私は兵だ

最近、かなり精神的にきつい状況だった。

 

仕事に意味を感じられないこと、仕事に理不尽さを感じるがそれを言い出せない不満、仕事に時間を取られて自分が思う人生の本質に向かえない事、それによって生まれた依存的な心を満たせないこと・・・などが原因だ。

しかし、自分の中で、やはり仕事は3年は続けたいという想いがある。

なぜなら、仕事を離れて何かを独力でやっていく力と金とビジョンが、そして、それらを持っているという自信(もしくは、それらが無くても大丈夫だという自信)が自分にはないからだ。

もちろん、そういったものが無い状態から人生を始める、という考えも肯定する。

しかし、自分の場合、今、しんどいからと言って仕事を辞めるのも、少し違う気がするのだ。「もうやだ!」で辞めるのではなく、「もう、やだ!」と思うならば、その点について会社側に改善の要求を出すなどして最善を尽くし、その闘いの結果、辞めるならば良い、と思った。

会社にコントロールされるのではなく、会社をコントロールしてやろう、くらいの気概。いや、そこまでの気概は無いが、そのために頭を使うのだ。真っ向勝負では100%負ける。

 

「上司には逆らうな」という原則を、うまいこと破ってみる、ということだ。会社には様々な理不尽がある。その中で戦うという意味で、ある意味会社は戦場だ。

会社を戦場と見ることで人生の強度(張り合い)を持つ、ということだろうか。

 

でもまあ、実は会社で戦えるとはあまり思っていない。今述べたような思考を、人生にも当てはめてみれば、強度を保てるかもしれない、と思ったのだ。今の自分の弱った精神、依存的な心に、喝を入れる思考。

つまり、↓URLの「私は兵だ」という感覚で生きることだ。これは、この世界を戦場とみなすことでもある。ある意味25000人が毎年自殺する社会は、戦争状態だ。

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1072

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1073

 

もちろん、こんな考えで生きることをずっと続ける精神力はない。今のところ、人生の一つの見方として、自分の人生に適用してみたらどうなるか試してみよう、という感じだ。

 

時間がなくて、適当に書いてしまった。今度ちゃんと書こう。

福島孝徳 矢作直樹 利他性 自己観察

母が、神の手を持つと言われる外科医、福島孝徳の番組を見て、すごかったと言っていた。1日2,3時間の睡眠で、人間とは思えない量の手術をこなし、とんでもない人数の命を救っている人だそうな。

ちょっと興味が出たので、youtubeで調べてみた ↓

www.youtube.com

 

何か、こんな人って、もう自分のことなんかほとんど考えてないんだろうなー、と思った。利他性の塊。利他性がバイタリティに繋がっているように見える。

この間までの、「自分が、自分がああ!」ってなってた僕って、何だったんだろうと思った。まあ今のところ、福島さんみたいになれる気なんて全くしないんだけど。

でも、人間としてとてつもなく素晴らしいと思うんだけど、この元気すぎるノリには、たぶん自分はついていけないな・・・

 

外科医で興味がある人はもう一人いて、彼の雰囲気が好きだ。

矢作直樹という「2016年3月31日、東京大学大学院医学系研究科救急医学分野教授ならびに医学部付属病院救急部・集中治療部部長を任期満了退官」した人だ。

この人も、手術で人を救ってばかりいる人だ。同じく利他性の塊。

で、死後の世界を信じていたり、東洋医療の考え方(病気をやっつけるのではなく、病気と共存する、など)を重視していたりするところが、福島さんとの大きな違いか。それは、雰囲気にも表れている気がする。

↓は宮台との対談。

www.youtube.com

www.youtube.com

 

この二人に共通しているのは、明らかに実年齢より若い、もしくは、実年齢に比べると元気すぎる、ということだ。見て貰えば分かると思うが、福島さんはごり押し系のとてつもないバイタリティがあるし、矢作さんはじんわりとして揺るがないエネルギーがあるように思う。(福島さんは、内臓年齢が35歳だったりするらしい。カップラーメンばっか食ってて、睡眠2,3時間とか、医者の不養生を絵にかいたような人なのに。)

勝手な想像だが、人の命を救うって、想像を絶する快楽なんじゃないだろうか。それを年がら年中やってる二人は、脳内物質で言うと、ドーパミンノルアドレナリンセロトニンみたいな物質が常に大量に出てて、細胞全体があり得ないくらい元気なんじゃないか。

もちろん、もともとの元気さもあるだろう。矢作さんは、「気」を出せるらしいし、そういう魂レベルでの見えないエネルギーが半端じゃなさそうだ。

 

