なぜ、【なりすまし】をしても大丈夫なのか?

換言すれば、【なりすまし】は虚しさを惹起しそうだが、なぜそうではないのか?

 

簡単である。そもそも虚しくない人生などないからである。この世の雑事は、言語的に構成された偽物であり、空虚だ(言語ゲーム)。その事実に気付いていないことこそ最も虚しいからである。

 

人間は一秒一秒死に向かって歩んでいる。これを止める術は全く無い。

パスカルが言うように、人間は死という壁の前に黒いカーテンをかけて死を見えなくし、黒いカーテンに向かって突進しているようなものなのだ。黒いカーテンの役割を果たすのは、表面的な人間関係・娯楽・仕事など様々な雑事だ。しかし、この黒いカーテン(雑事)の奥に「死」という壁があることを忘れてはならない。それは決して越えられない壁であることを忘れてはならない。カーテンの裏側を忘れてしまった者は、雑事(黒いカーテン)をマジガチで生きてしまう。

 

強烈なトラウマ体験は、「死」へと肉薄する経験だ。いや、実はカーテンの裏には、「死」だけでなく、「死」を含むあらゆる不吉が控えているのだ。強烈なトラウマ体験とは、それらを「見てしまった」体験だ。まあ、肉薄ぶりは人それぞれだろうが。黒いカーテンの奥にあるものを忘れたくても忘れられない呪いをかけられるのである。

 

かと言って、黒いカーテンを完全に、かつ恒常的に取っ払ってしまうと、いくら何でも発狂してしまう。バランスをとるための【なりすまし】なのだ。

 

黒いカーテン(雑事)は言語的に構成された虚しい疑似創作物。

その裏側の非言語の世界。カオス、呪われた部分(ジョルジュ・バタイユ

 

以前、空観に寄りすぎても仮観に寄りすぎても破滅に近づく、という話をした。

【なりすまし】は中観なのだ。真実を見つつ(空観)も、それに見入りすぎて発狂したり虚無主義に陥ったりしない。かといって黒いカーテン(仮観)で全て忘れ去ってしまい、真実から遠ざかるようなこともしない。

 

カーテンの裏を知っているからこそ、ベタにマジガチにこの社会を生きることもない。しかし、真実はカーテンの裏だと分かっているのだ。だからこそ、黒いカーテン(雑事)はマジガチに受け取らず、適当にいなせる、受け流せるのだ。これが、【なりすまし】だ。

虚の中に実を見、実の中に虚を見る。も大事だけど。

 

トラウマ体験だけでなく、悟りに近づくことによってカーテンの裏側に気付くこともできよう。何というか、前者が陰の道、後者が陽の道、という感じか。他にも方法はいろいろあるだろう。だが、辿り着く場所は同じカーテンの裏側だ。

 

まー、自分はもともと陰の道に近いが、陽の道も取り入れてバランスを取ろう。

 

【なりすまし】た欲望ではない、カーテンの裏の欲望に興味がある。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?

fate/zero、英雄王の台詞(小説のほう))

 

うーむ、面白い。

【なりすまし】の受動性について、も少し詳しく。

 

「役柄」レベルでの【なりすまし】。

「感情」レベルでの【なりすまし】。

様々なレベルでの【なりすまし】があることには、前回少し触れた(なりすましの多重性)。

 

後者の場合で例をとる。

単純に、やる気を見せなければならない場面なのに、気後れしてやる気が出ないという「感情」を例にとる。

 

<なりすまし>は字義通り、自分の感情は他にあるとしてそれについては手放さずとも、やる気がある態度に<なりすます>。コントロール的である。

【なりすまし】は、「やる気を見せなければならないという状況」と「実際にはやる気がないという感情」を総合した結果として現に生み出されてしまった「行動や感覚や感情という結果(人それぞれ)」に準ずる。

別にそれに徹しようとするわけではないが、基本的に、仏教的な何も考えない(この「何も考えない」を説明するのが難しい。何というか、何も考えないように「考える」事とも違うので実際には考えてしまっていたりするのだが、別に良いのだ。その意味で「徹しようとするわけではない」のだ。「自分なりの自然体」くらいの言葉が適切か。ニュアンスちょっと違うけど言葉が無い。)態度で全てに臨む。

その結果として生まれた行動や現状や感覚に【なりすます】のだ。つまり、全く自分を縛る気が無い。「やる気見せねば!」と縛ることもないし「縛られてたまるか!」と縛ることもない。状況や感情をコントロールしようとせず、流れに任せ、出た結果に対して【なりすます】。

つまり、「音を操る」(バイオリン、ピアノなど)のではなく「音に乗る」(ドラム)というか。事前ではなく、事後というか。0.1秒前ではなく0.1秒後というか。非コントロール的なのだ。

 

