カイン ヨブ

カインは主に言った。

「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」

種はカインに言われた。

「いや、それゆえカインを殺すものは、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

・・・

カインは「地上をさまよい、さすらう者」であるが、殺されないしるしを帯びているのだ。

・・・彼は共同体から追放されたのだが、殺されることのない者、死ぬことさえできぬ者、孤独を噛みしめてひとりで生き抜くしかない者、みずからの運命に対してーヨブと同様ー「なぜなのだ?」と問い続けて生きるしかない者なのだ。

 

神と悪魔の契約により、ヨブは彼が持っているすべてのものを奪い取られた。家畜も家族もしもべもすべて取りあげられ、そのうえからだは腫れ物に覆われ、彼は灰の中を転げ回ることになった。

・・・しかし、ヨブは神を呪わなかった。ただ、ヨブは生きる意味がわからなくなった。日々こんなに辛いのに、なぜ生きているのか。それでも、彼は「神よ、なぜなのですか」と問い続けることをやめなかった。自分は生まれなければよかったのだ、というため息も漏らした。だが、彼は神を呪わなかった。

問い続けること、それが彼の生きる意味となった

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。

 せめて、うまれてすぐに息絶えなかったのか。

 なぜ、膝があってわたしを抱き、

 乳房があって乳を飲ませたのか。

 それさえなければ今は黙して伏し

 憩いを得て眠りについていたであろうに。」

 

他人は存在しない。それは表象に過ぎない。

・・・

僕の周囲には「人間」という名のぼくに似た動物がたくさん生息している。

・・・

他人が存在すると思うから、その存在は僕に重くのしかかるのだ。だが、他人は存在しないかもしれないじゃないか。あたかも存在する「かのような」ものにすぎないかもしれないじゃないか。

・・・

そうだ、ぼくは他人にこだわる必要はないんだ。わかってもらいたい、愛してもらいたい、気づいてもらいたい・・・という要求を持つ必要はないんだ。ぼくのまわりにうごめく人々は、ただぼくに「対している」だけの存在なんだ。

・・・

他人とはぼくにとってこうした「意味の固まり」にすぎないということだ。すなわち「表象」にすぎないということだ。こう完全に悟るや、ぼくは他人の恐怖から逃れることができたんだ。他人は僕に何の危害を加えることもできない。いや、ぼくに指一本触れることはできないんだ。なぜなら彼らはただの意味にすぎないのだから。僕の前で怒り狂っていても、そういう意味としてぼくに対しているだけだ。

・・・

森羅万象は僕の表象に過ぎない。ぼくはこのことを確信した。そしてぼくは誰からも危害を加えられない存在になった。完全に安全になった・・・

僕は自分の安全と引き換えに、他人の存在を、世界の存在を失った。

・・・

なんと味気なく、すべてはスムーズに進むことだろう。他人はあまりにも「気にならない」存在に変貌してしまった。

・・・

こうして世界の光景はさっぱりしたものになった。ぼくは他人を一人残らずそこから追放した。だが、他人から振り回され、他人の攻撃におじけづき、他人の愛に怯えていた僕が、あえぎあえぎ辿り着いたこの地点は、なんと寒々としたものなのであろう。そこは絶対零度の地点である。ぼくはすべての他人を完全に「殺して」しまった。ぼくを苦しめ続けた他人を、完全に抹殺してしまった。世界に存在するものはぼくしかいなくなった。荒涼とした光景だった。いや、ぼくは他人との相関であるのだから、その世界にはぼくさえ存在しないのだ。存在するものは何もなかった。ただの「意味の固まり」が浮遊しているだけだった。

・・・

いっさいの他人を遮断して孤独城を築き上げる技術・・・それはなんと寂しい技術なのだろう。だが、そうしなければぼくは生きてこれなかった。だから、この寂しい技術によってうち建てられた寂しい城に住まうこと、それをぼくの運命として受け入れなければならないのだ。