心理変化リバース

リバースした。

 

もう一度言うが、明日には「やっぱやーめた。あほらし。」ってなってるかもしれないんだからね(笑)

 

って書いてたが、まさにそうなった。

 

やっぱ、会社行きたくない(笑)

 

昨日のは一時の気の迷いだったか。でも、ボーナス貰ってから辞めるために、あと何日かは行かないとなー。明日は行けたら行きたい。

 

エリートから転落とか今は全然気にしてない。山に行ったからかな。何か気分が変わった。てかそもそもエリートと呼ぶには厳しいし。エリートに必要な能力もないし。

 

やはり、収入低くてもステータス低くても、自分が好きなことをやるのが一番であることに変わりはない気がしてきた。今日山を登ってると。

副次的にステータスや金が入ったら、それはそれで喜ばしい事。ステータスはあんまいらないか。

 

でも、好きなこと、よりも、できること、かもしれない。貢献感が得られるもの。

 

何か昨日の記事は自分の醜い部分が思いっきり出てて面白いな。でも、人間の性格というのは普遍的じゃないんだなあ。今はできる仕事をして貢献して、そこに普通の仲間がいれば、それ以上何もいらないじゃん、と思ってるけど、昨日は「そんなのやだ!俺はエリートに囲まれていきていくんだーーーー!」とか思ってたんだから。

 

大体、僕が求めてる知性は、学歴で決まるようなものではなく、何というか、人生の深淵に対する洞察力というか、そういう感じの知性だったのに。本来は。まーでも、やっぱり、そういう知性も、学歴的な頭の良さと、ある程度相関関係はあるんだけどね。絶対ではない。

 

昨日のは、完全に洗脳されてましたね、あれ。テレビやら何やらが提出する価値観に飲まれてましたな。気を付けねば。

 

なんだかんだ言って、僕は結構小賢しくて、自分に適した人生航路を、無意識的に、本能的に、選択していたんだなー、と思う。エリートで金持ちになるより、ゴロゴロしてられるほうがやっぱり重要な体質なんだ。

でも、それだけもしんどいんだ。だから、自分の好きなこと、できることでもって、無理のあまりない範囲で貢献し、貢献感を持てるようになり、また、そこで仲間ができれば、それで十分なのだ。

きっと、僕がしたいような対話ができる人もいるだろうし。今でもいるけど。

 

とにかく、僕は無理できない体質だなー。昨日みたいな気持ちになる日なんて、せいぜい一年に一回くらいですよ、多分。

 

棚ぼたで手に入った学歴と職歴も、まあ使えるかもしれない。職歴はあまりに短すぎると思うけど。発達障害があるので、障碍者枠とかも考えられるし。

 

そう、そもそもやっぱり、発達障害があるから、エリート的な、全能力が万遍なく高い、みたいな仕事は無理があるのだ。

 

うんうん、やっぱり無理だ。奇跡でも起きない限り。

 

なーんか気が楽になったなー。

 

あと、昨日の記事では、「あっち系」と名指してこき下ろしをしていたけど、やはり彼らと目指すところが似ている部分もあるし、何で昨日あんなに憤りが文章に表れたんだろう。

あれだな、多分やっぱり僕が勝手に信用しすぎてたり依存しすぎてたり、あと洗脳され過ぎてたんだな。で、裏切られた―!とか思ったんでしょう。お子ちゃまだなあ。

 

まあでも、ある意味脱洗脳されたのは確かで、そういう人たちの言うことが全然普遍的でないことも事実。本人は普遍的であるかのように語っているが、ど~んなに賢い人でも、普遍性を語ることはできないんだ。できるのは、普遍的であると勘違いすることだけなんだ。そして、それでいいんだ。僕は、その都度、適切な洗脳を選び取るだけだ。

 

つまり、昨日は洗脳を選ぶ間もなく洗脳されてたということだな。せっかくなんだから、普遍性は得られなくとも、普遍性に「近い」洗脳を選ぶべきだな。

そして、それは心穏やかなものであるはずだ。それが一つの指標になる。多分

 

ところで、ここまで書いておきながら、またリバースしたら、それはそれで面白いな。

心理変化

今、ほとんど人と関わらず、閉じこもった内閉的な世界で生きている。

そして、仕事を辞める瀬戸際まで来ている。

親からの攻撃は止まった。理解が得られた。親も親戚や祖母のことなど、色々なことが重なり、情緒不安定になって、ちょっとおかしくなってたようだ。

今は、新しい仕事を探して、例えば障碍者枠で、のんべんだらりとゆったりと、生きていけばいいではないか、と言ってくれている。こういう精神的なセーフティネットはありがたい。

 

つまり、以前のかなりのストレスフルな環境から、逃れている。自分で楽な道を選択できる。

 

そして、このような状況にあって、自分にじわりと起こってきた心理変化、環境と内面との化学反応によって引き起こされたそれが、自分としては興味深かったので、ここに書き記しておく。

 

何と、会社でしっかり仕事してみたい、という欲求が湧き上がってきたのだ。もちろん、一過性のものである可能性もある。(次の日には、いや、一時間後には、やっぱり会社やーめた、と言ってるかもしれない。僕も現在、情緒不安定なのだ。)

 