<なりすまし>はコントロール。能動的被駆動性。西洋的意志。

【なりすまし】は非コントロール。受動的主体性。東洋的受動。(荘子

 

そう、瞑想だ。

瞑想においても、自分をコントロールしようとするのが<なりすまし>。

一方、あらゆる環境の結果「自然に(「無理に(不自然に)自然にする」ことではない。上記の「何も考えない」と似た構造)」生み出された身体・感情・感覚の反応を「コントロールしようとせず」「ただ観察する」のが本当の瞑想(空観)。更にもうひと手間加えて、その反応に「敢えて」【なりすます】のが【なりすまし】(中観)。「自然に」生み出されたものであるから、【なりすまし】ても負担はない。しかし、「敢えて」それに【なりすます】、つまりその演技を自覚するというのか・・・これが「主体性」に繋がる。

ちなみに、【なりすまし】が無いのが、現実世界をマジガチで生きてしまうことだ。(仮観をマジガチだと思ってしまうこと)

 

自分を使って実験し、<なりすまし>は負担を強いることは実証済みだ。一方【なりすまし】の実験期間に入っているが、既に効果はある。

効果はある、つまり、【なりすまし】は(メタ的な意味で)楽しいし(主体性は楽しいのだ)、また、(メタ的な意味で)生き抜けるのだ。

メタ的なので別に見た目てきに楽しそうだったり、生き抜けているように見えるわけではない。

むしろ、顔をしかめて苦しんでいても、失敗失態まみれの人生でも、その自分に【なりすまし】て自分に酔ってる人っているでしょ。あれに近い。

感情などというものは、ある意味所詮娯楽である。【なりすまし】て楽しむものなのだ。だから、人はわざわざ金を払って映画館に足を運び涙を流してすっきりしたりしているではないか。あれに近い。

 

だから、病人は病人に【なりすま】せばいい。ひきこもりはひきこもりに、犯罪者は犯罪者に【なりすま】せばいい。

その方がスッと抜け出すのだ。まーこの時にはもう抜け出す必要もあまり無くなっているのだが。

金持ちなら金持ちに、リア充ならリア充に【なりすま】せば良い。

そうすると傲りが原因で落ちぶれるということが起こりにくいのだ。まーこの時にはもう落ちぶれるのを避ける理由もあまり無くなっているのだが。

 

まー【なりすまし】の境地はグラデーションだ。大体の方向性は分かっているのだから、あとはのんびりやればいいのだ。

【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】。これはトラウマティックな体験を基盤とする。「過去」のトラウマ体験と「現在」の認知の歪み、その認知の歪みによって現出する地獄は、地続きである。

トラウマティックな体験の有無。悲惨さの強弱。

 

【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】は、トラウマ体験がない、もしくは体験の悲惨度が弱い一般人には持ちえないものである。

この悲惨なトラウマ体験ゆえの社会に対する妄想的な眼差しは、現実社会で生きていく上で障害にしかならないものなのか。そうではない状況が現出しつつある。つまり、社会も人々も錯乱を始めた時代においては、これを持っている者も(者こそ?)生き抜けると言えよう。いや、いつの時代もこの種の人間は、このように生き抜いてきたのではないか。

 

錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が生き残る、という逆説。

錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が唯一まともさを保ち得るという逆説。

まあ、あくまで可能性。

 

このような人間はどのように生き抜くか?<なりすまし>である。なりすますことによってである。

<なりすまし>(宮台真司)≒<仮観>(苫米地英人)≒<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)≒運命愛(ニーチェ

これら四つは、例えばその規模や次元において異なるが、その構造はほぼ同一である。例えば、細胞の構造を人体の構造として見做すことができたり、宇宙の構造として見做すことができたり、逆に極小世界としての素粒子の世界の構造として見做すことができるのと同様にである。

 

宮台真司の<なりすまし>は誤解を呼ぶ。その本質が能動的であるかのような勘違いを惹起する。本来、その本質は受動性である。更に、<なりすまし>は「俗に言う」通過儀礼によって得られるものなので、それを経験できない人間はその恩恵に預かることができない。宮台の誤謬を補填する、もしくは宮台の誤謬を中和するカウンターパートとして働くのが、<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)である。

ここでいう受動性とは何か。<なりすまし>の役柄を自ら選ぶことをしないということである。更に、<なりすまし>の役柄を自ら選ぶという能動性すら、受動性であると見切ることである。いや、これはそもそも事実ですらある。

<仏から与えられた役柄>は、その名の通り、受動的なものである。

この意味での【なりすまし】(自分)を実践すれば、神経症ラカン)が治まる。

思想的な実践は今この瞬間から可能であり、その実践の瞬間から実践(実験)結果が得られる。【なりすまし】が効果的なのは実証済みだ。<なりすまし>(宮台)は、強者の論理であって、トラウマ経験者などの弱者には実践可能性が低いことが多い。

