思考の断片②

思考の断片で書いた親に関すること、一時の感情に任せて書いたら、やはりかなり偏っている。いや、論理的には別に突飛なことを言っているわけではないが、感情が抜け落ちている。感情が戻った現在、何て非人間的なことを考えていたのかと思う。現在、会社は昼までの勤務にしてもらっているのだが、帰りの電車の中で、突如さっきのような非人間的な思考が自分を支配した。世の親がどんな思いで子を育てているのか、育ててきたのか、育て始めようとしているのか、という想像力が全く駆動してない状態で書いた。

 

やはり、結果として悲劇になってしまったとしても、親が子を生んだ時の子を慈しむ気持ちの深さを無視しては駄目だな。親が子をスポイルせざるを得ない、その社会環境をこそ憎むべきかもしれない。

いや、受苦的疎外論の立場に立てば、どんな社会が実現しようが悲劇は起こる。子育てに関しても。ならば、その必然性こそ、憎むべき対象。

いやいや、それが必然であるならば、その必然を受け入れる方向にしか解決はない。親も子も。子育てにおいて発生する、必然的な、場合によっては致命的な誤謬も、社会形態によるその発生確率に差はあれ、必然ならば、その当事者はそれを何とか受け入れるしかない。もちろん、ここは強調しておかなければならないが、こう考えたからと言って、社会形態によってその発生確率は変わるのだから、これを最小限に留めるように努力することを放棄することを意味しない。親子間でも、しつけの域を超えた虐待、子供を生涯にわたって、(ある種の)精神的不具者にしてしまうような行為を絶対に許してはならないのは当たり前だろう。例え、受苦的疎外論が真実であったとしても、である。

ただ、これは受苦的疎外論の勝手な深読みでしかないが、問題は、どんな社会環境が、子育てが、実現すれば悲劇の発生確率を最小限に食い止められるか、という問いへの解は、一見はっきりしているように見えても、かなり未知数であることだろう。ここで、子育てと世直しがリンクする。子育ても世直しも、これこそ子のため、人々のため、と思って為したことが、しばしば悲劇を招く。

これは、人間があらゆる意味で、他の動物と比べて「過剰」である、別言すれば、本能が壊れている、ことから起こるのだろう。「本能」の部分の解読やその御し方にはまだ解が何とか見つかりやすいかもしれないが、「過剰」の部分の解読や御し方はあまりに複雑怪奇な気がする。しかし、世の中には異様に感度が鋭い、アンテナがビンビンの人がいて、こういう人たちは「過剰」にも対応しうる。過剰に過剰で対応しているのかな。そして、場合によっては対応法を伝授し得る。しかし、これを最も汎用的な伝達ツール(現代では特に)である言語によって伝えようとすれば、これは言語レベルを超えたものを言語で説明しようとするので、しばしば難解、もしくは奇妙奇天烈に見えるものになると思う。それ以外の方法として、瞑想や自然に還るなど、様々な知を人間は蓄積してきた。しかし、これは発信者も受信者もマイノリティにならざるを得ないと直感する。過剰や未規定性がどんどん排除されていく現代においては特に、人々はそれらから目を背けてしまうし、背けるように仕向けられる。

 

とにかく悲劇に関してはパターンは2種類あるように思う。

①以前の悲劇に比べれば圧倒的にマシであるにもかかわらず、その悲劇の記憶が薄れていくにつれて、マシであることを忘れてしまうという、(自分のような)愚かな健忘症が原因である場合

②①のような人為的ミスではなく、根本的に解決できない世界や人間の未規定性に対して、人類の知が圧倒的に及ばない場合。場合というか、これはデフォルトの真実だ。

 

何かの格言であった「変えられるものを変える知恵を。変えられないものを受け入れる勇気を」みたいな。

①を克服する知恵を。②を受け入れる勇気を。でも、②も克服、というか共存できるなら、その知恵を与えたまえ。

 

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正気である間に、狂気に陥る前に、しっかりと狂気について考えておかねばならない。

生に加護を受けている間に、死に憑りつかれる前に、しっかりと死を見つめなければならない。

これらは強迫観念だろうか。

 

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僕は19くらいからたまに一人酒をしているが、最近酒に酔うのが嫌いになってきた。一時凌ぎの安楽であるという事実が最近身に迫ってくる。年をとったからだろうか。

最近、死ぬまでホントにあっという間かもしれない、と思う。一方で、まだまだ長いような気もする。実際いつ死ぬか分からないのだから、これで良しとする。

 

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ある人は言う。人間は自然から生まれた。人間も自然の一部。自然に還ろう。人間の生は宇宙の塵のようなもの。 近現代に異常に膨張してしまった自我を、妄想を、自己幻想を薄めていこう。

