強みと弱みは表裏一体

有休を使い果たし、休職期間に入った。

猶予期間は残り日ほど。これまでに復帰しなければ自然退職となる。

ほぼ間違いなくそうなる。もう戻りたくない気持ちが凄い。よっぽどの心理変化が起きない限り、退職になるだろう。

 

でも、会社勤めをして良かった点もあった。

一つは、自分の特性の一面を理解できたことだ。

仕事というものは、容赦のない他者からの評価に晒される世界だ。良い上司に当たれば、仕事の評価、どこが良くてどこが駄目だったかを的確に指摘してくれる。

はっきり言って直属の上司はそのあたりの見極めが下手だった。部下への仕事の采配が下手。僕の苦手な仕事、主に事務処理能力を求められる仕事だが、そういう仕事を僕に割り振り、結果、グループ全体の生産性が落ちたように思う。

僕の弱みは事務処理能力の低さに加え「当事者意識の低さ」だ。

これをはっきり指摘してくれたのは直属の上司ではなく、たまたま数か月前にこっちに赴任した人だった。人事・総務に20年以上関わってきた人。人事経験から人を見る目があるし(人事でも全く人を見る目が無い人もいるけど)総務経験から会社全体のことを把握している(総務は雑用的な仕事も多いが)。

「当事者意識の低さ」。これは明らかに弱みだ。「自分がこの仕事を進めていく」という意識が低いのだ。何となくポワ~ンとしていて、どこか目の前の仕事への意識が低い。それが事務処理能力の低さ、具体的にはミスや納期の遅れの原因にもなっていたと思う。

個々で僕は、中島義道の本「孤独について」で読んだ内容を思い出した。

これまでの人生を振り返って、自分の真の適性を見いだすこと。そして、それがわずかでも見えてきた人は、それを力あるものに鍛えることである。孤独を求める人には、それしか生きる道はない。だから、真剣に求めるべきである。どんなに迷い続けても求めるべきである。

その場合、自分が何に躓くかをよく見ることが必要であろう。みんなが造作なくできることに自分ひとり躓くことがある。そして、そこに自分の適性へのヒントを読みとることを私は学んだ。私がどうしても給食の肉を食べられないことのうちに適性のヒントはある。(今なお)ボールが転がってくると恐怖に襲われることのうちに適性のヒントはある。私が小便をこらえ続けたことのうちに適性のヒントはある。つまり、私の不適正のうちにこそ私の適性のヒントはあるのだ。

あなたが、思い出すのも鳥肌が立つほどの辛い体験があるとしたら、自分の最大の欠点を自覚しているとしたら、目をそむけたくなるほど嫌な自分の一面を知っているとしたら、それから目を逸らさず、それらをとことん観察しなさい。そして、それらを大切に育てなさい。そこにかならず、「固有の自分のもの」へのヒントが見えてくるはずである。あるいは、どんなに努力しても効果のないときにこそ、私はそこにヒントを読みとる。 

 不適正のうちに適性のヒントがある。まさに慧眼。

僕が今回赴任した上司から言われたこともそうだった。

最初は叱られた。仕事に対して「当事者意識が無い」「傍観者的だ」と。

しかし、ある案件について直属の上司に抗議した時、その内容を聞いて陰でこそっと「君が正しい」と言ってくれた。そして後からこう言った。

 

「君が当事者意識に欠けること。仕事に対して傍観者的であることは間違いない。これはかなり多くの場合、仕事において欠陥となるだろう。しかし、今日の君の抗議内容はまぎれもなくど真ん中の正論だった。大局を観ることができていないとあのような反論はできないよ。