 

①【なりすまし】を支えるのは【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】であり、②【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を支えるのは、悲惨なトラウマ体験である。

ここからは、【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を【妄想】と呼ぶ。

 

②に関して、なぜ悲惨なトラウマ体験が【妄想】を支えるのか。これは、問いを対偶にすると分かりやすい。つまり、なぜ悲惨なトラウマ体験がないと【妄想】が生まれないのか。

簡単である。悲惨なトラウマ体験がなければ、強迫的に妄想する理由がなく、妄想が強固なものになる(そして、妄想が【妄想】になる)理由がないからである。トラウマティックな現実からの逃避として、あるいは自身のトラウマティックな現実と平和に回っている社会との落差における認知的整合化のために為されるのが妄想である。そして、妄想を繰り返すことによって、磨き上げられたそれは【妄想】へと昇格するのだ。

 

そして、①に関わるが、【妄想】は所詮手段でしかあり得ない。②は①の準備段階である。

①を実践するにも、つまり、【なりすます】にも強固な地盤が必要なのである。他に強力な、揺るがぬ世界観(【妄想】)があるからこそ、【なりすまし】は可能となるのだ。子供たちが、家庭という強固な地盤があるからこそ、学校や諸々の活動での友人関係を築けるように。

【妄想】は各種精神障害と親和性が高い。統合失調症をうまく利用すれば、【妄想】の世界にもう一人の仲間、しかも絶対的な味方を作り出すことができる。(映画『BIG DRIVER』、漫画・映画『ヒメアノ~ル』)

 

以下、認知障害人格障害発達障害精神障害、【なりすまし】・【妄想】モチーフなどに主に関連する(ある種の人間が生き抜くのに利用できるであろう)映画・アニメを列記する。

 

映画

『on the high way』

ノーカントリー』(アントン・シガー)

『アンダーザスキン』

チェンジリング

『BIG DRIVER』

メメント

キャストアウェイ

『CURE』

『甘い鞭』

蛇イチゴ』(明智周治)

『EUREKA』

ハサミ男

『ヒメアノ~ル』(森田正一)

この世界の片隅に』(すずさん)

紀子の食卓

攻殻機動隊 Ghost in the Shell

 

アニメ

fate/zero』(言峰綺礼、英雄王)小説の方も

『バッカーノ』(クレア・スタンフィールド)

darker than black』(黒(ヘイ))

 

漫画

『MONSTER』(天馬賢三、ヨハン・リーベルト、ヴォルフガング・グリマー)

鋼の錬金術師』(ヴァン・ホーエンハイム、キング・ブラッドレイ、ゾルフ・J・キンブリー、傷の男(スカー)、フラスコの中の小人(ホムンクルス))

コジコジ』(コジコジ

『ヒメアノ~ル』(森田正一)

ホムンクルス

 

・『オープンハート』

宮台真司苫米地英人ひろさちや伊田広行坂口恭平中島義道仏教系 などの著書

 

その他

・100de名著 ニーチェツァラトゥストラ道元正法眼蔵カフカ「変身」、サルトル「嘔吐」、「荘子パスカル「パンセ」など

 

まー挙げだしたらキリが無い。

 

 

ところで、一般的に得られる通過儀礼の体験は、トラウマ体験者にとって得難いものだろうか。全く逆なのだ。トラウマ体験者にとっては、一般的な通過儀礼など、子供騙しに過ぎないレベルのものである。悲惨なトラウマは、その体験の濃密さからしても、それが社会的にブラックボックス化・タブー化されてしまうことによって生じる変性意識状態という意味においても、修羅場としてのレベルが違う。

よく、修羅場を「量」で測る人々が存在する。違う。修羅場の物差しは「量」ではなく「質」である。100回の中途半端な修羅場の体験は人生をさほど変えないが、1回の濃密な修羅場の体験は人生を変える。

 

もちろん、トラウマも体験すれば良いというものではない。それをサバイバル力に変えるには、それなりに考えなければならないし、精神や肉体の頑健さも必要かもしれない。本質的な思考を放棄してしまっては、どうにもならない。

 

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まとめ と 補足

・悲惨なトラウマ体験によって支えられた【妄想】によって支えられた【なりすまし】によって生き抜く、という方法がある。(万人向けではない。ごく少数者向け。)

・【なりすまし】は受動的なものである。あくまでそれは<世界>から与えられた役柄に自己を投影する形となる。その本質は自我の喪失である。それは、能動性ならぬ主体性を帯びる。受動性と相反するように見えて、これが実際に起こる。【妄想】によって支えられた【なりすまし】があれば、大丈夫である。