でもやっぱり、人って自分のことばかり考えていると元気がなくなっていくのかな、と思った。この人たちは、人の幸せのことばかり考えているから、これだけ力があるのだろう。

 

ところで、今、2週間だけの研修があるのだが、かなりの肉体労働の上に、クーラーがあまり効いておらず、暑い。僕が先週休んだのは精神的なモノからだが、もう一人の同期がついに体調を崩した。この研修、去年も一昨年も体調不良者が続出したらしい。

で、たまたま↓の苫米地の動画を見た。

www.youtube.com

瞑想も、気功も、その他数多のボディワークも、突き詰めれば「身体感覚の観察」に行き当たっている。やるべきことは一言に凝縮できる「ただただ観察し続けろ」だ。

「何かを無理に変化させることはできない。むしろ、観察が深まることによって、自然と変化が訪れる。」という考えは、非常にしっくりくる。

日本人は、「みる」ということに色んな意味を畳み込んでいる。「見る」「観る」「診る」「看る」・・・「みる」とは、「care」の意味を含むのだ。

今日は、「自分の体をモニタリングする」ことを意識し続けた。おまけとして、「背筋が上に引っ張られる感覚を持つ」「丹田に力を入れる(具体的には、肛門を閉めるようにするといいらしい)」「長息を行う」なども意識した。(途中で意識が飛んでしまい、かなり不完全だったが)

結果的に、体の疲れ方が明らかに軽減したと感じた。精神状態も幾分よくなったように感じた。何より、昨日までよりも「生きている」気がする。

心境の変化2

先週金曜日は会社を休ませてもらい、3連休をとったので、その間に色々考え、ひとつ前の記事のような心境の変化に至ったわけだが、更に心境が変化したように思う。

 

この間までの自分はかなり依存的になっていた。急に社会に放り出されて、突然大海原に一人放り出されたような気分になっていたのだろう。その不安を埋めるために恋愛に縋るという、ありがちなことをしていたように思う。

 

依存しようとすると、その対象は逃げるという面がある。

「求めれば逃げ、捨てれば懐に飛び込んでくる」という武道の考え(仏教的ですね)が、身に沁みる。少なくとも、「求めれば逃げる」という面は、大いにあると思う。(もちろん、求め、依存するからこそ成就する、というケースもあるかもしれない。でも長期的な目で見れば、崩壊するのだろうか。)

後半の、「捨てれば懐に飛び込んでくる」というのも、これを信じて「じゃあ俺は捨てるぞ!」と意気込んでも、その意気込みがまさに執着の裏返しだ。

だから、無理に捨てようとせず、「とりあえず横においとこう。他にやるべきこともいっぱいあるし。」くらいの感覚が一番しっくりくる。これは、視野狭窄の状態から、視野が広がった状態になることでもある。

 

www.youtube.com

↑この動画で、「自信が無い」という人に対して高石氏が語ることが、視野が広がる感覚に似ている。

 

執着が強くなったり、相手を理想化していると、目の前の相手を見る精度が落ちる。僕も、前回相手と会ったときのことを振り返ると、見ているようで見れていない部分が多くあった。それ以上に見えていなかったのは、自分の感情や、相手への自分の感想だった。だから、相手と通じ合えている気がしなかった。

 

こういうこともあって、やはり、「理想化や空想による現実の無視」は、行き過ぎると良くないと思った。かといって、「理想化や空想の完全否定」(仏教的)も違うと、今は思う。それって、山極さんがいうところの、チンパンジーに戻れってことだと思う。

やはり、僕たちは人間なんだから、目の前のこと以外を空想したりすることによる楽しみは捨てられないし、捨てるべきではない。空想と現実が混ざり合った、よく分からない世界が、僕たちが生きている世界だろう。

 

とにかく今は、一つの事柄に執着せず、空想にも現実にも広い視野を持って、希望ベースで生きていく、という方向を目指そうと思っている。

心境の変化 縁 運命 意志 について

一人の人を好きになり、その人のことを病的なまでに考えてしまう。「恋は病」というのは本当だなあ、と思う。

 

ここ数日、2か月以上続いていたその症状が緩和し始めている。相手への想いが消え去ったわけではないが、苦しみに苦しみを、虚しさに虚しさを重ねるうちに、緩和し始めた。いや、あるいは、熱情は変わらないが、その状態に慣れたのかもしれない。

何というか、好きという気持ちは変わらないし、自分の中で特別な位置を占めることは変わらない。しかし、だからといって次の恋をあきらめる気にもならない。ある意味、視野が広がったのだろう。関係性をもっと自由に捉えてもいいのではないかと思い始めたのだ。

 

