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ラカン

ラカンに関する本(生きのびるためのラカン)を読んだけど、内容としておもしろい、かつ生きていく上でのヒントがたくさんあるという直感がある。でも、ラカンの哲学(心理学?思想?精神分析?)が自分の中でひとまとまりのゲシュタルトを構築していないというか、知識が有機的に結びついていない。でも、その内容を自分なりに残しておくことに意味があるような気がするので、興味を引いたところを断片的にとりあげておくことにした。以下は全部、断言口調になるが、僕がこんな難しいことを考え付くわけがないので、あくまでこれはラカンフロイトの考え(の一側面。誤読もあるかも)。いちいち「ラカンによれば」とかはいれない。

 

想像界象徴界現実界に関しては忘れることはないと思うから割愛(ちなみに、ラカンの言う(あれ、使っちゃった(笑))現実界とは、俗に言う現実とは全く違う、むしろ真逆に近いもの)。なぜ僕がこれらをスッと理解できて忘れないかというと、想像界象徴界現実界は、それぞれ宮台が言う<世界体験><社会><世界>とかなり対応するものだから。これはほぼ間違いないと思う。

あ、でも象徴界が無意識を示し、それが言葉で構成されてる、つまり、無意識は言葉で構成されてるというということを、ここまではっきりと書いてる本には初めて出会った(もっと早く読んどきゃ良かった)。

でも、苫米地や坂口恭平(もうめんどくさいから基本敬称略で)などなどの本にも片鱗は見えてたな。

苫米地は「世界は全て言語で構成されている」って断言してた。僕らが赤信号で止まるのは無意識ですよね。これは道路交通法に「赤信号で止まれ」って書かれてて、それが無意識にこびりつくから。こういう例は考えだせばいくらでもあるわけで、そう考えると、無意識って言語以前のすごい神秘的なものってイメージがあるけど、そうでもないわけで。

催眠とかも人を変性意識状態において、その中で言語によるアンカーとトリガーを埋め込む。で、顕在意識に戻ってトリガーを引く言葉とか言動で、アンカーが引き上げられて、人を操ることができる。

坂口も、無意識は敵で(だから無意識の点検が必要で)、無意識を意識に上げて自覚しなきゃいけない(無意識HACKING)ってことを言ってて、何でだろうなって思ってたけど、無意識が実は法律とか常識とか様々な「純粋に自分から湧き上がってきたもの。根源的なもの。現実界のもの。」ではないものでできあがってるからなんでしょう多分。つまり、現実界的な、もっと人間という生き物の業というか、そういう根源的なものは無意識や象徴界ではなく、もっと異様で剥き出しで非言語的な現実界や<世界>にあるってことを言いたかったんじゃないかな。カントの「物自体」とかもこれらしいけど、ネーミングがすごい分かり易いですね。多分サルトルの「嘔吐」の剥き出しの存在もここらへんでしょう。トラウマがトラウマたるゆえんも、それが現実界に属するかららしい。

 

基本、そういう剥き出しの世界に直接人間が接すると、発狂しちゃうわけで。まーでも、遊動段階の人間は普通にこういう状態だった。だから遊動段階では戦争とか当たり前だったし、人の性欲にも全く箍(たが)がかかってなくて、まあやりまくり状態。で、子供が生まれ過ぎだったから間引きとか当たり前だった。これは、人間の欲は四つに分けられて、要求、欲求、欲望、欲動なんだけど、今のこの大規模定住社会の性欲は欲望に分類される(何しろ言語という禁断の果実を手にしてしまったから、性欲も言語的なものにとどまってしまったらしい)けど、遊動段階の性欲は欲動に分類される、もっと深いというか、異質なものだった。これがラカンが言うエロス。でも、現在でも欲動レベルの性欲が発現することが極稀にあり、それが多分オーガズムというやつ。聞くところによると、現代に近づくにつれて、ほとんどの人間がオーガズムを経験せずに終わるようになったらしいね(このあたりは代々木忠)。