大学の友人が有名企業の最終面接にまでいった。多分受かる。それを聞いたとき、これから大手企業(といっても子会社なのだが、ほとんど大手親会社からの出向組で、僕の待遇や将来的な展望の広さという点で、親会社に対し少し見劣りする程度のものである。しかも、今の総務グループ長(阪大工出身)に後釜がいないので、彼が定年退職すれば、自動的に僕がグループ長最有力候補となる)を辞める自分と彼を比較している自分がいた。他の友人も、大手企業でしっかりやっている。

 

恥ずかしい話だ。あれほど無頼気取りで会社には飲み込まれまいとしていた自分の感情が、弱くなっている。というか、会社に残る恐怖と、今の会社から離れてエリート(と呼ぶにはあまりにヘボいんだけど)コースから外れることに対する恐怖があって、退職が現実味を帯びてくるにしたがって、後者がムクムクとその存在感を増してきたのだ。

 

つまり、残念ながら、僕は俗人だったということですね。もちろん、エリートから外れても余裕で生きてはいける。しかし、現実にそれをリアルに想像し始めた時、恐怖に襲われた。何よりの恐怖は、やはり、僕は知的な人間がいない場所では働きたくないということだ。(今の職場には、阪大、京大、東大出がうじゃうじゃいる。僕の直属の上司(グループ長)は阪大工学部出身)。これが僕の、等身大の醜い本音である。

 

僕は、学歴が中卒・高卒のときにフリーターをするという経験をしている。そして、その後に結構な有名大学に入った。この落差は物凄いものだった。

はっきり言って、フリーター時代は、周りの人間も覇気がなく、思考停止状態で、知的な会話など全くできず、僕は完全な欲求不満状態だった。

大学では違った。皆、自分が高学歴であることを無意識に自覚しており、そこからでる自信、パワー、明るさを持っていた。知的な会話ができる。

こう言う形でこの落差を経験している人は、結構稀有だと思う。

退職間際になって、この落差を思い出し、中卒高卒時のやるせなさがフラッシュバックのように蘇った。

 

嫌だ。あそこには戻りたくない。

といっても、当時とは状況は違う。一応今は有名大学卒業という肩書きを得ているし、それなりの企業での僅かながらの職歴もついた。今やめたとしても、年齢的には中卒高卒時の方が有利だったとは言え、当時と今の選択肢の豊富さは雲泥の差だろう。それに、(僕はこういうことには頭が回るのだが)、いかがわしい方法(高学歴の障碍者枠就労というニッチ戦略など)を使えば色々とやれることはあるのだ。

それに、エリートコースでなくても、知的な会話をできる人はいる。それに、知的でなくても、上品なエネルギーに溢れている人がいれば、それでもいい。僕はとにかく、下品な人に耐えられないようです。自分は下品なくせに。

俗に言うエリートコース(僕にすれば、ね。もっと上から見れば全く大したことない)から外れれば、かなりの蓋然性を持って、そこに戻るのは難しくなる。

 

そう、残念ながら、僕は俗物だった。エリート生活を送りたいのだ家賃補助を使ってそれなりに良い一人暮らしの部屋に住み、収入に余裕があり、知的な友人と優雅に酒を酌み交わし、知的な会話をする。そんな生活を送りたいのだ。

仕事においても、レベルの高い仲間とレベルの高い仕事がしたいのだ。

確かに、僕の能力が追い付いていない。しかし、はっきり言って少し手抜きをしてたし、周りに助けを求めることに変なプライドや面倒臭さを感じていて一人で抱え込み、上司の指導も真剣に受け止めなかった。始めから仕事に対する真剣さが足りなかったのだと思う。それらが原因でもあった。そのあたりを必死に埋めていけば、やれる可能性はあるのだ。

 

そして、以前までは、そんなこと全くやる気が無かったのだが、今はできる限り最大限に自分の能力をフル稼働したいという思いがある。

 

こう思ったもう一つの原因は、退職したとして、自分に何ができるのか、と思ったことだ。何もできないじゃないか。高学歴障碍者枠のニッチ戦略は、自分がしたいことを、自分のペースでできるかもしれない、かなり有望な策ではあるが(ここからむしろ本物のエリートになったという事例もある。好きなことをしている人の生産性は半端じゃないからね。そういう意味では、今の企業を退職となったとしても、道はある。門は狭いかもしれないが、何かしらあるのではないかと直感している。可能性は未知数だ。

 

というか当初は、そういう道ではなく、何というか、人の生死や根源に触れる、広義での仕事、本当の自分の根源に根差した生き方、ミッション、みたいなものを望んでいた。しかし、結局はそれにも金が必要だったりするのだ。こういう話は、そういう生々しい話を、神経症的に敬遠する。そこに僕はどうしても欺瞞を感じてしまうのだ。「結局金だろ?」という言葉を、僕は全面的に肯定するわけではないが、完全否定する人々のうさん臭さも感じている。

確かに自分の根源、人生の根源、そういうものに向き合うのが「本当の人生」であり、僕もそれを求めている。しかし、そういう「本当の人生」に関する議論は、「でも(よっぽど人格を含めた才気に溢れているとか、人と繋がっていく力があったりする人とかでない限り)金がなきゃ始まらない部分もあるよ」という残酷な事実をひた隠しにする部分がある。