・もちろん、【なりすまし】は生きる上での一つの杖に過ぎず、他にも様々な杖を人間は使い分けて生きていく。だが、それすらも【なりすまし】と言える。(再帰性。【なりすまし】の次元の多重性。)この記事で述べたような人は、人と比べその杖が大量に必要であるというだけの話だ。杖が多い分歩くには不利だ。しかし、緊急時には杖が多い分強いかもしれない。

・【なりすまし】た世界における細々としたサバイバル技術は、【なりすまし】

ているからこそ、強迫神経症的に捉われずに習得できる。

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いま、つとに思うこと、それは、幸せになるための方法論は、人間の本能に根差していないので薄弱なものに堕してしまいやすいということだ。

その思考が強力なものとなるのは、それが「生き残るためのもの」であるときだ。

そうであるとしても、頭の中にあるものを言語化すると、何と陳腐に感じられることだろう。

 

めんどくさいから分かり易さを犠牲にしたら、何て脈絡のない文章なのだろう。まー自分のための備忘録であるから。

 

さて、のんびりと生きていこう。

映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』

を観た。

 

久々に感情を揺さぶられた映画。

登場人物それぞれが色濃い個性を見せている。

 

まず、綾野剛演じる安室。

「誰かにもたれかかりたいとか、心が満たされないとか・・・気を付けた方がいいですよ」というセリフ。

どこまでも計算高く、人を陥れ、全てを割り切ることができる、果てしなくドライに見える男。本当にドライな人間は、変にドライに徹しようとしない。人を陥れる癖に、良心もある(子供たちと遊んだり)。だからこそ、逆に究極的にドライな人物が描き出されている。

かと思ったら、その彼がラストシーン手前で、反転する。素っ裸になって取り乱す。鑑賞者としては、驚かざるを得ない。どんな人間も、どんなに自分の中の人間性をうまく操っているつもりでも、それはある時、噴出する、ということだろうか。しかし、それが爽快である。

 

黒木華演じる主人公、皆川七海。どこまでも凡人。どこまでも受動的、依存的、安定志向。でもこれらの特徴が異常なまでに強い。その意味で、異常なくらい凡人という意味で、非凡人。しかし一方で、今の時代に最も多いであろうタイプ(かな?)と思うので、その意味で凡人。という絶妙な描かれ方をしているように思う。そしてその特性ゆえに、彼女はどんどんカオスに巻き込まれる。依存が更なる依存を呼び、いつの間にか泥沼にいる。

彼女の特性は、境遇や発育環境によるところが大きいと思われる。結婚式の際に彼女の両親が登場するが、異様に見えて、ある意味典型的な親だった。本人たちに悪気はないのだが、だからこそ子供は余計に束縛される。巣立った後も、その呪いはなかなか消えない。

 

しかし、七海は、とことんどん底まで堕ちることで変わっていく。そしてcocco演じる里中真白との出会いを通して、更に変化に拍車がかかる。真白は凡人と全く感覚が違う。そして、普通は見えない世界が見え、普通は見えない人の良心が見え、普通は聞こえない<世界>の音を聞く。世界やお金に対する彼女の考え方の反転は、普通は全く発想できない。鑑賞者はそれらに癒される。

しかし、否応なく、そのような人物は「安定」とは縁遠い存在になる。

 

映画の初めから、嘘の塊のような世界が描かれる。最もそれが顕著に表れるのは、結婚式のシーンだろう。そして、安室によって仕掛けらる罠。嘘に嘘が重ねられ、カオス。七海は自分の依拠する精神的なよりどころを加速度的に失っていく。帰る場所がなくなる。自分がどこにいるのかさえ、何者なのかさえ分からなくなる。人工的に作り上げたアイデンティティに、小指一本で何とかしがみついていたのに、その指すら外される。

そんな中でも人は立ち上がっていく。そして、真白との出会い。真白にとっては、世界に嘘も本当もないように見える。ただただ、自分の感覚に正直。その「存在自体」に癒される。影響を受け、生き方を変えられてしまう。安室すら、真白の影響から逃れられず、最後の取り乱しに至る。

 

真白の母親。血も涙もなく、人として完全に堕落してしまったかのような、人として絶望的に見える母親。彼女がラスト近くで取る行動は衝撃的だ。抑え込んでいたものが噴出してくる様子は圧巻だ。その様子に感染して、安室も抑えきれなくなる。最も凡庸だった七海は、真白から最も多くのものを受けとった者として、最も毅然と十全にその場を堪能し、安室や真白の母親とは違った次元で、その場に佇んでいるように見えた。

カオスや自己崩壊を経て真白に出会い、<世界>の溢れるばかりの「何か」に出会った七海は、全く違った存在として生まれ変わった。

 

人生において、このように自分を変えてしまうような出来事が起こるのだろうか。それを確かめるために生きているという面もある。まー何もなければ、「そんなものか」だし、何かあれば、言葉は要らず、その存在自体が変わるんだろう。あるいは、それは本当はもう既に起こっているのかもしれない。

