映画『フィアレス』

フィアレス (映画) - Wikipedia

 

打ちのめされた。なかなかこんな映画体験はない(あったかもしれないが少なくとも覚えていない)。トラウマを描いた映画とも言えるが、映画自体がトラウマという感じの映画。でも、救済される。

 

極限状況に置いてなお、自己を顧みず人々に尽くす映画はそれなりに多く見てきた気がする。キリストの受難を描いた『パッション』、ヒトラーに反旗を翻し断頭台に送られた『白バラの祈り』(実話)、同じくヒトラーへ反逆した将校達が銃殺刑にさらされる『ワルキューレ』(確か実話)など。

これらの映画も主人公たちの恐怖と、それでも自分の信念を貫き通す勇気に涙せずにはいられない、傑作だった。

 

だが、この『フィアレス』に当初感じた異様な恐怖は何なのだろう。普通に考えればホラー映画ではない。サイコパスの話でもない。しかし、ナラティブとしてのホラーや人間存在としてのサイコパスよりも、何倍も怖い得体の知れない恐怖を感じた(これは僕独特の感性かもしれませんが)。それは、サイコパスと180度真逆の人間が、その聖性故に静かな狂気をはらむという恐怖だ。その人自身ではなく、そのようなことが起こるこの世界やプロセス、心理が怖い。

 

先に上げたいくつかの映画達と何が違うのか。

一つには、上記の映画達の主人公達は、確信犯的に権力に歯向かっていた。既にある程度、非日常・(ラカンの言う)現実界・「死」を意識していた。主人公に同一化した鑑賞者は、徐々に増していく恐怖感に圧倒される。

 

対してこの『フィアレス』は、まず、主人公(マックス)の飛行機事故の恐怖体験の記憶が欠落している。冒頭に描かれる僅かな事故のシーンによって、かなりのトラウマ体験であったことが予想はされるのだが、詳しくは描かれない。

だから、鑑賞者はまずマックスに同一化できない。いや、同一化できたとしても同一化した自分(マックス)の異様な冷静さに違和感を覚える。なぜなら、彼自身が自分のトラウマ体験に蓋をし、記憶が欠落しているからだ。この時点で既に、ある種の不協和音を感じる。

 

映画が進むにつれて、更にマックスの異常さが露わになっていく。「この人は決して無傷で生還したわけではない」ということがあからさまになっていく。むしろ恐らく、事故生還者の誰よりも、そう、自分の子供を失った母(カーラ)よりも、更に深い傷を負ってしまったのだという不吉な予感がどんどん膨らんでいく。途中からはそれは確信に変わっている。

 

飛行機事故の様子が断片的に映画の途中で挟まれるのだが、マックスは誰よりも繊細で、誰よりも早く機の様子がおかしいことに気付いていた。危機の予兆への鋭敏な嗅覚。現実界への鋭い感受性。これは主人公が父の死というトラウマを抱えていたからかもしれない。

誰よりも繊細である種の弱さを抱えているにもかかわらず、優しすぎる人間。激烈な非常時においてこのダブルバインドが彼をいかなる精神状況に追い込んだかという謎は、ラストで描かれる。

 

ラストまではその謎が分からないまま映画は進むが、とにかく彼が「壊れていた」ことだけは分かる。冒頭の僅かの事故シーンで異様な冷静さで救出に励んだ時からすでに。

日常生活に戻った後も、苦しい人生を送っている人をこれ以上ないほど優しく包み込んだり。あるいは同じ事故の生存者の傷を癒すために平気で命を投げ出したり。後者の点で見ても、彼の行動は常軌を逸している。実利とリスクのつりあいが完全に破綻している、破滅的な行動原理と異様なまでの利他性。

だからこそ、その同じ人間が子供を失った母の祈りを鼻で笑い、その同じ人間の口から「神などいない」「人は本当のところ神など大して信じていないんだ。生や死に理由はない。人の生死は偶然の産物だから何をしても無意味さ。」という言葉が発されるとき、僕はやはり異様な不気味さを感じた。想像を絶するニヒリズムが彼を覆っている、と(あの大聖人のマザー・テレサが死の間際に「私には神が見えない」と言ったらしいが、その話を知った時の不気味さと通ずる)。極度の惨事を経験しながらある種の正気を保っているにも関わらず、神を信じず何にも縋らないとすれば、彼の中身はどれだけ空虚なのだろうかと。その空っぽさに戦慄したのだ。

 

ネタバレをすると、先程述べたダブルバインドの結果、マックスは完全に「自己」というものを吹き飛ばしてしまったのだ。

弱く優しいマックス。誰よりも事態に恐怖している。でもあそこに助けるべきより弱い存在がいる。この時、彼は自己を捨て、一種の健忘症になり、「無敵の自分」に変身するしかなかった。そして、それが事故後も続いた(「僕といれば絶対に死なない」という台詞など)。

その結果としての、死に関連する感情への圧倒的な洞察力と異常な利他性。変身の欠陥の僅かな片鱗として垣間見えるニヒリズム。そして、「僕は死んでいる。生きていない。幽霊だ」という台詞。死への異常なまでの鈍感さと、死の超克への異様なまでの執着の併存。タナトスに憑りつかれていると同時に現実界、<世界>の住人となってしまったのだと感じた。誰よりも生きているように見えて、しかしその中身はどこまでも空虚で死んでいる。

 