だって、そういう「本物」を標榜する人たちが、実際に僕たちに何かしてくれますか?厳しい言い方をすれば、講演やって自分の好きなことくっちゃべって、本に自分の言いたいこと書き殴って、それで終わりじゃないですか。彼らが良く言う言葉は「自分を変えるのも救うのも自分自身です」。僕は、ここに大いなる欺瞞を読み取る。中途半端に自分に興味を持たせて自分の世界に引きずり込もうとする割には、結局何もしてくれない。僕が今まで慣れ親しんできた著者などを「洗脳」と見切ったのも、こういうところが大きい。彼らは、自分の正しさを主張し、人々は自分についてくるべきだと主張し、洗脳されてついてきた人々を今度は「甘えるな。自分でやれ」と突き放す。

 

東北食べる通信の講演をしていた人にも同じ欺瞞を嗅ぎとった。農業体験もさせずに雑誌だけ買ってくれって?んでもって吉野家で食ってる人を鶏の餌付けに喩えたり、ランニングする人を揶揄したり、てめーはいったい何様なんだ。片腹痛いわ(笑)そういう事言ってるてめーが一番人間として低劣だ、バーカ(笑)って感じ。人の事情も知らないで、上から目線で、最悪だよ。まー消えていくね。

 

僕はついに、こういう人たちの醜さ、傲慢さを嗅ぎとってしまったわけですね。だから全ては洗脳であると見切り、逆に洗脳を自分の都合のよいように「利用」してやればいいと思ったのです。洗脳をツールとして自由に選び取ればいいと考えたのです。これが僕が思いついた脱洗脳なのです。無限回廊的な。

彼らは「真実」を標榜し「本物」を標榜し「知性」を標榜し、俺は人々に真実を本物を知性を伝えているんだ!と主張するわけですが、その裏は、本人ですら気づいていない支配欲や自己顕示欲、自己正当化欲であったりすることも多々あるわけです。多分そうじゃない本当の意味で本物の人というのは、非常に少ない。どちらかというと、表に出てこない。

 

気付いてしまった今となっては、そっち系の人々の傲慢さは、はっきり言って片腹痛い。主張する割には何もせず、放置し、弱くて洗脳されやすい人々を振り回す。だから、はっきりと、僕はこういう人たちにはある程度の見切りをつけたわけです。

それだけ主張するのなら、そのメッセ―ジにコミットした人間のために何かしてみろよ。てめーらは声高に主張しても何もしてくれないが、てめーらが嫌いな企業とかは、一応働けばちゃんと報酬をくれるぜ?てめーらは何をしてくれた?都合がいいときだけ顔出して人が困ってるときに限って逃げてんじゃないか?

 

とまあ、真実とかを標榜するそっち系の人の傲慢さに気付いてしまって、「こりゃ駄目だ」と思ったわけです。

というわけで、僕の中で、相対的に「真実・真理系」の人々に対するコミットが非常に小さくなりました。宮台とか苫米地とかね。

もう彼らはいいよ。現実的に地に足の着いた道を歩もう。せっかくエリートコースにいる(何度でも言うが、たいしたことはないです。僕にとっては、って感じ)のだから、一度くらいは本気で取り組もう。あっち系より全然マシ。

 

何か、嫌いな先輩や上司がいて、それで辞めていく、というのも、違うと思った。よくよく考えれば、自分が仕事をしんどいと思っていて、それが性格の歪みを生み出し、あえて被害妄想的に彼らを悪者に仕立て上げていたところはある。それもこれも、人間面倒くさい、人間と向き合いたくない、という昔からの僕の逃げ癖のせいだ。

女の子と付き合った時もそうだった。いつも真剣に相手に向き合おうとしない。そして、相手から愛想をつかされる。その繰り返し。自分に自信が無いから、向き合うのが怖いのだ。向き合うと、相手の女の子にはしっかりと芯があって、だからこちらにしっかりと向き合ってくれるのだが、僕はその視線を暑苦しく感じ、自分には何の芯もないことに気付かされて、自信喪失し、逃げ出してしまうのだ。結果、相手の女の子からの評価は「あいつはヘタレだ」となることが多かった(言われてないけど、多分そう思われている)。僕は逆に「あいつ、何でそんなに毅然と人と向き合えるんだ」という感じだった。でも、僕、気の合う男友達とはそれなりに向き合えるんだけどな。何か女性恐怖みたいなのがあるのかな。

僕の課題は、逃げずに、人と向き合うことだ。上司の言葉を思い出す。「しっかりと本音ベースで話をしてくれ。君という人間が見えない。」これは、ちゃんとこっちを向いてくれ、向き合ってくれ、という叫びだったのだと思う。

総合的に言うと、「甘え」という言葉に集約されますね。

多分、僕の心の深い所に到達した傷が原因だと思う。今のこの奇妙な状況で、それに向かい合わざるを得ない状況に来ている

 

まーとにかく、もう一度、しっかりと、逃げずに、向き合って、真剣に、仕事に取り組むということをやってみたい。僕がエリート街道を駆け上がるのを愉しみにしてくれている人もいる。僕はこの人がすごく好きだ。

それで敗退したのなら、しっかりと納得できる。

今は、まだだ。まだ力を出し切っていない今退職しても、不全感が残る。

 