当事者意識に欠ける。傍観者的な立ち位置から抜け出すことができない。これらは言い換えれば『第三者的な視点、俯瞰的・鳥瞰的な視点を獲得してしまっている』ということなんだ。世の中に対する視点というものは人によって違うが、君はかなり遠くから世界を見つめているタイプだね。それが君の強みでもあり弱みでもある。弱みはさっき言った通りだけど、もう一つ言うと、君は細かいところに囚われるとダメなんだ。というか、細かい所を見るのが苦手なんだね。だから忘れ物をする、言われたことを忘れる、それどころか右から左に抜けていることもある。事務処理能力が低い。だがそれはさっき言った強みの副作用でもあるんだ。形而下的な事柄が苦手な君は、形而上的、もっと言えばメタ形而上的な視点から世界を眺めるのが得意なんだ。そういった特性は『大局を読むことに長ける』『情報を総合的に精査して大まかな方向性を決めることに長ける』という強みを生み出すんだ。だからあのような反論が可能になったし、直属の上司も反論に窮したというわけだ。」

 

まあかなり言い方は変えているが、だいたい上記のようなことを言われた。そして驚いた。まさしくその通りだと思ったからだ。でも、人から言われるまではこんな簡単な自分の特性にも気づかなかった。

今まで書いてきたこのブログを見ても分かる。僕がどれだけ「メタ視点」「無限回廊的世界観」「抽象度の高い視点」を大事にして、それらの記録に時間と手間を割いてきたことか。まさに「鳥瞰的・俯瞰的視点」だろう。

一方で、日常の些細な事柄について書き記すことは少なかった。そういう細かいことを書くのがめんどくさいのもあるが、そもそもそういった細かい日常的なことを記すことに対する興味が薄いのだ。つまり、おそらくはそういったこと自体にも興味が薄いのだ。あくまで相対的には、という話だが。

 

自分のこのような特性についての気づきは、本当に大きかった。今までのアルバイトにとことん躓いてきたのも合点がいく。発達障害にも合点がいく。プレゼンではうまくいったのも合点がいく。記者を志したことにも合点がいく。形而下的な狭い視点に立つことが苦手であるからできないのだ。そしてそもそもそのような世界観、世界に対する視点に興味が少ないのだ。だから、間違える。興味が無いから集中できない。

 

一方、休職に入る前に与えられた仕事では強みが発揮されたように思う。ホームページの内容を考えることを任されたのだ。社員がワンストップで様々な情報や問題の解決法を知ることができるようなホームページが求められていた。

まず、何が求められているか、その候補を割り出すために、あらゆる自社関係のホームページの情報を大雑把に洗った。その量は膨大だった。つまり、「森から入った」のだ。そして、それらのコンテンツから更に重要なものを抽出し、「分類」した。具体的には大まかな分類とリンクの階層をどのようにするかを考えた。仕上げに階層化されたコンテンツをエクセル表という形に落とし込み、補足を加えた報告書で示した。

報告書をもとに会議で更に洗練させていくつもりだったが、その前に会社へ行かなくなり、報告書だけを共有フォルダに残した。「後の細々としたところは皆さんでこの報告書を参考にして考えてください」という意思表示だ。

この報告書を見た途端、直属の上司の対応が変わったように思う。とにかく僕に戻ってこさせようとしているように感じた。烏滸がましい言い方だが、恐らく僕の特性に気づいたのかもしれない。「こいつはある特定の分野(俯瞰的視点が要求される分野)では使える」と思ったのかもしれない。だが、こちらとしては「もうあなたたちと会議などしたくありません」という気持ちだ。こちらとしては、最後に自分の特性を確かめるkとができて良かった。

 

僕は、木からはいるのではなく森からはいるタイプだった。この特性を自覚すれば、仕事だけでなく生活のあらゆる場面で対応が変わってくる。

人にはそれぞれ特性がある。僕も自分のこの特性をできる限り把握し、世界と関わっていきたい。広義の仕事において特に、この特性を発揮できればと思う。

 

とりあえずワーホリでも行ってみようかな。30歳までだし。それかすぐに就職先を探すか。色んなことをやってみるか。

さてさて、どうなるか。

というか、何度もブログで使ってきたこの言い方がすでに「傍観者的・第三者的」つまり「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」だよな。普通は「さてさて、どうるか」だろう。