「見てごらん人々を。死が何かを知らない。でも僕らは知ってる。」事故当事者同士(子供を亡くした母カーラと主人公マックス)の連帯感。事故を経験していない妻は主人公から疎外される。強烈な恐怖体験をした主人公にとっては、もう妻は「別の世界の存在」になってしまった。カーラにとっての夫も同様。

だが、カーラとマックスは男女の仲にはならない。そんなレベルではないのだ。特にマックスの方が。精神分析的に言うと、タナトスの支配が強すぎて、エロスが退場してしまった状態というか(もちろん戦争など、死が色濃ければ、種を残そうとして生(性)も強くなるということもあるのだが。兵によるレイプが絶えないのはこのため。慰安所の設置は細心の注意を払わなければならないとはいえ、一定の合理性があるのだ。生と死が深い関係にあるように、エロスとタナトスも深い関係にある)。

 

マックスは「あの墜落の瞬間こそ最高の瞬間だ」と述べるに至る。大切な経験だ、と。タナトスの前で無残に砕け散る夫婦愛や親子愛。愛への恐怖。

妻の矛盾の指摘に対して「そう、矛盾だ。道理なんか関係ない」。彼が象徴界を通り越し現実界に濃厚に接触してしまったことが分かる。

妻とは事故経験を共有できないが、同じ経験をしたカーラとは共有できる。同僚の首がもげたことなどを平然と喋る。「何も怖くなんかない」と言いながら。恐怖心の麻痺。

 

カーラとの買い物の場面で彼のポジティブさは頂点に達する。カーラもつられてポジティブになるが、彼女はまだ傷の浅い方だったので、その後にPTSD的なバックラッシュが起こる。必死で祈る彼女の姿に、マックスもつられそうになる。「やめろ!涙や祈りはたくさんだ!」

彼は命を顧みず、またもとの世界、つまり「死の世界」に戻る。カーラだけをその世界から脱出させて。息子を失った痛み以外感じられなかったカーラが、感情を取り戻した。そして、マックスだけは救われない。その後カーラはマックスの妻に「マックスは人間よ。天使じゃない。空では生きられない。」と釘をさされる(すごい妻だ)。

 

一人死の世界に取り残されたマックスに対して、彼のおかげでそこから脱出したカーラが語り掛ける。

「家に帰ってマックス。もう一度生きて。幽霊は卒業よ。」

「帰れないよ。嫌なんだ。」と明るく答えるマックス。

マックス「二人で消えよう。」

カーラ「アタシはもうだめ。地上に戻ったの。しばらくは地上で生きてみるわ。マックス、皆を助けるのは無理よ。もっと自分の心配をして。」

カーラの愛が伝わるシーン。同じく深い傷を負ったがまだ傷が浅くて、抜け出せたカーラが、あえてマックスを突き放す。妻のもとへ、<社会>へ、象徴界へ戻るように促した。

マックスが残した絵画(明らかに現実界のカオスを描いたもの)を発見した妻は、彼の闇の深さを知り、彼を迎えに行く。

「僕を救ってくれ」ついにマックスの本音が出る。

 

事故後から治まっていたイチゴアレルギーの再発。象徴界へ戻ってきたことを示す。

その後、マックスの飛行機上での記憶が蘇る。

本当は自分が一番怖いのに、恐怖におびえる人々に笑顔を振りまき安心を与えるマックス。しかし無残にもほとんどの乗客が死んだ。サバイバーズギルトもあったのだ。

記憶が蘇った後、彼は我に返り「僕は生きてる!生きてるんだ!」と泣き喜んでエンド。主人公が救われて、本当に良かったと思った。

マックスはゆるされたのだ。「もういいんだよ。よわくていいんだよ。自分のことを考えていいんだよ」と。本当に感動した。

 

***

 

ある人が「本当に深いトラウマは語る事すらできない」と言っていた。この映画を観ると、その通りだと思わされる。マックスの場合は「自覚すらできない」。

恐らく、客観的な悲惨度の強弱だけではない。悲惨度で言えば戦争映画を持ち出すまでもなく、本作のカーラの方が悲惨だ。マックスの場合、繊細さ、ある種の弱さを持つ人間が、しかしその優しさ故に「異常な強さ」を強いられたとき、一気に現実界に吸い込まれてしまったのだ。

 

僕はラストシーンで涙腺崩壊状態だったんだが、それはなぜか。同じようにキツい状況で僕を励ましてくれたり、平静を装って様々な人を助けようとしている人たちも、程度の差はあれ、マックスと同じ場合があるかもしれないと想像したからだ。助けられる側ではなく、助ける側こそがもっとも傷ついているかもしれないという想像。だが、傷ついているからこそあれほどの利他性を発揮できるということもあるのかもしれない。

助けられる側は、自分のことで精一杯。でも、窮地で自分を勇気づけてくれるその人こそが、最も傷つき、本来最も弱く繊細であったとしたら。そんな人間の自己犠牲に、健気さに、空元気に、思わず落涙してしまったわけです。

強制収容所でも、誰もが利己的に生き残ろうとするしかない地獄の中、自分の食糧すらないのに、その最後のひとかけらのパンを人々に与え、骨と皮になりながら、あちらこちらで優しい声をかけて回る天使のような人々が実際にいたらしい。

 

そういうマックス役を演じた俳優の怪演と映画に対してはお見事としか言いようがない。こんな大傑作がamazonのレビュー数から察するに、あまり見られていないとは残念だ。まあ繊細な人ほど見るのがキツい映画ではあると思う。