不全感が残る形で、知性のない世界に没落していくことに対する恐怖。これが、今の僕のこの気持ちを駆動している。これは、以前は、尻を叩かれてる家畜のようで嫌だったけど、でも違った。もはやこれは対人での問題ではない。僕自身の傷との対決・問題だ。

 

僕自身の問題だ。その場として、会社を利用させてもらおうと思う。

 

いやはや、でも、こういう環境と自我の化学反応による様々な変化を観察するのは楽しい。受動的に、放っといても、こういう風に千変万化していくわけです。映画を観るより、やはり自分の人生の方がリアリティがあり、圧倒的な臨場感を持っている。自分の人生という物語の観察のほうが面白い。これは普遍的な娯楽であるように思う。

 

そして、それを書き記すことは愉悦である。

 

「全て」が何を選ぶのか。

もう一度言うが、明日には「やっぱやーめた。あほらし。」ってなってるかもしれないんだからね(笑)

それも化学反応により「全て」が選んだ結果。興味深く眺めさせてもらう。


あと、散々「真実系」をこきおろしてきたが、最終的に僕が目指すのはやはりこっちだということは変わらない。

知的で、立派で、格式があり、エネルギーに溢れた正の世界。

ただ、あまりにもエセが多すぎるということ。


機序

今回のポジティブな結果の作用機序はどのようなものだったか。

 

まず、僕のブリーフシステム、RASと言っても良いが、それはネガティブなものだ。これは、フィルタリング機能のようなもので、あらゆる情報の中から特定の情報、僕の場合自分に不利になるような情報だけを取り込んでしまうという特性だ。

 

つまり、主観的には、世界は不穏に満ち溢れ、景色は灰色に歪み、世界はネガティブな情報のみを自分に対して送ってきているように感じる。そして、この世界観に「No」を突きつけるのが、例の「否定」なのだろう。

 

―×―=+

という作用機序だ。

 

もちろん、僕のブリーフシステムやRASが完全にネガティブなものならば、完全にポジティブな方法だが、そうではないので、ネガティブが残る。+×-=-の部分もあるのだ。


ところで面白い記事がある

http://karapaia.com/archives/52237669.html


たしかに自分の周りを見ても、トラウマティックな環境で育っていたり、家が貧乏だったりするひとのほうが頭がいい印象がある。

ただ自分に当てはまるかどうかというと、「?」がつく部分もある。

効果

自分や自分の行動、考え方、感情などを否定するような全ての情報を逆に無限回廊的に否定し返す、という方法

 

早くも効果が表れている。劇薬なのではないかというくらい。

 

明らかに思考の方向性が変わった(前にもこんなこと書いてたな)。

 

自分で考えだした概念(作法、思考方向)が、明らかに自分の行動やエフィカシーを変えた。もちろん、特にメタでない現実世界では、一過性のものである可能性も高い。

 

なぜだろう。否定というネガティブな方法が、ポジティブな結果を生み出している。

考えられる原因は、自分の今までのエートスみたいな根深いものに影響を与えているからではないか。僕のエートスは破滅的で暗いネガティブなものだったということだ。ここ最近の生活、そして映画などの影響もある。絶望的なものばかり見ていて(レクイエムフォードリームなどなど。もう目を背けたくなる)、エートスのネガティブ性に拍車がかかっていたのだろう。

自分のエートスがネガティブであるという、そのことにさえ気付かなかった。というか、今獲得した視点から見ての話だが。

ネガティブとネガティブをかけるとポジティブになったというイメージがある。

-×-=+ というか。

そういう意味で、もともとポジティブなエートスを獲得している人には、この方法は合わないかもしれない。分からないけど。僕にしても、この方法は受容性を得るための一つの方法であり、必要に応じて捨てていく方法だろう。でも、今はそれよりもこの思考方向を忘れないことの方が大事かな。

 

何回か前の記事で書いた「突然変異」とも呼べるかもしれない。概念の発明と、それのインセプトによる突然変異。でも、これまでが破滅的かつネガティブすぎたので、解毒には時間を要すると思うが。だって、書いてる鼻から不安感が頭をもたげてきてるし。

 

それで良いんだ。揺らいでて良い。主に会社のことと、これからの自分の生活・人生に関することで、超絶ネガティブになっていた(本当にそうなっている時は、そのことに気付くことすらできない)。

また揺らぐだろう。

でも、それでもいいと、「今思えていること」が大事なのだ。そして、それは未来に繋がっていく。

 

今まで目にし、聞き、出会って僕の思考や人生の深淵への洞察を賦活してくれた全てのものは洗脳でもあった。しかし、「ある種の」脱洗脳のために必要な洗脳だった。それらに感謝。そして、それは洗脳であってもなお、今でも僕を支えている。その洗脳を前よりは自由に選び取れるようになったということもある。これこそが僕なりの脱洗脳だと言っても良い。本記事一行目の方法、この劇薬がそれを可能にした。

もうネガティブを赦す。僕は、ネガティブを恐れるという状況を恐れていたのだ。

つまり、逆説的に、ネガティブになっていいしネガティブを恐れていいんだよ、と思えたことが、ポジティブなことなのだ。

 

さあどうなるか。

受容性

今まで受動性という言葉で記してきたが、受容性という言葉に置き換えても良いように思う。

何でも受け入れる。この一言に尽きるのだが、何でも受け入れるというこの言葉が、この言葉だけだと、読み返す時に非常に勘違いしやすいので、長々とした説明記録が必要だ。

 