もしくは、ただ生きているだけでも、日々の積み重ねで否応なく、生きることに対するそれなりの悟性は得られるものなのかもしれない。

東北食べる通信

友人に誘われて、掲題の講演を見に行ってきた。

前知識を敢えて入れずに行ったので、どんな話をするんだろうと思って臨んだ。

結論から言えば、行ってすごく良かったと思う。

 

まず、講演の内容が良かった。最近の僕の問題意識と完全に合致する。自分の身体性をどんどんと忘れていき(この間山で熱中症にかかったのも、これが原因の一部である気がする)、生ける屍のようになってきていること。僕だけでなく、全体的にそういう傾向であること。「生きている実感」が乏しい事。

現代の大量消費社会では、安い、早い、分かりやすい(一言で言え!)ということばかり重視される。そして、マーケットはそのニーズにどんどん答える。甘やかされた消費者は、何でも「思い通り」にならないと気が済まなくなってくる。そして、その思い通りを満たすために、更にマーケットに依存し、マーケットはその期待に更に応え、すると消費者は更に甘やかされ・・・という無限ループ。

これ、僕も感じている。仕事を休めば、自分は回復すると思っていた。しかし、そうではなかった。「生きている実感」が足りないのだ。それを埋め合わせるために、マーケットに依存する。その悪循環は、今、示した通りだ。

僕が特に反応した言葉は、「思い通り」という言葉だ。生きている実感がなく、マーケットに依存する。しかし、マーケットが本当の生きている実感を代替できるわけはないので、どこまでいっても満足がなく、マーケットに求めるものも際限がなくなる。つまり、マーケットに「思い通り」を求める。これが、僕の場合、人生全般に起こってしまっているような気がする。人生の中の思い通りにならない全てのことから、逃げようとしているのだ。そして、逃げようと思って逃げられるわけではなく、仕事を辞めてしばらくの間の万能感のようなものは消え、今は些細な「思い通りにならなさ」への免疫すら失われつつある気がする。

 

人間関係は自然と似て、「思い通り」にならない。僕には今、思い通りにならない、泥臭い人間関係というものが希薄だ。会社を休職してほとんど一人でいて、しばらく天国のような気分だったが、これは、苦しみが取り除かれた時の、名づけるなら「消極的幸福感」であって、自分の力で何かをしたり、人間関係を築き上げたりすることによって得られる「積極的幸福感」とは違う。

消極的幸福感は、薄れるのが早い。そして、会社を休んでしばらく経った今、気づきつつある。「自分には(積極的幸福感が)ほとんど何もない」と。会社にいたときはその「辛さ」によって、会社を休んでしばらくの間は「消極的幸福感」によって、覆い隠されていた「生きている実感、積極的幸福感の乏しさ」が、そろそろその姿を表し始めているように感じる。

積極的幸福感は、「思い通り」の世界とは違う。思い通りにならないことばかりだろう。しかし、今日の講演者(高橋博之さん)は、まさしく、思い通りにならない世界で、積極的幸福感を得ている人だ。彼は、農業とそれに携わる(内発的に、積極的幸福感を満たすような形で携わる)人々たちとの仕事の中で、積極的幸福感を得ている。自分も何らかの形で、この積極的幸福感を得たい。(ちなみに、積極的幸福感は、バブル期の日本を覆っていたような「ふわふわした幸せ感」とは違う。このふわふわした幸せ感はどちらかというと、「思い通り」を追及するものであり、どちらかというと消極的幸福感に近いと思う。)

 

高橋さんは提案していた。「農家になれ!漁師になれ!とは言いません。ただ、都市の中でも自然と接続する回路を持つのが大事です。」都会の便利さの中で失われた自然との回路を復活させることによって、生きている実感を取り戻し、自然という思い通りにならないものを取り戻す。

積極的幸福感を得る方法はこれだけではないが、僕もそうしたいと思った。だから、農業体験や漁師体験をしたいと思った。その前段階として、今日の懇親会には参加しておけばよかったと、今更ながら後悔している。

 

なぜ帰ってしまったのか?やはり、ここにも「思い通り」に慣れた人間の問題がある。思い通りに慣れた人間は、予定調和の世界に生きている。だから、ああいう、「自分で話しかけていかなければならず、しかもそれがうまくいくかも分からないし、どうなるかも分からない」という世界が苦手なのだ。

町起こし隊をしている男の子の話を聞きたかった。しかし、彼と話したり、他の人たちの談笑する中で、「何もない」自分は何を話せばいいのだろう。居場所がなくならないだろうか。そもそも、彼は誰かのために何かをしたいという「利他的内発性」に突き動かされて行動している。高橋さんもそうだ。それに対して自分は、自分一人の生というものに汲汲としている。明らかに、会話のバランスが取れなくなると予想してしまった。