言葉一つとっても特性がよく分かる。自分の人生に対してすら「傍観者的・第三者的」「俯瞰的・鳥瞰的・メタ的」なのだ。

自己分析すると、まず、先天的に僕はこういう特性を持っていた。いつもボーっとしていて、空想に浸っていたり、現実に対する意識が低い。運動会でもボーっとしていて、走る方向を間違える(皆と逆向きに走る)。ボーっとしながらふらっと教室を抜け出して一人で遊んでいる。今はもうしてないが、絵を描いた。ノート上でゲームを作って友達を遊ばせた。長編小説を書いた。漫画を作った。進路についてもボーっと決める。ボーっとしながら何となく高校を中退する。現実に目がいかない。先天的にそういう「性質」なのだ。

更にこの特性は子供の頃に(つまり後天的に)拍車がかかる。上記のような性質は異物扱いされることも多かったので、いじめもあった。かなり強烈な。家でもひどい状況。非常につらい状態だった。そういう時、離人症的な感覚によって自分を守ってきた。心理学ではスプリッティング(分離)とも言うようだが、自分の苦しみと自分の本体(というか視点)を分離するのだ。自分が苦しんでいるのに、赤の他人が苦しんでいて、本体である自分は俯瞰した視点からそんな自分(他人)を見つめているという感覚。

先天的にも後天的にも、こういった感覚が強い。僕が仏教に異様に興味を示したのも、こういう感覚が似ているからだろう。

僕が好む著者も似たような感覚の持ち主が多い。

このような感覚の引用がどれだけ多いか。

nobunaga0101.hatenablog.com

↑この記事全体もそうだけど、瀬戸内寂聴の引用↓とか

遁世の閑居の孤独に耐えかねた心情が歌になって昇華されてしまうとき、西行の孤独は既に客観化され、孤独から抜け出しているのです。

西行にとっては、仏道や自然以上に、歌が孤独を慰める何よりの友となっていたわけです。

 

私たちが日ごろ孤独をそれほど切実に感じないで、のんきに暮らしていけるのは、孤独が怖いから、つとめてそれを見て見ぬふりをして、ごまかしているからです。 

・・・

嵯峨野で・・・虫の音が次第に数を減らし、ふっと気が付いたら一声もしなくなっているのに気が付きます。

そんな時、この嵯峨野の一隅の庵の中でたった一人いる自分の姿を、幽体離脱者の目で眺める自分の、もう一つの目を感じることがあります。その目から見たら、この私の姿はひどく孤独で寂しそうに見えるだろうなと思います。 

 苫米地の引用もまあこう言う感覚と近いとも言える↓

・・・孤独というのは主観的な発想だということです。・・・西洋的個人主義が礎にあるから、自分を中心にして考えられているのです。この世に本当に孤独な人なんているのでしょうか。みんな誰かと関係して生きているはずです。

・・・

六十六億人(2015年当時)も地球上に人がいるのに、なぜ自分が孤独だと思うのでしょうか。つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 

宮台の引用もど真ん中ですね。↓

・・・景色の中には自分も含まれているんですね。景色を見る時は、景色の中の自分も見ます。つまり景色の中にいる自分とは別に、それを眺める<自分>がいる。自分が景色の中を旅する車だとすると、それとは別に車を運転する<自分>がいる。

・・・

自分を乗りにくい車に喩えるんです。その上で、運転される自分と運転する<自分>を分けてみます。そして、運転する<自分>だけを、本体だと見做すんです。つまり、自分を<自分>へと縮小して抽象化するんです。

すると、<自分>は自意識から離れ、自意識が「運転される自分」になります。そうして、世界と自分を含めたすべての情報空間を、外側に括りだすんです。すると、情報が自分に侵入してきてオーバーフローする事態を、避けられるようになります。

人生が景色だというのは、世界と自分を含めた全情報空間を外側に括り出すことに当たりますよね。外側に括り出した後に残るのは、抽象化されて点にまで縮小した「運転する自分」です。 

 

こっちの記事↓だと

nobunaga0101.hatenablog.com

 