もちろん、僕の言う受容性も、一般的に言うそれとはかなり違う。受容性というと、なんでも受け入れてくれる優しいイメージ、って思うかもしれないけど、そうでもない。

というか、それは、一般的にいう受容性のイメージの方が間違っている。受容という言葉の本義、もしくは「何でも受け入れる」という言葉の本義に立ち返ると、全然違う。だって、何でも受け入れるって言ったときに、既に、何でも受け入れないような性質・排除性などを、それこそ「受容して」いない(排除的)のだから。だから、これも言語的には矛盾というか無限回廊にならざるを得ない。でも、人々は、この言葉の上澄みだけを見て、自分の都合の良い解釈をする。まあ精神が揺らいでしまう間は、そのことを否定はしないけど。

このようなことを含めて把握しない限り、やはり一般的に言う「受容性」とか「何でも受け入れる」という言葉・イメージにも、バイアス、もっと言えば洗脳が潜んでいる。まあ、これは、どの言葉でもそうだし、人間に対する洗脳が、どれだけ深いところまで達してしまっているか、ということも示す。

 

これらの言葉の説明は、基本的に、今までさんざん書いてきた無限回廊的な説明になるので省く。自分の頭の中では、もうこの思考方向には慣れてきた。

 

とにかく、特に僕のような人間は、どれだけ洗脳されてきたことか。いや、気づいてるだけマシか。ほとんどは、気づきすらしない。なんか傲慢な物言いになっちゃってるけど、まあ気にしないでおこう。本質を見失わないように必死で、そんなこと気にしてる余裕はない。

 

これも無限回廊だから記録は省くが、あらゆる洗脳が洗脳であり、洗脳でない、というか洗脳を洗脳のまま洗脳でなくすことができる。

 

これを実践するのに、とにかく受容する、という方向があるが、まだまだ深い洗脳状態に陥っている僕には、荒療治として、他の方法も併用するといいかも。

つまり、自分や自分の行動、考え方、感情などを否定するような全ての情報を逆に無限回廊的に否定し返す、という方法だ。人の言うことなんて完全に無視していいのだ(しかしそれは無限回廊的に無視ではないのだ)、と以前の記事で書いたが、これと関連する。色んな本とかで受容性の大事さが語られているが、このような方法はお目にかかったことが無い。だから、これは自分で思いついたというか、降ってきた方法だが、かなり効果のあるというか、本質に働きかける方法というか作法だという、結構深い確信がある。

 

空手などの武道で言う「型」。最終目標は型からも抜け出すことだけど、そのためには一度型を徹底することを通過しなければならない。不自由を経由しての自由。まあ上記の洗脳の場合、徹底まではいかなくていいかもだけど。

上記の場合も、受容に至るために非受容(否定)を経由する、という感じ。こういう矛盾や無限回廊があるから記録が煩瑣になるんだよな。

 

自分や自分の行動、考え方、感情などを否定する情報を何でもかんでも否定する。否定しつくす。外部からのあらゆる情報を否定する。否定の炎で焼き尽くす。これは、外部からの洗脳情報を跳ね返す、ということだ。ただ、否定すると言っても、これも無限回廊ね(否定に肯定が内包される)。その意味で、ことごとく矛盾的に無限回廊的に洗脳を跳ね返す。

また、行動、考え方、感情の中で、特に重視すべきは「感情」だ(これも無限回廊ね)。感情が、もっとも自分に影響を及ぼすもの、深い所のもの、純粋なもの、洗脳を受けていないもの、だからだ。次に考え方、行動、とくる。まあ結局全部だけど、とにかく自分に反するものを全て否定する。そして驚くべきことに、そこを通って逆説的に、本当の意味での受容に至ることができる(と思う)。

 

このことに気付くまでに、何と時間がかかっただろうか。そして、この視点から過去の自分を振り返ると、何と不自由だっただろうか。傍から見れば過去の自分の方が自由に見えるかもしれないけど。メタだからね。

 

 

ふう、結局、「とにかく自分を否定するものを悉く否定する」という作法、文章一行を記録しておきたかっただけなのに、なんと多くの説明記録が必要なことか。

よく、物事はシンプルだと言われるが、それは見かけ上の話で、裏ではとんでもなく複雑怪奇なものが潜んでいる。この世界についても、シンプルに単純に見たがる人が多いと思う。その方が楽だし、精神的にも安定するからね。でもその基盤が崩れた時どうすんだろ。これまでもそうだっただろうが、特にこれからの時代は、個々がどこまで考えを突き詰め、自分のオリジナルの強固な基盤を作ったかが試される時代なのに。あらゆる常識、あらゆる寄る辺、あらゆる基盤が崩れていくのだから。世界は全然シンプルじゃない。複雑怪奇のカオスです。

 

ところで、言葉とは、物事を固定する作用がある。だけど、世界というものは常に揺らぎ変化している。世界を記述するのに言葉を使う、ということに、そもそも無理があるのだ。でも他に有力な方法がないから、仕方なく使っているのだ。だから正確な言語記述は無限回廊にならざるを得ない。

しかも、数学で言うと、割り算で、同じ数字がずーっと続くというのがありますね。5.164164164164164164・・・というふうに。これならまだ言語化できてマシなのだが、無限回廊は円周率なんだ。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・と、ランダムで、つまりカオスなんだ。

 

世界構造もこれと似ている。だから概念言語的には無限回廊という言葉で表現するしかない。

つまり、

(複雑怪奇な)世界構造←→3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・

無限回廊」という概念←→「円周率」という概念

数学言語←→言語

という感じの対応関係。

 

ところで、こういう思想は、仏教や特に空観、中観やデリダ脱構築と、非常に親和性が高いだろう。やはり、個々の人がそれぞれ、本当に惹かれるというか吸い寄せられるものというのは、意味があるんだな。

 

やはり、fate/zeroのあの言葉が思い浮かぶ。

自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?