ある人は言う。文明は人間の過剰さの要請として膨張してきた。これを否定するは人間を否定するに同じ。

ある人は言う。だからと言ってそれが非人間性を生み出すならば制御しなければならない。

ある人は言う。非人間的な環境によって痛めつけられた自我、いや、自我がなかったとしてもそこで生じる痛みが、人間を覚醒させる可能性がある。文明による非人間性が原始的なレベルを超越した人間性を覚醒させる可能性。

 

僕は最初の人の意見は堅牢、中二人の意見は凡庸、最後の人の意見は未規定だと思う。

最後の人の意見。これは何か。当たり前の話だけど、恐らく人類も地球も、今、前代未聞の極地にいる。もうこれはあらゆる意味で。

そこから非人間性が生まれたとしても、これは人類の歴史の中で一度も起こっていないことなのだ。この、中世以前と比べ異様で歪な世界が、人間に何らかの突然変異を起こさないと、誰が断言できるだろうか。

寄る辺を失い絶望する自我、霊心体に限界を超えたストレスがかかったとき、何かのストッパーが外れる可能性がある。過去への回帰ではなく未知への突入という道が無いとも言い切れない。

 

はっきり言って、現代のこの異常な状況に対して、基本的に打つ手はないのではないかと直感している。特にマクロでは。では、文明に極度に適応した者や、文明から何とか避難できたものだけが生き残るのだろうか。そうとも限らない。人間とは、葦のように脆い存在でありながら、異様な未規定性を秘めてもいる。適応も避難もできず、ちゅうぶらりんで境界線を行くものが、どういう進化を辿るか分からない。突如、眠っていた潜在的な未規定な力が人々の中で目覚め始めるかもしれない。それが邪悪なものであったとしても、興味深い。

 

 内田樹の日本霊性論も、そういう未規定な力に注視しているように思う。めちゃくちゃ面白い本だ。黄泉の犬もそう。しかし、一方でその新鮮さは、過去を再発見する新鮮さだ。歴史的に考察された未規定性。

過去に学べ。何千年・何万年と積み上げられた人類・自然の叡知に学べ。人間の根源的本能に学べ。

大いに賛成。だが果たしてそれだけか?

過去に学んで、現代の狂騒を鎮めるだけが道なのか。

文明が狂騒を究め、霊心体が死ぬほどになったときに開花する何かがあるのではないか。そんなことも考える。狂ってズタボロになってしまえばいいのではないか。体までもが生きるのを諦める瞬間に、突如活発に動き出す何か、というイメージ。タナトスに圧倒的に支配された時に、生まれてくる、全く新しい生の根源。

 

まーオカルトですね(笑)でも、道がないならそれを信じればいいのではないかな。可能性は低いかもしれないが、逃げ場がないなら、所詮一回の生、賭け事に使ってみてもよいのではないかな。

 

僕は過去の賢人に学びつつも、一方で文明に絡めとられることも否定はしない。勝手に体が動くほどの何かが僕を突き動かし、歴史の賢人たちに連なるように生きる・・・ということが現在はない。

僕はほとんどいつでも、事後的、受動的です。結果として動いていないのなら、結局その程度なのだ、というのが僕の考えです。

そして、この考えをすると、あらゆることを「頑張らなく」なる。そして、その分、世間の常識として手に入るものが手に入らなくなって行ったりもする。世間から静かに密かに逸脱していく。でも動かないのだから、文明からは逃れられず、引き裂かれる。ちゅうぶらりんの境界線上の孤独な道。霊心体にかかる多大なストレス。

でも僕は、それが事後的な結果ならば受動的にそれを受け入れるというスタンスです。だって、ホントに限界なら否応なく人間は動くか覚醒するのだから。出なければ死ぬが、世界がそれを選びとったのならそれが「答え」だ。

 

最近思うのだが、やはり僕は異端者なのだと思う。普通に会社通ってても、根源的に異端者。

 

 

全てをおまかせする。自然・文明という二項対立ではなく、その両方に引き裂かれる自分を恐怖しつつ、興味深く観察している、というマゾヒスティックな状況です。

自然も文明も社会も世界も自分も時間も非時間も全部ひっくるめて宇宙と呼ぶとするならば、僕は宇宙に身を委ねようとしているということになるんだろうか。

 

全てをおまかせする。

全てをおまかせできない自分もおまかせする。

メタのメタのメタの更にメタまでずーっとおまかせする。

結局、こういう生き方しかできない。いや、これはただそう認識するだけという話でもある。

現代がコンクリジャングル的な文明砂漠のような地獄でも、それはそれで趣がある。狂っていても趣がある。無意味・非意味も趣がある。不幸も悲劇も絶望も趣がある。

「柳は緑、花は紅」

もうここまで来てしまった。しかも体はそこから逃れようとしない。

「あっそう。おまかせします」

 

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楽天性と学習性無力感の表裏一体性。



デラシネ 根なし草