等身大

それにしても、読書のやり方を考えねば。

 

読書に実利を求めると、途端に読書がしんどくなる気がする。

ここでいう実利とはつまり、「読んだ内容を全部自分の血肉にしたい!」ていうことですね。

 

やっぱ、「ここだけは文章にして残しておきたい」って部分だけピックアップしてブログにしたり(それすらも全然できてないんだけど)して、あとは娯楽として読書するのが自分には向いているな。

あとは純粋に自分から湧き上がってきたアイデアとか。でもこれが書くのがめんどくさいんだよなあ。でもすぐ忘れちゃうんで、残しとかないとなんか損した気分になる。

でもまーそれこそ無意識レベル・象徴界レベルでは残っていると考えよう。で、象徴界が人の行動を決定しているのだから、忘れても残ってて行動に影響して絶対意味があるはずだ。読んだ本も。

逆に「書きたい!」ってなるときもあるし。その時に書けばいい。自発的ではなく内発的に。

 

ちょっとここ2,3日、苫米地のアファメーションとかに感化されて、「上へ!上へ!」みたいになってたけど、やっぱり合わないな。ホント、無理をしたくない。のんびり生きたい。いや、無理のない範囲ならアファメーションもいいんだけど。have to じゃなくてwant toだったらしんどくないんだけど。

 

やっぱり、仏教的な少欲知足が楽です。仏教では喜怒哀楽のうち、楽を一番重視して目指して、最後には楽すらも捨てるのだとか。

やはり、自分を(メタ的に)リラックス・安定させることが一番ですね。

 

「上へ!上へ!」ってゴールを持って進んで、つまり未来ばかり見て、今を生きてないと、虚しさを抱えることになる。かと言って、明日死ぬのかもしれないから今を生きろ!と刹那的になりすぎるのも、最近は違うと思うようになった。当たり前の話だけど、明日生きてるかもしれないわけで。てか、ほぼ生きてるわけで。

 

やっぱり、大量にインプットしてアウトプットして、というのに充実してそうだなーと憧れてたし、そういう上の次元に行きたいと思ってたけど、僕は僕であり僕以上でも以下でもありません、ってやつだな。まー偏りながらもインプットは結構してると思うけど。僕は苫米地にも斎藤環さんにもなれない(セルフコーチング的には、こういうことを言葉にしたら駄目なんだけど)。無理せず等身大の自分で生きていくのがやっぱり大事だな。後は<世界>が偶発的に僕をどこかに運んでいくだろう。やはり、この受動が合ってる。能動はしんどい。どうせだったら(メタ的)受動を極めよう。ジタバタするのは苦手だ。やはり、どちらかというと死を忘れずに、メメントモリの精神で生きていく方があってる気がする。そうすれば、自分以外の誰かになろうとして神経をすり減らすこともないだろう。そういう心理の奥には、結局、得をしたい、損したくないという想いが潜んでいることがほとんどだ。これを追い求めるとしんどくなる。

分かれ道はやっぱりしんどくなりすぎないかどうか。心地よい程度の疲労・心労であるかどうか。

自分を肯定するアファメーションはいいけど、自分を急き立てるアファメーションは自分には合わない。それは<なりすまし>であって、【なりすまし】ではないな。