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自力と他力は同じもの

コネクティングザドット、というかゲシュタルト構築ってのは、ホントにいつの間にか起こってるものだな。
自分の意志で繋げようと思っても、つまりコントロール的にはつなげられない。
非意志的に、受動的に、そして、事後的に、いつの間にか繋がっていて、ある時ふと「あ、いつの間にか繋がってるやん」と気づく。
しかも、かなりシンプル。
でもそのシンプルな論理に辿り着くのには大量のインプットが必要だったように思う。

今日ふと気づいた。大したことではない。
何に気づいたかというと、自力と他力が本質的に同じものだということ。身体レベルでも、精神レベルでも、観念のレベルでも。

自力は例えば初期仏教。例えばヴィパッサナ瞑想。コントロールせず、自分のなかの善にも悪にもただ単にありのままに気づいていく。
他力は例えば浄土真宗南無阿弥陀仏。すべてお任せする。自分のなかの善も悪も全ておまかせする。

結局同じ。
自己の内外のあらゆる善も悪も苦楽も、ただ気付き、ただ自己と世界にお任せする。未分自他に対してお任せする。
最初はそれを見つめる、点にまで抽象化された自分(という目)がある。
多分、その後、その点すらも霧消する。

そして、あくまでその副次的効果として、心が穏やかになる。最初はそれはメタレベルでの穏やかさだけど、その後自然に抽象度の低いレベルでも、つまり周りからも見える形で、その「浄化」が起こる。まーこれは方向性の話で、かつ程度問題だけどね。

自分の中で、自力と他力の対立が、長らく悩ましい問題だった。でも、根元的にというか、ひとつ上の抽象度では、同じものと気づけた。一般的に見ると他力なんだろうけど。
映画ミストの記事で、「何かつながってるような気もするんよねえ」と書いたが、やっばり繋がってた。


この気付きは自分のなかでは大きい。かなり心強い羅針盤を手に入れたかも。羅針盤は手に入った(と思う)。あくまで、かなり大雑把な精度の羅針盤だけど、大雑把な方が良い。柔軟性があって。かなりグルグルグルグル回るんだけど、かなりブレながらも最終的には大体の方向を示す羅針盤。んー、ちょっと違うけど今できる一番近い表現はこれかな。

柔軟性はあるけど、大まかな方向は示してくれる。メタレベルでの方向性。
あとは、「死ぬまで生きる」だけ。どこまで行けるか、どこに辿り着くかは関係ない。