中観思想

苫米地英人は、「空観」「仮観」「中観」という仏教の考えの内の、「中観」を支持している。釈迦の本当の思想は、中観思想であると主張する。

 

「空観」とは、この世の全ては「空」である、という考えで、例えば、目の前に広がる世界も、真実とも言えるし偽物とも言える、という考えだ。これは全く突拍子もない話ではなく、最先端の物理学や哲学の世界では当たり前のことだそうだ。

物理学で言えば、素粒子という物質の最小単位を見ると、それは生滅しているらしい。素粒子の振動数が高ければ、それは「有」る。振動数が低ければ、それは「無」い。真空状態とは、実は全く物質が無い状態ではなく、物質が振動していないだけ、ということらしい。(ちなみに、ここから超ひも理論などが生まれるらしい。そして、それを突き詰め、また、ダークマター論(この世で観察できている物質は全体の10%にも満たない)などを考え合わせると、「パラレル宇宙」の存在を想定したほうが良い、と真面目に考える物理学者もいるようだ。まあ、ここまでいくと、もう僕にはよく分からない世界だが。)つまり、物質とは、「有るとも言えるし無いとも言える」ものなのだ。

哲学で言えば、例えば、「神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しない」という、カール・グスタフユングの言葉を借りて、宮台真司が説明していた。この言葉は、「あなたがどんなに不思議なことを体験しても、それはあなたの『脳内』で起こっている事であって、現実にはそんな現象は生じていないですよ」という内容だろう。しかし、少し考えを突き詰めてみれば、「僕たちが現象と思っていることも、所詮は僕たちが、『現象』という名前をつけた『体験』に過ぎないではないか。」という考えに行き着く。そう、人間はどこまでいっても客観的になれないように、人間は純粋に現象のみの世界に生きることはできないのだ。僕たちは、自分の脳のフィルターからしか世界を見つめられない。そう考えれば、世の中の見方が「空観」に近くならないだろうか。僕たちの見ている世界は、「現象」と見られるものや「客観的」とされるものすら、全て自分の脳から生み出された「幻想」の世界なのだ。しかし一方で、「じゃあお前は崖から飛び降りれるんだな」と言われれば、「いや、怖いから無理」となるだろう。これは、この世界が完全に幻想のみでないことも表している。

つまり、物理学のところで出た話で言えば、この世界は「有」でもあり、「無」でもある。この、「有」と「無」の上位概念(苫米地の言葉で言うと、「一つ上の抽象度」。一般的にいうと、一つ上の次元、というところか)が「空」だ。そして、空観とは、「この世は全て空である」とするのだ。僕も含めてほとんどの人が、この現実世界をガチコに「実在する!」と思っているから、空観はカウンターパートとして、「この世の全ての苦しみも喜びも、幻想である」という主張が強調されやすい。

 

次に「仮観」だが、これは、「世の中の仮の見方」を追及する考えだ。空観では、この世は有るとも言えるし無いとも言えるものだったが、仮観では、この世に「ある特定の見方」を与える。例えば、「お金があれば幸せになれる」とか「土地は多ければ多いほどよい」とか。しかし、世の中はそれを仮初の考えとは捉えず、マジガチで「資本主義には実態がある!」「この世には実態がある!」などと考える。経済戦争や実際の戦争に繋がる。

苫米地は、「ほとんどの人がこの仮観に洗脳されている。資本主義という宗教などに縛られている」とする。

 

こう書くと、空観が素晴らしい思想のように思えるが、実はそうでもない。空観「のみ」を信仰すると、達磨大師のように、自分だけ気持ちよくなって何もしない人間ができあがる(達磨大師は瞑想で最高に気持ちよくなりすぎて、自分の足が腐ってるのに気づかなかった)。この場合、別に積極的な害はないが、それがある場合もある。説明は割愛するが、空観の論理を利用してあれだけの凶悪な犯罪を犯したのが、オウムなのだ(具体的には、オウムの「ポア」の思想)。

更に、これは個人的な経験だが、空観を実践しようとすると、どうしても虚無主義に陥りやすい。かなり空観寄りの仏教観を持っている人として、アルボムッレ・スマナサーラ長老や小池龍之介という僧侶の本をよく読んでいたが、彼らの世界にどっぷりつかっていると、何のやる気もおきなくなってくる(達磨大師のように極めれば、それでも全く問題ないのであろうが、社会的には少し問題な気もする)。

かと言って、仮観だけでもガチマジの戦争が起こる。こちらは分かりやすい弊害だ。

 

だから、中観という思想が必要になってくる。中観は、空観と仮観の良い所を合わせたような思想だ。空観を経由した上での仮観とも言える。

つまり、「世の中は空だ」という空観を持った上で、「この空の世界における仮の目的」を持つ(洗脳ではなく自ら設定した仮観を持つ)、というような考えだ。これを空観を持たずに、ガチマジで世の中を生きるようになると、例えば「弟を殺した彼と僕」の長谷川さんみたいにガチコに追い詰められ、犯罪を犯したりするかもしれない。

しかし、この中観ならば、仮観による目的を果たせずとも、空観的な考えがあるので、ガチで悩んで自殺他殺をするようなことはない。逆に、空観だけだと、「どうせ『空』なのだから、ちょっと悪い程度のやつでも、まあ殺しとこう」みたいな考えになる可能性があるが、仮観があると、「ああ、この人たちにとっては、その仮観の中に役割や目的があるのだ。」と観られる。

 

この中観、つまり「空観を念頭に置いた上での仮観」が、とてもバランスが良いように思える。最近、仏教に抱いていた違和感は、空観を重視しすぎる著書ばかり読んでいたからだろう。空観だけで、かつ空観を極めきれていないと、非常に虚しい人生となる。

僕で言えば、「恋愛で悩みまくる」「人生に悩みまくる」「仕事に悩みまくる」というのは、仮観的なこの世の見方に染まりすぎているのが一因だ。

一方、「この世なんて所詮虚しい」「生きてても特に意味なんてない」「何のやる気も起きない」みたいなときは、中途半端な空観に侵されているときだ。

中観だと、「恋愛も人生も仕事もうまくいかない。でも、所詮それらは幻想だから、全く問題ないなー。」と空観的に捉え、一方で仮観的な考えもあるので「恋愛、人生、仕事・・・全て幻想だ。だから何にもやらなくていい。ただただひたすら世間に背を向けよう」ともならない。

 

「中観」を自分の人生に取り入れたい。もちろん、まずは空観を体感する必要があるんだろうけど。

 

↓の動画の45分くらいから、「空観」「仮観」「中観」の説明があります。

 

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