これも記事全体がそうだけど、園子温の引用↓とか

「もう一人の自分と仲良くなれたら本当に幸せです。ひとりで死んでも孤独死ではなく、安らかな死と言えるでしょう。死ぬ間際にも、優しく慰めてくれるに違いありません。『いまあなたは無様に倒れてしまい、看取る人もいないけど私がついていますよ』と。求めず慌てず、自分との関係性を気付いていくことが大切です」

「自分自身と安定的な関係を築くこと。もっといっちゃうと、自分自身と溶け合えるということは、最大の幸福ですよね。」

「家に帰って一人で落ち込むのはなぜかというと、外で他人と一緒にいた時の自分の情けなさや嘆かわしさにもう一人の自分自身が怒っているからです。自分以外に人を責める人間はいないわけですから。人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる。だからこそ反省をするし、後悔もする。もう一人の自分にそういうことをさせられちゃってるんですよ。となると、いかにもう一人のじぶんと和解できるか、仲良くなれるかがものすごい重要です。」 

斎藤環↓の引用とか

大学時代の私は いまでいう「コミュ障」だった。

・・・

いまの私が診察したら、「ちょっとアスペルガー症候群の可能性が否定できない」くらいは考えたかもしれない。

・・・

ひきこもりの青年を見ていていつも思うのは、一歩間違えれば自分も同じ境遇だったという確信だ。彼らの悩みは、とうてい他人事には思えない。私の書いたひきこもり関連本がそれなりに評価されているとすれば、それはこうした「当事者への過剰な思い入れ」ゆえだろう、と勝手に考えている。

ただ、私とひきこもりとで決定的に違う点がある。われながらあきれるのだが、私自身は、決して自分自身に愛想を尽かすということがなかったということだ。当時の私は、並外れて自己愛が強かったのである。自己中心的という意味ではない。謙遜や他人への気遣いも、つねに「それが自分自身の利益になるから」ということを意識しているような、こすっからい若者だったのである。・・・対人恐怖の感情の基礎には、こうした強い自己愛がしばしば潜んでいる。私もそうした意味で、自己愛の強い若者だった。

・・・

こういうことを書きながら、私はべつに特別な自己開示をしているつもりはない。それというのも、私は自己愛が強いわりには、いつも自分自身を外側から見ていたからだ。「この一風変わった人間が、このシビアな状況に置かれたら、どんな反応を示すだろうか」、これが私の自己愛のかたちだ。つまるところ私の自己愛は、私というよく分からない存在がどういう変化を遂げていくかということに対する”好奇心”なのである。

・・・「好奇心」や「自己愛」も重要ではないかということだ。厳しい状況に置かれて「失敗したらどうしよう」と自分で不安を煽りたててもしようがない。むしろ一歩離れた視点から、「さあたいへんだ。いったいどうなる?」と無責任に事態を眺める「見物人」の立場くらいでちょうどいい。

 

もうこういう感覚のオンパレードだな。
そもそも「妄想の他者」とか「もう一人の自分」とか「観る(診る)神」とか「無限回廊」とかの自分の造語もまさしくこういう感覚から生み出されたもの。よく使う「メタ的」とか「高い抽象度」とか「客観性」とかの一般的な言葉も頻繁に使うが、これらもまさしくこういう感覚から。
今から考えると映画の見方も俯瞰的だなあ。
こんなにヒントがあったのにちっとも気づかなかった。これほどまでに自分の事には気付かないということだな。

 

それに会社で気づかされるとは。たまたまちょっと前に赴任してきた上司が言ってくれた。彼が赴任しなかったらこの先もかなり長い間気付かなかったかもしれない。ほんと人間万事塞翁が馬感謝。

 

そして、ここまでの人生を見返したとき、なんかもう、ぜ~んぶ繋がってる事に気付く。

ホント、無意識的に選んでる。

そして、またもあの言葉を思い出す。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?」

 

僕は、「(自分も含んだ)世界の観察者(観測者)」になりたいのかもしれない。

さて、(自分も含んだ)世界、一体どうなるのか。