で、戦争の方はタナトス。生の欲動のエロス(ちなみに、エロスは何も性欲だけを指すわけではない。生の根源みたいなものすべてだから、性欲は一部に過ぎないのだそう)に対して、もう一つの欲動がタナトス。つまり、人は死を怖がる一方で、死に対するとてつもなく深~い欲も持ってる。トラウマ経験者のPTSDタナトスが原因。普通に考えたらトラウマ体験を何回も思い出すって、心にとってめちゃ不合理だけど、確かにタナトスでは説明がつくな。「人を殺して見たかった」なんて最たるものだな。今でも戦争に行きたがる人はたくさんいるし。動物殺すの楽しいとか、自分が死にそうになるのが最高だ、とかもあるね。

 

対して欲望は象徴界、無意識レベルのもので、欲望に際限がないのはそのせい。言語的に構成されてるから。言語的にいくらでもバージョンをかえていける。一方、欲動は際限なく見えるけど、やっぱ根源のものだから、ちょっと違うみたい。僕は多分、カタルシスとかは疑似的な欲動満足の事のような気がする。

何となくだけど、際限のない欲望と、もっと深いレベルの欲動的な満足の違いってあるよね。もっと<世界>に触れる必要があるなあ。でもそれは多分求めても得られない。ある時ふと与えられるだけだろう。

 

定住がはじまっても祝祭(ハレ)によって欲動をコントロールしてた。定住による安定と生命の安全と引き換えに、欲動を少し手放したわけですね。象徴界を受け入れた。でも定住生活だけだとケが枯れる(ケガレ・穢れ)。古い祝祭ほど、性と死が色濃い。エロスとタナトス

 

今は更に進んだ段階(近現代)で、大規模定住社会。象徴界が更に強くなる。だから、ラカンによれば、現代の普通に生活できてる人も神経症という病気(ラカンは人間を神経症者、倒錯者、精神病者に分ける)。

 

ちなみに、現実界とかは仏教の空観とかとも結びつくと思ったんだけど、本では否定されてたな。でも、本質的にはつながってると思う。阿頼耶識とか。

 

まー人間は無意識とか象徴界とかで箍をはめてなんとかしてるわけで、これがうまくいかなくなったのが精神病患者の方々。ラカンの言う精神病はすべからく統合失調症なんですが。つまり、彼らは無意識や象徴界がちょっと機能不全を起こしている。去勢がうまくいってない。

 

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言葉とは何か。普通に考えればコミュニケーション手段。意味の代用物。

しかしラカンによれば、言葉は「存在の代用物」。

幼児の母との未分の状態。ここに象徴界の象徴たる父が割り込み、万能の母の「存在」は奪われる(去勢)。この万能の母の不在を埋め合わせるのが言葉。具体的には「ママ」という言葉。ママの不在に耐えるためにママの象徴で我慢する。この他にも、重要な存在が象徴界の介入によって奪われるたびに、その存在の代用物として、言葉が利用される。こうして幼児は言語を獲得していく。

ちなみに、この意味で、言葉というのは幼児が最初に出会う「他者」である。というか、もう言葉を使ってしまった時点で、僕たちは純粋な他者には出会えない。それは、言語によって模造された他者。

 

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言葉の次の他者が鏡に映った自分。鏡像段階。これも虚構。左右反転してるから。ナルキッソスの例。まあこれはメタファーも入ってると思うが。

 

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対象a。欲望の原因にして、絶対に辿り着けない欲望。例えば、「本当の自分」。本当の自分という欲望aを求めて、色々探すけど、絶対に辿り着かない。他にもいろんな例があるけど、つまり、人間は「本当の欲望の対象」を掴むことができない。

ここら辺の考えはさすがに仏教的と言えるでしょう。無我と空観。

ハイデガーの受苦的疎外論とも通じますね。間接的にしか読んだことないけど。

 

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「転移」と「象徴界の穴」。

 

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ちょっと疲れたのでここまで。というか、読んだ本について書くってめっちゃ疲れるな。色々連想で繋がっちゃって余計なこと書いちゃうし。読んだ本を血肉にするにはアウトプットするのが一番いいって話を聞いたってのも一つの理由なんだけど、この本で最後にしよう。一人で思いを巡らすだけでもアウトプットになりそうだし。言葉に出すだけとか。というか、要点をまとめるということができてないから疲れるってのもあるので、もし今度やるならもっと短くまとめよう。