 

続き

・①洗脳に気付いているのに洗脳から抜け出せない、②洗脳に気付いていない、③洗脳に気付いて洗脳から抜け出せている(ある意味、抜け出せないと悟っている)の順番に、辛さが減っていく。

奴隷意識で考えると分かり易い。奴隷であることに気付いているのに奴隷から抜け出せないのが一番つらい。奴隷であることに気付いていないのが次に辛い。奴隷であることに気付いて奴隷から抜け出している(ある意味、奴隷から抜け出せないと悟っている)のが一番マシ。

 

・洗脳や奴隷という言葉を虚無、抑圧という言葉に置き換えても同じ。

 

・自分は、一番辛い状態だった。つまり①だった。だからこそ、洗脳も奴隷意識も虚無も抑圧も人一倍強かった。でも、だからこそ抜け出せたと言える(③)。いや、抜け出すところまでは行ってない。「気付いた」レベル(③´)。でも、この一つ前の記事でも書いたように、③´でメタ的完成系とも言える。

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)とPTG(Post Traumatic Growth)の両方。表裏一体性。学習性無力感と楽天性の表裏一体性と似る。

www.positivepsych.jp

→過剰。共同幻想で吸い取れなかった個々の部分。孤独だが根源。

自分の特殊性はそれに向き合わざるを得ないところ。メタ根源

 

a)多分、強さ的にも、③、③´、②、①、の順に強い(「『全て』変数」によって変わるが、傾向として)

 

・万人に対する万人の闘争は駄目と言われているが、違う。なぜなら、それ自体が一つの思想であり洗脳でもあり、かつ思想でも洗脳でもない。本当のぶつかり合いは、それにも気づいた③や③´の人たちのぶつかり合い→これこそ「人の業」だが、これこそ素晴らしい良い事。ここから「本物の」物語、「本物の」ドラマが生まれることが多い。

・洗脳(非洗脳でもあるが)はだめ!も違う。なぜなら、それ自体が洗脳

・そして、「全て」が何を選ぶのか。

 

・なぜ、ドラマ「リバース」に惹かれたか。よく見れば、このドラマは③や③´の人たちのぶつかり合いだから。いや、気づいたからそう見ることができるだけで、あらゆる「本当の」ドラマ・物語、あらゆる「本当の」歴史がこれ。

・これに気付けば、各人独立しており、個々の思惑を持っており、一枚岩なんてことはあり得ないことに気付く。しかし、現在は資本主義の一枚岩になっているように見える。しかし、③や③´の人々は、違う。資本主義に洗脳されながら洗脳されてない。気づいた人々。

自分で言えば、会社の人間もそう。一枚岩であり一枚岩でない。①②③③´という意味でも一枚岩ではないし、③や③´もそれぞれ一枚岩ではない。

・①②は素朴に洗脳・去勢されてる。

→a)だから、③や③´が勝つ傾向(あくまで傾向。だからこそ「全て」は面白いという面も)。

 

・自分はたまに③´がある程度。③に気付けた。近づけたいという意志自体で完成系。あとは時系列的これからを見ていくのが楽しみ。自分の特殊性を挙げるなら、洗脳も奴隷意識も虚無も抑圧も先天的にも環境的にも人一倍強かったからこそ、反動で③´に行けた。(「この私」の根源?かつ、「この私」は存在して存在しないと分かっている「(この)私」)

自分みたいな一般的に言う弱者が生き残る可能性?この意味での他の弱者も。(①から③´や③へのリバース)これからはそれが試される傾向が顕著に。特別な時代に差し掛かっている。やはり世界は変転し、過去を参照できず、輪廻性を包み込む一回性。そのダイナミズムが面白い「全て」が何を選ぶのか。

 

・もともと皆③や③´だった。→必然的に①②になっちゃう。特に現代は(資本主義と拝金主義、平和ボケ、思考体力の喪失など、だが偶発性によって)。→③や③´だからこそぶつかるが、③や③´だからこそ認め合え助け合える

・①②は自信喪失。今は資本主義と拝金主義、平和ボケ、思考体力の喪失など、だが偶発性によって特に多い。ある意味それにより、「悪い意味での(良い意味でのも少し?)」万人の万人に対する闘争が防がれている。→しかし、徐々に奴隷世界に。

→でも③と③’は比較的生き残る。

 

自分の今まで親しんできた世界観を構築するのにお世話になった思想、人物ですら洗脳であり洗脳でない(伊田先生:主流秩序・拝金だめ。 東浩紀:受動性だめ などなど)。

→これらの洗脳(と非洗脳)すら、気づくたびに高揚感。受動的主体。

 

