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信じるということ

例えば、好きな人がいて、その人にラインをしても返信が無い。

そんな時に、それが付き合っている人だったら「もう自分を嫌いになったんじゃないか」とか考えてしまうかもしれない。片想いなら、「友達としてすら、自分を嫌いになったんじゃないか」「こっちの好きって気持ちを、うざがられてるんじゃないか」とか。

 

これは、「好き」と「信頼」が結びついてない人の思考な気がする。

本当の好きってのは、相手の深い部分の魂みたいなものを信じてる。「返信が返ってこない」なんて表層に惑わされない。だからまず、

 

第一に、「あー、忙しいのかなー」「何か事情があって返信ができないんだろうなー」とか考える。好きになった相手を信頼していないと、すぐに悪いほうに考えてしまう。まずは、好きな相手を信頼し、「良い人」として見るから、このような判断になる。

 

第二に、好きになった相手がこちらを「もう相手にしたくない」とか思って無視していることが確定していても、相手を「ひどいやつだ!」と断じたりしない。自分に原因があるかもしれないし(これは、自分を責めることとは違う)、人は時に魔が差すものだ。魂レベルで素晴らしい人でも、そういうこともあるだろう。時には、ひどいこともするかもしれない。ひどく鈍感かもしれない。でも、相手の深い部分の魂を好きになって、信頼したのなら、そんな表層的なことに惑わされるべきではない。

 

第三に、好きになった相手の魂レベルでの素晴らしさが、自分の勘違いであった場合でも、過去にその素晴らしさを感じた(そして信頼した)ことを否定すべきではない。「その間だけでも信頼させてくれてありがとう」である。不信感に苛まれつつも、それを乗り越えて人を信頼できたことは、必ずその人の肥やしになるのだから。

それに、その相手もこれからどのように変わっていくか分からない。長い目でみるべきだ。

 

このようなことを僕が書くのは、もともと人間不信に陥りやすい性質だからだ。人間不信とは、無駄に人に不信感を抱く。これは、自己防衛の結果でもある。自己防衛するのは自分に自信が無いからだ。結局、自分を信頼してないから人を信頼できない。

元々、天性の「人を信じる力」を持っている人もいる。もちろん、依存的・盲目的に信じる力ではない。それはむしろ人間不信の裏返しだ。そうではなく、自分の直感や本能が適切だと思った相手なら、信じることだ。結局、こういう人は自分を信頼できているのだ。

 

第一、第二、第三、っていう風にまで考えている時点で、僕は「天性の人を信じる力」を持つ人間ではない。第一の段階でしかないのに、第二、第三と準備しているのは自己防衛からだ。でも、こうして書いておけば、あとは忘れていい。安心して第一の感覚でいればいい。そう思って書いておいた。

僕は、「自分が本能と直感で良い!と思った相手は信じ切りたい!」と思っているが、しばしばこの軸はぶれる。でも、それでもいい。「そういう方向を向こうとしている」ということが大事であり、それさえあれば、少しずつでもその方向に進める。

こうなれば、もはや自分との闘いだと思う。闘い甲斐のある相手だ。

 

自分が相手の幸せを願っているように、相手も自分の幸せを願っているだろうという感覚。これこそ本当の信頼関係だろう。

 

宮台真司が言う「双方向的部分愛(独占愛)」ではない「一方向的全愛」を目指したい。もちろん「双方向的全愛」が一番良いし、本当に精神性が高い恋愛関係とはそのようなものだと思う。

 

「双方向的全愛(共有愛?)」が最も表れていると僕が考えるのが、「嗤う伊右衛門」という映画だ。本当にすごい。「相手の幸せが自分の幸せ」「相手の自由が自分の自由」って世界だ。これこそ、目指したいものであり、その道は不可能かと思えるほど険しい。しかし、何度も言うが、「その方向を向こうとしている」事こそ大事なのだ。愛せない人を愛す必要はないが、自分が決めた相手ならば。

 

俗にいうハッピーエンドではないが、そんなことはどうでもいい。その道を二人が貫徹できた時点で、十分に福音であり、救いだ。

 

僕はこの映画を、「愛」の世界というより「情」の世界だと思った。愛は一瞬、情は永遠。愛は駆け引き、情は真っすぐ。愛こそがエロティックだと思われているが、違うのではないか。情を伴う恋愛こそ、最もエロティックで眩暈を伴うのではないか。それに、情の恋愛はあらゆる限界や常識を飛び越えるのではないか。そんな気がする。

 

あと、この曲もまさしく情の世界だ。

 

https://youtu.be/rhMMfJXHFDc