この間までは、「この苦しみに耐えかねて、『友達でもいいじゃないか』とか思ったら負けだ!」みたいに考えていた面がある。しかし、相手と会って手応えがなかったからか(本当に好きならば、強引なところも見せるべきだったのかも知れないが、この時はそういう気分にならなかった)、「もっと楽に考えよう。今はその時期じゃないだけかもしれないし、もちろん縁が無かった可能性もあるし、この先の関係性が、友達か親友か恋愛関係か、どうなるかなんて分かったもんじゃない」という考えが、少し出てきている。

相手には付き合っている人がいるにもかかわらず、相手と特別な関係を結ぶことにあまりに執着して、視野狭窄に陥り、かえって(恋愛うんぬんを抜きにした)相手の良いところが見えなくなったり、言葉にできなくなったりする面があり、これはお互いに損である、とも思った。

一方で、結婚しているわけでもないのに、なぜそんな弱腰なのだ、という考えもあるだろう。僕もこれは考えたが、自分の恋愛経験知の低さからくる自信のなさと、相手がそれを欲しているように見えなかったことから、大胆な行動には出られなかった。

 

僕の中では、根源的な二つの考えがぶつかり合うことが多いように思う。

1、世の中は縁で成り立っている。無理をして自分の意志で何かを切り開こうとせず、縁に任せなさい。

2、運命に任せるなんていうのは、弱虫の責任放棄だ!自分の意志で行動し、どんな不利な状況でも、血反吐を吐いても、自分の意志を貫徹せよ!

1の「縁」と2の「運命」というのは、僕の中で大体同義だ。

 

恋愛というのは、縁から始まり、途中からは意志が必要になってくるような気もするし、その逆もあるし、最初から最後まで縁であったり、最初から最後まで意志であったりするかもしれない。また、意志と執着は似ているかもしれない。

 

「必然」の感覚というのは、1の感覚と共鳴するものだろうか。目に見えない縁の力を信じるということは、人との出会いも含めた必然を信じることだろうか。

それとも、必然の感覚があるからこそ、人は揺るぎない意志を持って行動するのだろうか。

 

だが、この二つは結局混ざり合う。

なぜなら、1の縁を信じるということは、結局それを信じることを、「意志している」とも言える。

また、2の「自分の意志」というやつも何かの縁によって、そう「意志させられている」とも言える。

 

結局、「意志している」か「意志させられている」かという根源的な問いになる。そして、この問いへの回答は永久に得られない。

「意志している」と考えるか「意志させられている」と考えるか、それは自由だから、好きな方を選ぶ、という考えは、「選ぶ」という行為において「意志」が発生しているので、「意志している」。(2に近い)

「意志している」のか「意志させられている」のか、そんなことは結局分からない。分からないことを自分で「意志している」とは言えない。という考えは「意志させられている」という考えだ。(1に近い)

 

どちらか分からない、分からない、分からない。。。頭で考えても分からないから、自分の体に聞くことにした。

自分は、どちらの考えの方がしっくりくるか?元気が出るか?「本質的だと思うか?」

僕は「世の中は何か見えない縁でできていると思う。人間の予測や認識の範疇を超えた、根源的に未規定なものが、僕たちの体の中にも、僕たちの体の外にも、満ちている。それらによって、『意志』が生じている。だから、意志とは、本人のものであるとも言えるし、本人のものでないとも言える。」

 

結局、自分でこしらえようとした意志など、長続きしない(宮台は自発性と呼ぶ)。そうではなく、内側から沸々と湧き上がる力(宮台は内発性と呼ぶ)や外部からの否応ない圧力(荘子の「やむを得ず」の思想)に従って生きていくしかない。この内発性が生じてもいないのに、無理に行動するのは、結局僕には性に合わない。

僕は内発性がないと動けない傾向が強い。だから、簡単に高校を辞めてしまった。米大学入学もすぐ諦めた。バイトも一か月以内で辞めた回数は、数えだしたらきりが無い。すぐに、「なぜそこまでして頑張らなければならないのか?」という問いが生まれ、それへの答えがでないという事実に、忠実に行動してしまうことも多かった。

 

あと一つ。

本当の気持ちって何だろうと思う。相手を好きだけど行動できない、という場合、「相手を好き」が本当の気持ちか。「好きだけど行動できない」というのが本当の気持ちか。

今の僕は、後者の立場だ。「好き」と「行動できない」のせめぎあいの結果、「行動できない」が勝ったのだから、それが総合的な自分の気持ちだ。

もちろん、純粋な「好き」も自分の気持ちでもあるが。。。両方大切にすれば良いと思う。

 

もうコロコロと変わるのだが、今の僕は、「世の中、何一つ確かなものなどない。全て未規定だ。全て流れに任せるしかない。その中で意志や内発性が生じたら、それは喜ばしい事。それに従えばいい。」という考えに傾きつつある。