・「リバース」とシンクロしている「detiny(シェリル)」にも惹かれる。

→▽罪と罰 愛の定義さえ人が決めるものよ」・・・「人」でもいいが、どっちかというと特に「個々」。更に言えば「この私」(個々の根源。万人に対する~)→③や③´の人にしか(本当の意味では)思いつけない言葉。←「it's my destiny」も。シェリルはおそらく気付いてる。

▽「はじめから気付いていたの」・・・人は本来③や③´。はじめからそう。存在自体が常に既に、その人の結論を出してしまっている。これからは誰も逃れられない。存在という業。存在という傷。存在という宿命。

→気づく(③③´)か気づかない(①②)かだけ

 

・人に自分の考えを伝える。特に書籍で(物書き)。このことの「業の深さ」

→必ず伝播・影響し、さらにそういう人々を生み出す。永遠に続くカルマ。しかし、「この業こそが素晴らしい」。

→多分、仏教は悟ってこの業を亡くすことを目的とする。特に初期仏教というか釈迦仏教は。しかし、僕の予想では、日本仏教的に「悟れないと気づくことが悟り」。それこそが業をメタ的に亡くすこと。

 

・そして、物書き(特に思想や哲学)のもう一つの側面。

→概念から抜け出すための概念。

知識から抜け出すための知識。

言語から抜け出すための言語。

思考から抜け出すための思考。

つまり、本当の意味での「死」。辛く悲しいものとしての死ではなく、悟りとしての、生との表裏一体を成すという意味での、日本仏教的な解脱としての死(入滅)。

→悟りとは、平然と死ぬことではない。平然と恐怖に慄き、平然とのたうち回り死んでも、メタ的に大丈夫だということだ。

 

・気付けた。③や③´に向かえた。

受動的主体的に「全て」に選ばれた(選民思想とは違う)

→勝てる。少なくともメタ的に勝てる。

愉しめる。少なくともメタ的に愉しめる。これぞ愉悦。

 

これから、いくつもの個々の事例について、脱洗脳的視点を獲得できるだろう。その個々の事例をこれから書き記せたら書き記そう。

 

 

またもや受動性について

僕が考える、というか感性が鋭くなっている時には気づけるんだけど鈍くなってるときにはその本質を見失ってしまう受動性、というのがある。つまり、鈍くなってるときに読み返すために書いている。

 

例えば、少し前の記事で、受動性のデメリットとして、市場における受動性(神の見えざる手)が大きな格差につながることを話題にした。

この時は受動性に対する感性が鈍っている時だったと言える。僕が本当に思う受動性とは違うからだ。

これは結構当たり前のようなことなのに、結構言われていない、そういう意味で僕のオリジナルに近い考えだと思うのだけど。

つまり、市場の例で言えば、神の見えざる手によって生じる著しい格差、それに対する世界の反応・変容、そしてその世界を見つめる自分の感情、これら全てを「見つめる視点」としての受動性だ。

著しい格差を見て動揺する程度の受動性(弱い受動性)ではない。著しい格差に対して、反動で「それを楽しめ!」というようなものでもない。かと言って、それに反旗を翻すことでもない。そして、ただただ極小化された点としての冷静を装うということでもない。

 

あくまで例として、市場の話を持ち出すが、神の見えざる手では著しい格差が生じてしまう、という話を聞いたときに、人が示す反応は大体同じだろう。これは、思考レベルではなく、もっと深い感情レベルでの反応の話だ。つまり、動物本能的に、そのような未来に対して「不安」の感情を持つはずだ。

この時点で、既にある意味「洗脳」されているのだ。人間が「持つべき」とされている感情に矯正されているのだ。本当は、個人史・先天的なもの、環境、その日の体調や精神状況など、あらゆる変数の違いによって、感情の反応にはかなりのバラつきがでるはずだ。しかし、上記の話を「本当に理解していれば」そうはならない。つまり、何らかのバイアスがかかっている。

現に僕は不安を感じた。別に、これだけじゃない。もうウォールストリートの支配、その裏の中世から続くヨーロッパ王侯貴族などの支配はもうそこまで迫っている(別にこれは妄想でもなんでもいいんです。現状を見て分かるように、背後にあるものが何であれ、これから超格差社会になることは目に見えている。現時点でもウォール街で働くビジネスマンの年収は650億円)。

googleapplemicrosoftfacebookなどの超サイバー企業が対抗馬となるが、まあ、一般人には計り知れない世界の流れの中にこれから放り込まれる。

 

市場の話だけど、その話を聞いたときに、素朴に不安を感じるのは、まあ別にどうでもいい。不安を感じないと豪語するタイプもどうでもよくてしょうもない。

うーん、なんだろう。言語化できない。こういう風に消去法的に浮かび上がらせるしかほとんど言語化の方法がないように思うのだけど、消去法でも限界がある。

 

こうして書いてる最中にも、もう消えてしまっていってる。繊細すぎる概念。論理的なものというより感情的にふってくるものだからか。

どうにか残したい。

 

つまり、本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことを極めている。その思考や感情には「寄る辺」がない(のにある)。例えば、上記の市場の話で言えば、不安を感じた自分すら客観化する自分すら客観化する・・・という無限回廊。でも、これは「自発的」なものだと「気付いてしまう」。その気付いてしまったことによる変化が起きた自分すら客観化・・・つまり、受動性だと「気づく」、それをまた客観化&受動性・・・のまた無限回廊

