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なぜ、【なりすまし】をしても大丈夫なのか?

換言すれば、【なりすまし】は虚しさを惹起しそうだが、なぜそうではないのか?

 

簡単である。そもそも虚しくない人生などないからである。この世の雑事は、言語的に構成された偽物であり、空虚だ(言語ゲーム)。その事実に気付いていないことこそ最も虚しいからである。

 

人間は一秒一秒死に向かって歩んでいる。これを止める術は全く無い。

パスカルが言うように、人間は死という壁の前に黒いカーテンをかけて死を見えなくし、黒いカーテンに向かって突進しているようなものなのだ。黒いカーテンの役割を果たすのは、表面的な人間関係・娯楽・仕事など様々な雑事だ。しかし、この黒いカーテン(雑事)の奥に「死」という壁があることを忘れてはならない。それは決して越えられない壁であることを忘れてはならない。カーテンの裏側を忘れてしまった者は、雑事(黒いカーテン)をマジガチで生きてしまう。

 

強烈なトラウマ体験は、「死」へと肉薄する経験だ。いや、実はカーテンの裏には、「死」だけでなく、「死」を含むあらゆる不吉が控えているのだ。強烈なトラウマ体験とは、それらを「見てしまった」体験だ。まあ、肉薄ぶりは人それぞれだろうが。黒いカーテンの奥にあるものを忘れたくても忘れられない呪いをかけられるのである。

 

かと言って、黒いカーテンを完全に、かつ恒常的に取っ払ってしまうと、いくら何でも発狂してしまう。バランスをとるための【なりすまし】なのだ。

 

黒いカーテン(雑事)は言語的に構成された虚しい疑似創作物。

その裏側の非言語の世界。カオス、呪われた部分(ジョルジュ・バタイユ

 

以前、空観に寄りすぎても仮観に寄りすぎても破滅に近づく、という話をした。

【なりすまし】は中観なのだ。真実を見つつ(空観)も、それに見入りすぎて発狂したり虚無主義に陥ったりしない。かといって黒いカーテン(仮観)で全て忘れ去ってしまい、真実から遠ざかるようなこともしない。

 

カーテンの裏を知っているからこそ、ベタにマジガチにこの社会を生きることもない。しかし、真実はカーテンの裏だと分かっているのだ。だからこそ、黒いカーテン(雑事)はマジガチに受け取らず、適当にいなせる、受け流せるのだ。これが、【なりすまし】だ。

虚の中に実を見、実の中に虚を見る。も大事だけど。

 

トラウマ体験だけでなく、悟りに近づくことによってカーテンの裏側に気付くこともできよう。何というか、前者が陰の道、後者が陽の道、という感じか。他にも方法はいろいろあるだろう。だが、辿り着く場所は同じカーテンの裏側だ。

 

まー、自分はもともと陰の道に近いが、陽の道も取り入れてバランスを取ろう。

 

【なりすまし】た欲望ではない、カーテンの裏の欲望に興味がある。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?

fate/zero、英雄王の台詞(小説のほう))

 

うーむ、面白い。