頭の中には、利他性、ある種の積極性、自然、良き人間関係、身体性、などについての知識、またその重要性に関する情報が結構いっぱい詰まっている。しかし、頭の中だけの話であって、全く行動できていない。一言でいえば、行動している人たちを前に「引け目」を感じてしまったのだ。こういう風に感じる人は、基本的にあのような場にいられない。その意味で、あの場に残れるかどうかということが、そのまま、あの場にいてよいかどうかの最低足きりラインになっているように思う。

 

しかし、今になって思う。無理に話そうとする必要などなかったのだ。その場にいて、とにかく話を聞かせてもらうだけでも良かったと思う。カウンセラーの高石宏輔さんは「情報は、上からしか流してはいけない。下から流してはいけない。」と言っていた。この「上」「下」というのは、様々な意味での「レベル」の上下のことだろう。つまり、師匠に対して弟子が喋る必要は、(促されない限り)ない。できるのは、ただ話を聞き、その佇まいやオーラや話すことを吸収することだけだ。下から無理矢理上に流しても、戻ってくるだけだ。

僕も、その場にいて、とにかくいろいろな話を聞いていけばよかったのだ。質問と回答だけでも会話は成り立つ。何もない(「下」の)僕自身のことを話す必要など、ないのだ。

そういうある種の謙虚さを持って臨み、何か「これを話してみようかな」ということが浮かべば、その時初めて話せばいいのだ。多分、それが「良い会話」というものの一つだ。急かされて話すものではない。

 

今度このような場面に遭遇した時は、まず「一度立ち止まる」ことが必要だろうと思う。そしてやはり、このブログで何度も述べたように「観察する」のだ。自分の気持ちや行動を観察し、気づく。それにより、自然に体は最適な行動を起こす(もちろん、時には「えいっ」と飛び込んでみることも必要だろうが)。

 

講演の内容だけでなく、利他的なパワーを持つ人たちを間近に見ることによって出てきたこのような問題意識も、今日得ることができた重要なものだった。

 

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ここから、少し上記の自分の書いたことへのカウンターパートを。

実際には、今見た自分の問題は、自分の中の原因だけではない。つまり、今、会社に属している自分であり、24日からもう会社にいくべきかどうか迷っている自分である、という自意識が、様々な行動にブレーキをかけているところもある。休むならば、また手続きも必要であり、農業体験や漁業体験などの遠出が制限されるかもしれない。現に働いている人は、もっとそうなのではないか。(もちろん、これも自分で乗り越えるべき問題であり、それを乗り越えられない自分の心に問題を帰属させることもできるが。)

つまり、僭越ながら食べる通信にお願いしたいのは、もっと「体験」の機会、もしくは情報を提供していただけるとありがたい、ということだ。高橋さんは、「共感と参加」ということを仰っていたが、あの場にいるくらいなのだから、ほとんどの人は共感はしているのではないか。後は、会社で働きながらも土日を使って、パッと体験する場が必要だと思う。

もちろん、これは僕の「甘え」であると言われればそれまでなのだが、正直言って、雑誌を買おうとは思えなかった。それよりも「体験」がしたいのだ。雑誌での「共感」があって「体験」に目が向かうのではなく、強烈な「体験」を通して意識が変わり、「共感」に繋がり、購読に至る、というほうが、人の気持ちの変化としては現実的である気がする。

体験にはコストがかかるからかもしれない。しかし、こちらとしては、雑誌よりも体験にお金を出したいと思った。

ものぐさ精神分析

を読み終わった。友人から借りていたもの。彼がブログで書いていた通り、とてつもなくおもしろかった。

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結構同じテーマを繰り返している部分もあるが、逆にそれが理解を助けてくれた。

繰り返しがあるといっても、テーマは多岐に渡り、その全てを記憶しているわけではないが、一番目から鱗が落ちた内容を短く言葉にしておく。ただし、間違っているところもあると思う。

 

*****

動物は本能が現実に適合している。人間は本能と現実にずれがある。

この違いは、動物は生後間もなく現実に適応するのに対し、人間は現実に適応するまでに時間がかかるからだ。人間は生まれてすぐに現実に放り出されても生きていけない。よって、生まれてからかなり長い間、現実に触れず、母親の胎内にいたときに近い、全知全能の世界を生きる。この全知全能の世界をセットアップするのが、家族、特に母親の役目だ。

しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかないので、少しずつ現実に直面していく。もしくは、母親が赤ちゃんに、現実への適応を促す。ここで、人間のフラストレーションが生まれる。人間は、全知全能の状態を知っているのに、大人になるともう、それは永久に失われてしまう。それを取り戻そうとして、恋愛や芸術などにその世界の成就を夢見る。しかし、それは幻想なので、ことごとく失敗する。