でも、無限回廊ではないのだ。論理的に言語的に言うと必ずこの無限回廊てきな説明になってしまう。でも、言葉の要らない実践形としては、無限回廊ではない。

円周率に近い。数値という言語的には、永遠にその計算は終わらない。ただし、実践形として、僕たちはこの世界でそれを実際に使っている。幻想ではない。

お、ちょっとだけ何とか消去法ではない形で言語化できたぞ。

 

本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている、という言語化なわけだけど、言葉のイメージとは違い、これが実際に徹底できると、実践形としては、『孤独』ではないという矛盾。これも幻想ではなく、つまり、「そこにいないけど繋がっている」というような、ある意味でのおためごかしではない。これもやはり円周率の例が分かり易い。

「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている>という言語自体、孤独の表現を極める形だけど、実践形ではそうではない。この矛盾は致し方なく生じる。

かつ、傲慢(言語)に聞こえるけど非常に謙虚(実践)。この矛盾も致し方なく生じる。

 

受動性(言語?)という自立性(実践?)。これだ。矛盾をそのまま表してる。まあこの言葉だけじゃ色んな方向に誤解釈してしまうけど。だから長々とした説明記録が必要だった。

ちなみに、

受動性→自立性

受動性←自立性

という両方向を秘める。

 

「世の中に洗脳ではないものはない」という考えも洗脳、という考えも洗脳・・・という無限回廊。うん、これもヒントになる。これも言語化では無限回廊だけど、実践形ではそうではない。

 

ここまでの話で重要なのは、あくまで徹底できれば、という話であるということ。でも、徹底の方向性にいること自体がすでに徹底である、という考えが既に徹底である・・・という無限回廊でもある。これもそうだね。

 

つまり、気づくことで既に完成している。

ある意味の、言語と実践の統合ではない。言語と実践の統合に「気付く」ということに気付くということに・・・無限回廊

 

ここの精神状態に極たまに偶然的に達していることがある。いや、偶然ではないか。やはりそれは<世界>に触れたときな気がする。いや、その精神状態だから<世界>に触れられたのか。どっちだろう。まあここはどっちでもいいや。どっちでもあるかも。

 

この精神状態、というか気づきに達している時のみ、精神がある種の特殊な、多分僕にオリジナルの高揚感を得る。オリジナル故の高揚感とも言えるし、でも<世界>を貫いているものを見ることによる高揚感でもあるから、それは独我論的なものでもない。個々も矛盾。

 

洗脳(「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」)の洗脳の洗脳・・・から実践というか実際に解き放たれた時とも言える。

 

僕の考える受動性は、(多分常に?)矛盾という形になるので、こういう意味不明な言語化になってしまう。

 

実践というか実際的には、言葉にするとまた矛盾と無限回廊をはらむけど、とにかく「世界がどうなるか楽しみ」「自分がどうなるか楽しみ」「ウキウキワクワク」と記しておこう。

 

そう、誰にも分からないということに気付いた。皆、独我論者であり独我論者でない。

とにかくオリジナル。オリジナルでしかあり得ない。ぜ~んぶ、無視と非無視の矛盾をはらんだ形(言語的に)

片方の意味で、人の意見なんて、完全に無視していいのだ。だって、本当は全て、ホントのホントに全て、確実ではないんだ。でもそれは片方で無視ではないのだ。無視は不可能なのだ。

 

全ての言語も意味も解釈も考え方も人生観も世界観も、他者から与えられたものであり、剥がれ落ちる。本当は全部オリジナルなのだ。それに気づくかどうかだけなんだ。でも結局剥がれ落ちてなくて、でも気付いたということは剥がれ落ちたことなんだ。

剥離と非剥離の矛盾。

 

嗚呼、気づく前まで、何と洗脳されていたことよ。まあまた洗脳に戻るだろうけど。できれば脱せれてる時間が多くなってほしい。

 

寄る辺が無いのに寄る辺があって、メタ的に怖くない。

どんなに自分の奥深くまで食い込んんだ親しみのある「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」でも、剥離とか無視。でも剥離とか無視じゃない。

 

とにかく気持ちいい。メタ的脱洗脳。そして、高揚感が導かれる。

メタ的に(あくまでメタ的に。でもこれこそ大事)、ま~ったく囚われる必要はない。

いやはや、一回性なるこの自分や世界、つまり「全て」、どうなるかな~。無限回廊的視点からの見晴らし。

 

 

これが僕の根源なのかな。

というか、あれ?これって結局、「空観ベースの仮観」である中観か?

自分の感情も心も、世界の見え方も、洗脳でないものは一つも、ホントのホントに一つもないんだな。空観だ。そして中観にする。それにさえ気づけば不自由さえ自由だ。つまり自由だ。

 

というか、こういうことに気付けたのは、僕が本当に不幸で変わった人生だからだろうな。一般から大きく逸脱した、ホントのホントに自分の考え、オリジナルでいいのだ。というか事実としてそうでしかあり得ない。「全て」決められている。ある意味ラプラスのデーモン。なのに受動的主体!高揚感!完全に脇役でも主役。

 

もうやめよう。永遠の言語化になってしまう。

 

 

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