信じるということ

例えば、好きな人がいて、その人にラインをしても返信が無い。

そんな時に、それが付き合っている人だったら「もう自分を嫌いになったんじゃないか」とか考えてしまうかもしれない。片想いなら、「友達としてすら、自分を嫌いになったんじゃないか」「こっちの好きって気持ちを、うざがられてるんじゃないか」とか。

 

これは、「好き」と「信頼」が結びついてない人の思考な気がする。

本当の好きってのは、相手の深い部分の魂みたいなものを信じてる。「返信が返ってこない」なんて表層に惑わされない。だからまず、

 

第一に、「あー、忙しいのかなー」「何か事情があって返信ができないんだろうなー」とか考える。好きになった相手を信頼していないと、すぐに悪いほうに考えてしまう。まずは、好きな相手を信頼し、「良い人」として見るから、このような判断になる。

 

第二に、好きになった相手がこちらを「もう相手にしたくない」とか思って無視していることが確定していても、相手を「ひどいやつだ!」と断じたりしない。自分に原因があるかもしれないし(これは、自分を責めることとは違う)、人は時に魔が差すものだ。魂レベルで素晴らしい人でも、そういうこともあるだろう。時には、ひどいこともするかもしれない。ひどく鈍感かもしれない。でも、相手の深い部分の魂を好きになって、信頼したのなら、そんな表層的なことに惑わされるべきではない。

 

第三に、好きになった相手の魂レベルでの素晴らしさが、自分の勘違いであった場合でも、過去にその素晴らしさを感じた(そして信頼した)ことを否定すべきではない。「その間だけでも信頼させてくれてありがとう」である。不信感に苛まれつつも、それを乗り越えて人を信頼できたことは、必ずその人の肥やしになるのだから。

それに、その相手もこれからどのように変わっていくか分からない。長い目でみるべきだ。

 

このようなことを僕が書くのは、もともと人間不信に陥りやすい性質だからだ。人間不信とは、無駄に人に不信感を抱く。これは、自己防衛の結果でもある。自己防衛するのは自分に自信が無いからだ。結局、自分を信頼してないから人を信頼できない。

元々、天性の「人を信じる力」を持っている人もいる。もちろん、依存的・盲目的に信じる力ではない。それはむしろ人間不信の裏返しだ。そうではなく、自分の直感や本能が適切だと思った相手なら、信じることだ。結局、こういう人は自分を信頼できているのだ。

 

第一、第二、第三、っていう風にまで考えている時点で、僕は「天性の人を信じる力」を持つ人間ではない。第一の段階でしかないのに、第二、第三と準備しているのは自己防衛からだ。でも、こうして書いておけば、あとは忘れていい。安心して第一の感覚でいればいい。そう思って書いておいた。

僕は、「自分が本能と直感で良い!と思った相手は信じ切りたい!」と思っているが、しばしばこの軸はぶれる。でも、それでもいい。「そういう方向を向こうとしている」ということが大事であり、それさえあれば、少しずつでもその方向に進める。

こうなれば、もはや自分との闘いだと思う。闘い甲斐のある相手だ。

 

自分が相手の幸せを願っているように、相手も自分の幸せを願っているだろうという感覚。これこそ本当の信頼関係だろう。

 

宮台真司が言う「双方向的部分愛(独占愛)」ではない「一方向的全愛」を目指したい。もちろん「双方向的全愛」が一番良いし、本当に精神性が高い恋愛関係とはそのようなものだと思う。

 

「双方向的全愛(共有愛?)」が最も表れていると僕が考えるのが、「嗤う伊右衛門」という映画だ。本当にすごい。「相手の幸せが自分の幸せ」「相手の自由が自分の自由」って世界だ。これこそ、目指したいものであり、その道は不可能かと思えるほど険しい。しかし、何度も言うが、「その方向を向こうとしている」事こそ大事なのだ。愛せない人を愛す必要はないが、自分が決めた相手ならば。

 

俗にいうハッピーエンドではないが、そんなことはどうでもいい。その道を二人が貫徹できた時点で、十分に福音であり、救いだ。

 

僕はこの映画を、「愛」の世界というより「情」の世界だと思った。愛は一瞬、情は永遠。愛は駆け引き、情は真っすぐ。愛こそがエロティックだと思われているが、違うのではないか。情を伴う恋愛こそ、最もエロティックで眩暈を伴うのではないか。それに、情の恋愛はあらゆる限界や常識を飛び越えるのではないか。そんな気がする。

 

あと、この曲もまさしく情の世界だ。

 

https://youtu.be/rhMMfJXHFDc