動物の本能は現実に適合しているので、必要以上のものを欲望しない。人間は本能が現実に適合していない奇形児なので、際限なく求める。この点において、人間は地球上の異端である。

つまり、人間は「病気」なのだ。ある意味、人間は他の動物に比べて優れているのではなく、上記の点で異常に劣っているからこそ、それを埋め合わせるために、異常に強くなってしまったとも言える。(そう考えると、いつ、強いが弱い、弱いが強いに、長所が短所、短所が長所に転換するか、分かったものじゃないですね)

人間は、特定の状況などの外的要因によって、精神病に陥るのではない。もともと生まれた時から精神病なのだ。それを何とか和らげるために「文化」が作られたのだ。

 

幼児期の全知全能の世界での「私的幻想」を各々が好き勝手に表出していては、社会は維持できない。社会的生物で、一人ひとりは非常に弱い人間にとって、それは死を意味する。そこで仕方なく、人間は、それぞれの私的幻想の一部を満たす「共同幻想」を作り上げた。しかし、共同幻想に吸い上げられなかった分の私的幻想が残る。これが「エス」になる。共同幻想の方は「自我」になる。しかし、エスは抑圧されているだけで、消えはしない。エスの表出としての芸術などが必要になる。

*****

書きだしたらきりがないので、このあたりにしておくが、明治維新によって日本人のエスが抑圧されたとか、だから日本人はみな分裂症気味だとか、他にも目から鱗はいっぱいあった。

 

僕としては、「受苦的疎外論」やハイデガーの「ここ」と「ここではないどこか」や「どこかにいけそうでどこにも行けない」や「<世界>と<社会>と<なりすまし>」、「空観、仮観、中観」などなど、色んな概念と響き合う内容だ。自分が「賢い人たちによると、世界ってこういうところなんじゃないの?」って思ってる世界観に、また一つ論拠が与えられたような気分だ。

 

安心したのは、人生において苦しんでいるのは僕だけではないこと。僕は「僕が僕だから」苦しんでいるのではなく、「僕が人間だから」苦しんでいるのだ、きっと。そう考えると、みんな五十歩百歩である。今自分が苦しんでいることがとんでもないことのように考えがちであるが、そもそもどんな人生でも苦しみがインストールされている(仏教一切皆苦と響き合いますね)のであって、そのような、ある意味「生ぬるい地獄」をみんな生きているのであって、自分も皆も大差はないように思える。この達観を常に持ちつつ、虚無主義に陥らなければ一番いいな。

しかし、僕が周りと一つ違うと思うのは、僕の場合は、苦しみの軌跡がはっきり分かってしまうこと。履歴書にはっきりと記載できてしまうような迷いの人生であることだ。この点において、やっぱり自分は一般的ではない気がする。

 

この点において、僕はいつも以下の記事を思い出すのだ。

↓映画評:クリント・イーストウッド監督『チェンジリング

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。 

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=734

 

ソクラテス的な<遅れ>が帰結する批判

(3ページ目)宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

僕も、自分が<遅れ>ていると感じるのだ。昔からずっと。

今日一日の移ろいを文章にしてみる

最近、朝と昼に体がだるい。そして眠い。ベッドでずーっと寝てたくなる。夕方くらいから元気が出てきて、活動を始める。

今日も朝10:00位に起きて、12時くらいに親子丼を作ってブランチとし、食ったら眠くなってまたベッドに寝そべる。うたた寝して14:00くらいに「また山に行こう!」と思い立って、なるかわ谷に原付で向かう。

山で僕を困らせていた虫は「メマトイ」という虫だった。その名の通り、目にまとわりついてくる虫。目の汚れやたんぱく源を食すために、目に寄って来る。何回も目に入ったが、目に入ると東洋眼中が寄生することが稀にあるということを知り、今回は、Amazonで勝った防虫ネットで顔を守って登った。非常に快適だったが、すごい暑い。

山の中での夕日の木漏れ日がきれかった。友人が、自然の中には人間には聞こえない音もあり、そういうのも含めて、自然の中にいると健康になる、という記事を紹介してくれたが、それはあると思う。

しかし、昨日は公園でランニングをして、今日は登山ということで、疲れていたのもあると思うが、熱中症にかかった。防虫ネットで暑かったのも原因だろう。

最初は、下りの際に、やたらと足がガクガク震えると思った(まあ、これは普通に起こる事だろう)。しかし、だんだんと下りのしんどさに足が耐えられなくなってきた。足を踏み出す時のしんどさが震えを通して、足から脚へ、そして胴体を登り、肺のあたりまで達する感じ。肺に達したときには、それは気持ち悪さに変わっている。それが一歩一歩ごとに起こるのだからたまらない。その気持ち悪さで吐きそうになり、その場に座り込んだ。

