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弟を殺した彼と僕

を読み終えた。

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人間の心情の複雑性を垣間見た。

死刑囚の長谷川さんと主人公の原田さん。お互いにここまで考えが変わるのか。

それでも変わらない考えもある。人の死の重み。

 

感じたのは、マスコミ、検察、刑務所の役人など、組織の人間たちの非人間性だ。遺族である原田さんたちは、人間として扱われているというより、事件に関連する歯車として扱われている。遺族の個人的感情や個人的事情は基本的には無視される。

 

また、やはり、長谷川さんが殺人を犯す経緯が悲しい。原田さんの文才なのか、彼が徐々に泥沼にはまっていく様子が伝わってきた。1の失敗を取り戻そうとして2の失敗になり、その2の失敗を取り戻すために4の失敗を犯す・・・というように、雪だるま式に厄介事(ここでは借金)が増えていく。しかし、一番厄介なのは、「現状から何とか抜け出したい」ともがく心だ。でも、泥沼においては、もがけばもがくほど深みにはまっていく。

長谷川さんは、途中からはもう自分を完全に見失っていて、何が何だか分からなくなっていたのだろう。そういう状態で、良心や理性というものが機能しなくなっていた。そして、原田さんの弟を含め、3人を殺害する。

もちろん、追い詰められたからと言って人を殺すなんて、許されてはならない。同じ状況でも人を殺さない人が大半だ。長谷川さんは、元の生活に戻るという執着が強かったのだ。彼にとって、今のままなんてのはありえないことだった。そのためなら何でもする、と。自分の執着が自分を追いつめ、人の道を踏み外させた。

なぜそこまで執着したのか。彼自身も心に癒えない傷をもともと負っていて、現状の自分を許すことができなかったのだろう。自分で現状の自分を許し、認めてあげられていれば、他の道はいくらでもあっただろう。例えば、さっさと自己破産してしまう手だってあったはずだ。多分、ありのまま自分を認めてもらった経験がないか、少なかったのかもしれない、と思う。

そういう人は、ありのままの自分は誰からも認められない、という焦りがあると思う。だから、必死で認められる自分になろうとする。認められるためなら、何でもするようになる。これって、他人の奴隷だよなー。

 

でも、長谷川さんのみならず、僕も含め大半の人はそうではないだろうか。周りの輪からはみ出さず、認めてもらうために、無理して受験を頑張る、就活を頑張る、出世を目指す、モテるように頑張る・・・その根底にあるのは、他人から愛されたい、という一言に尽きるのではないか。

愛されるために背伸びをして、地獄を作り出してしまう。代々木忠の著書「オープンハート」のテーマそのものだ。ただ、「愛なんかいらない」とうそぶいて何もしなければ、ただの自己中心的な人間ができあがる気がする。

社会的生物である人間の本能からして、ほとんどの人が愛に飢えてさ迷っているのだと思う。まずは、自分で自分を認め、愛するところから始めればいいのではないか。また、人はそれぞれ独立した個人であることを忘れないことも大事だろう。

自分への愛を自分で充足すれば、自然と人への愛が生まれるだろうし、自分が独立した個人であることを忘れなければ、人間関係を加点方式で喜べる(逆に、人と分かりあえて当然と思っていると、人間関係は減点方式になる)。そんな人は、自然と周りから愛され、認められるようになるのだろう。

 

とまあ、こんなことを考えたが、長谷川さんは殺人を犯してしまった。

この一件によって、原田さんの家族や長谷川さんの家族にも、どんどん災難が押し寄せる。泥沼だ。それを高みの見物して同情したふりをするメディア、メディア享受者などなど。現実のリアルを知った。事件関係者が国民の溜飲を下げるための道具にされている。メディアは人の死さえも物語化し、つまらない日常を送っている国民は、それによって鬱憤を晴らす。

原田さんが徐々に長谷川さんに心を開いていくのは、自分たちが同じように世間によって虐げられている被害者であることに気付いていくからだ。深読みすれば、そもそもこの世界の庶民のほとんどは奪われる側で、被害者なのだ。なのに、あらゆる洗脳によって、それを忘れさせられ、被害者同士で競争させられる。時には殺しあう。被害者同士なのに、同じ被害者が更に深い穴に落ちたら、それで胸がスカッとする。ブラックショーのような胸糞悪い世界だ。

原田さんは、そこに気付いたのだろう。悪の大ボスだと思っていた長谷川さん、実は彼すらも被害者であるということ。もちろん殺人を絶対に許しはしないが、本当の敵はもっと強大で見えにくいところにいること。

 

本を読んで見えてきた社会構造は、こういうものだ。

 人は社会的生物で認められたい(愛されたい)。その人間の本能が悪く利用されるような社会がある。人はその社会でしか認められないと洗脳され、奴隷のようにその場所で背伸びをする。奴隷同士の蹴落としあい、傷つけあいがある。長谷川さんが諸悪の根源だと思ったが、彼も所詮は奴隷だったのだ。本当の敵は、人を無限に背伸びして競争させる社会構造だ。そして、その背伸びと競争を見てほくそ笑んでいる奴らだ。

これって、まさに主流秩序のことじゃないか!

(このあたりの「(社会的)洗脳」の話は苫米地英人に詳しい。例えば、「まずは信じることをやめなさい」など。)

こう書くと悲観的だが、もちろん、このような主流秩序に侵されていない社会が、この世界にはまだまだたくさん残っているのだと思う。僕も、脱出のための最低限の金(主流秩序の中で認められるための金ではない)と戦うためのノウハウを得て、離脱したい。というか、この二つが揃わなくても、限界になった時は、片道切符で離脱するだろう。まあまだまだ、主流秩序から精神的にすら離脱できていないんだが。

 

ところで、長谷川さんは獄中で本当に真人間に生まれ変わった。全てを失って初めて洗脳が解けたのではないか。独房に入れられ、彼は安心感すら味わったのではないだろうか。「ああ、もうお終いだ。でも、もう背伸びしなくてもいい」と。彼の本当の人生は、むしろ独房の中での何十年かの中にあったのだろうと感じた。

 

 

「弟を殺した彼と僕」を読んで、昔に読んだ、曽野綾子の「天上の青」を思い出した。

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