだたくさん残っているのだと思う。僕も、脱出のための最低限の金(主流秩序の中で認められるための金ではない)と戦うためのノウハウを得て、離脱したい。というか、この二つが揃わなくても、限界になった時は、片道切符で離脱するだろう。まあまだまだ、主流秩序から精神的にすら離脱できていないんだが。

 

ところで、長谷川さんは獄中で本当に真人間に生まれ変わった。全てを失って初めて洗脳が解けたのではないか。独房に入れられ、彼は安心感すら味わったのではないだろうか。「ああ、もうお終いだ。でも、もう背伸びしなくてもいい」と。彼の本当の人生は、むしろ独房の中での何十年かの中にあったのだろうと感じた。

 

 

「弟を殺した彼と僕」を読んで、昔に読んだ、曽野綾子の「天上の青」を思い出した。

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ビフォアサンライズ ビフォアサンセット

ツタヤで適当に映画を探していると、タイトルの映画が目に入ってきた。

どこかで見たことがあると思ったら、伊田先生がブログで勧めていた映画だった。

↓伊田先生の映画評

http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/596

 

見て、すごい良かった。自分が求めているものを再確認できたように思う。

僕はたまに、誰かれ構わずヤリまくりたくなる時がある。更に、頭の中では暴力的な考えが吹き荒れる。憎き誰かを見つけて、頭の中で殺したりしている(幸か不幸か、それらを実行するだけの力はないのだが)。身の周りにいる人が、みんな悪人に見えてきたり。というか、そんな時期が長かった。そういうときは、心が荒んでいる時、言い換えれば、自分が本当に望んでいるものを得られなくて、諦めて、自暴自棄になっている時だ。

最近、そんな状態だった。しかし、この映画を観て、自分が本当に求めているものを思い出せたように思う。思い出すと、暴力的な欲求は薄まる。

人間関係で、男であれ女であれ、こういう感じの関係が、求めているものの一つだ。

もちろん、今の自分は、この映画に登場する主人公二人のような関係を築くには未熟すぎる面がある。しかし、辿り着きたい場所はこういうところだ。

 

とにかく、色々な示唆に富んでいる。特に、ビフォアサンセット、つまりビフォアサンライズから9年が経ち、主人公たちの成熟した姿を見られる、この映画が好きだ。でも、サンセットだけ観るのはお勧めしない。サンライズあってのサンセットだ。

 

うーん、いいところがありすぎて逆に書けない。というか、伊田先生の映画評と、良いと思うところがほとんど同じだ。

何回も見てからでないと、自分の言葉では書けない。