座り込んでみると、手足が痺れ、頭が朦朧としていることに気付いた。中学のバスケ部の時、熱中症にかかった時と同じ症状だ。とにかく動きたくない。そして気持ち悪い。でも、水は底をついていたので、この暑さの中ずっと休んでいるのは逆に危険かもしれない。500mlしか持ってこなかったのが、そもそもの間違いだった。早く下って水分補給せねば。

ということで下ってみても、10mと持たず倒れそうになる。それでも歯を食いしばって、死ぬ思いで下山するが、駄目だった。座っている事すらできず、その場に寝そべる。標高が高いほうが涼しいのだから、無理して下山すると余計にやばいかも、と言い訳して、しばらくそこで寝そべっていることにした。

すると、案外に風が吹いていて、10分くらいしてからまた下った。でも、すぐに辛くなってまた寝そべる。ということを何回も繰り返していた。傍から見たら奇妙にしか見えないだろうが、本人はかなり辛い。まあ、人っ子一人いなかったが。

体に虫がいっぱい登ってきたが、こういう時は、それどころじゃなく、全く気にならない。ただ、今の体調でマムシに噛まれたらかなりやばいと思った。けど、それすらどうでもよくなるほどしんどい。

原付まで辿り着いたときは、ふらふらだったが、とにかく安堵した。何とか歯を食いしばって下山できたのは、映画「野火」を思い出したからかもしれない。下山中、何度も挫けそうになったが、あの世界に比べれば何てことはない、と思って頑張った。座席下に入っていた飴玉を夢中で舐めた。

原付に乗り、ふらふらのまま近くのファミリーマートに入ろうとしたら、中からガシャンガシャンと音がする。朦朧としたまま入ると、男数人が取っ組み合っている。良く見ると取っ組み合っているのは2人(ヤンキーとおっちゃん)で、あとはそれを止めようとしている男たち(他のヤンキー達と店員)だった。こんなバッドタイミングがあるだろうか。

正直、この時の僕は、自分のことしか考えられなかった。「立っている事すらままならないのに、今巻き込まれたらやばい。とにかくまずは水分補給だ。」怒号が飛び交うのを無視して、いろはすピーチ味を手に取る。しかし、喧嘩の舞台はコンビニの前の駐車場に移り、店員は喧嘩の対応でレジにいない。僕は、いろはすを持ったまま、ふらふらと外に出て、「こんな時にすみませんが、買いたいんですけど・・・」と、警察に連絡している店員に言った。

しばらくして、憮然とした態度で店員はレジに立った。彼はかなり動揺していた。喧嘩している二人は、ヤンキーっぽい中学生か高校生と、おっちゃんだった。多分、このヤンキーっぽいのは、普段からこのコンビニでだべり、この店員もかなり迷惑しているのではないかと想像した。

僕はいろはすをその場で全て飲み干した。生き返るとはこのことだろうか。しばらく原付の上で休んでいたが、喧嘩は収まり、喧嘩していたヤンキーはでかい態度で椅子に座り何か叫んでいた。警察が来た。体調が少し戻ったので、家路についた。

 

今日のようなことがあると、本当に、健康に替えられるものは何もないと思う。五体満足で病気がないことに感謝。命あることに感謝。富士山の時のほうが命の危険を感じたので、より強烈だった。今回はなんだかんだで何とかなると思っていたから。

「自分は助かる」と思ったとき、とてつもない多幸感を感じた。もう何もいらないというような。世の中には、あえて危険なことをする人が結構いるが、この多幸感を本能的に求めているのかもしれない。特に、生きていることに実感が持てないような人々は、その傾向があるのではないか。

しかし、しばらく安全な環境に身を置いていると、多幸感は薄れ、また日常のつまらなさに悪態をつくようになってくる。自分が恵まれている事も忘れる。周りと比較し、「もっと!もっと!」と欲望に際限がなくなる。このような忘却癖は、本当にどうしようもない。だから、人は戦争も繰り返してしまうのだろう。平和の尊さを忘れてしまうから。

 

僕はそのことを分かっていたから、「今のこの多幸感もすぐに消え去るぞ」と警戒しておいた。それでも、今、日常に戻ってからのつまらなさは中々のものだ。

急に、多幸感の副作用のように、自分の人生に対する不安が噴出してくる。しかし、そんな時は、目を開いて、目の前の現実を見ることにしている。「目の前にパソコンがあって、コンポがあって、本があって、水があって・・・この部屋があって、外には世界が広がっていて、別に何事もなく時が流れている」という風に、前頭前野を介入させ、視野を広くし、目の前の今ここを見ると、不安の妄想のリアリティが減じてくる。このやり方は、最近覚えた。まあ、うまくいかないこともあるが。

 

そういえば、大量の蟻がどでかいミミズを運んでいるのに遭遇して、何か、これが普通なんだよなあ、と思った。