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映画『ミスト』

をしばらく前に観た。

 

結構スゴイ映画だった。一部巷ではかなりの鬱映画として知られているらしい。

 

内容はSFというか、怖いモンスターとかがでてきて、現実にはあり得ない感じだけど、色んなテーマが詰まってる濃い~い映画だった。

主題を一言で言うと、「人間の理性(前頭前野)の限界(人間の弱さ)と、それに対比して色濃く浮かび上がる<世界>のデタラメさ(偶発性)」って感じかと。でも、僕がもひとつ注目したいテーマは【妄想】者の「変な強さ」とその副作用(弱点)だ。

 

ストーリーはwikipediaより↓

ミスト (映画) - Wikipedia

 

まず、狂信者ミセス・カモーディの修羅場での「変な強さ」と、過酷な状況の中で次第に彼女に従属していく弱き者達の姿。

記事で数回取り上げた、【妄想】モチーフに通ずる。カモーディの日常での姿は映されていないが、結構最初の方のちょっとしたシーンから、周囲から異端視されていることが伺える。少し精神に異常があり(トラウマもあったかもしれない)、社会を生きることが難しく、それ故に現実にないもの(ここでは神)に縋って生きてきた女性だろう。完全に、妄想レベルではなく、【妄想】レベルだ。

 

主人公グループは、「理性の力」によって、困難を乗り越えていこうとするタイプ。しかし、この理性の力も、ある程度日常(言語的に構成された虚構)におけるルールや常識など(これも虚構)を信頼しているからこそのものであり、日常が崩れる度合いに比例して限界が露呈していく。それはラストに近づくにつれ明らかになり、ラストで決定的なものになる。

カモーディは、恐らく日常に適応できない異端児だったので、頭の中では非日常を生きていた。だから実際に非日常が訪れた時に変に強かった。彼女の変な強さを、状況依存的な偶然的なものと断じるのは早計だろうと思う。それは、主人公グループの結末やカモーディに次第に感化されていく弱き人達を観れば分かる。変であってもそれが強さに繋がるのなら、参考にしてみる価値はある。

 

彼女の変な強さを表す他の場面としては、侵入したモンスターが、ふっと彼女に止まった時だ。モンスターに噛まれると、毒でひどい死に方をする。それを分かっていても、彼女は「神よ、この命を捧げます」と言って冷静さをギリギリで保ち、難を逃れる。これも「たまたまだろ」と断ずるのは早計だと思う。ミツバチなどの特性を見ても分かるように、こちらが攻撃性を示せば相手も攻撃性を示すというのは、結構生き物に普遍的な法則だと思うからだ(人間でもそうでしょう)。彼女の選択(動かない)は、この場合ベストだった。何よりも、冷静さを保っていたのが大きいだろう。これも「神よ、この命を捧げます」の台詞から分かるように、【妄想】によるものだ。【妄想】によって、なぜか不思議なことに彼女は修羅場を切り抜けるのだ。

一方、このモンスターの侵入シーンでの主人公の行動は非常に西洋理性的なものだった。力と知恵によって敵を征服する。そのために頭と体を使い、対応する。これはこれで、必要な力だろう。

 

しかし、カモーディは結局、やりすぎてしまった。【妄想】によって、生贄が必要だといいだし、その生贄を主人公の息子に指定して、信者達をけしかけた。結果、主人公たちは「理性の力」(ピストル)を行使してのカモーディ射殺を選択するしかなくなる。

これが、【妄想】の副作用とも呼べるものだろう。歯止めが効かない。さながら、極端な空観からポアの思想を生み出し、サリンをばらまいたオウムのようだ。オウムも結局、国家権力によって死刑になった。まーでも、この映画の中のような状況では、つまり常時と非常時を比べれば、非常時の方が【妄想】者は強くなり、相対的に理性的権力は弱くなることが多いだろう。

 

カモーディはどこを間違ったのか?恐らく【妄想】を、自分の実体験から構築するのではなく、都合の良い神という外部装置に頼った点だろう。「実際に起こった」非日常的な経験(トラウマなど)を【妄想】の糧としていれば、それは他の非日常体験でも活用可能性が高い。しかし、彼女は安易に「神」を【妄想】の糧にしてしまった。もちろん、何千年も続いてきたキリスト教とか仏教とかの宗教は非常に抽象度の高いもので、キリスト教の神も非常に緻密に計算されたものであるから、緊急時にはかなりの力を発揮するだろう。しかし、彼女は教義を歪めて解釈している(カルト)。もしくは、旧約聖書新約聖書より抽象度が低い)を採用している。でなければ生贄などという発想はでてこないだろう。

結局は、【妄想】が貧弱だったのだ。それでも緊急時にはここまでの力を発揮したのだから、【妄想】の力は侮れない。うまく活用すれば武器になるのだろう。

更に言えば、彼女は【なりすまし】の意識も無い。だから、彼女のように【妄想】を鍛えてこなかった人間や理性的(常時の延長的)な人間の前で、状況を把握し、【なりすます】ことによって、うまく事を運ぶことができなかった。(このあたり、自分もよく分からない点がある。やはり、【なりすまし】ではなく<なりすまし>を目指すべきなのか?という点)

 

カモーディを射殺し、主人公グループはスーパーから飛び出し、霧の外へ脱出するという、いかにも西洋的な意志に基づいた行動を取る。結果、失敗する。

西洋的な意志の力、理性の力の限りを尽くして戦ったという矜持を持って、主人公グループは自殺の道を選ぶ(主導したのは主人公)。残り弾数上、主人公だけは自殺すらできないという最も辛い道を選ぶ。外に飛び出して自分をモンスターに喰わせようとする。霧の中から何かが現れる。モンスターだろうか?違った。そこに表れたのは戦車。

その後次第に霧が晴れ、主人公は状況を把握する。なんと事態は収拾しかかっていたのだ。

すんでのところでメンバーの自殺を主導してしまった主人公は、後悔による錯乱から、泣き叫ぶ。

冒頭に示したように、「人間の理性の限界(人間の弱さ)と、それに対比して色濃く浮かび上がる<世界>のデタラメさ(偶発性)」がテーマの映画だと思う。

「なぜもうちょっと粘らなかったのか」という問いはナンセンスに思われる。主人公グループは既に「もうちょっと粘った後」の精神状況だったと考えるのが自然でしょう。ホントのホントに希望を失って限界。

しかし、結果論で考えると全く様相が違ってくる。この、現実論(とでも呼びましょうか)と結果論のダイナミズムこそがラストシーンで鑑賞者に何とも言えない感覚をもたらす。

ホント、あとちょっとの差だったわけです。主人公は良かれと思って、現実論的にはベストの選択をしたつもりなわけです。でも結果論から見ると、とんでもない選択だった(しかも最初にスーパーを飛び出した、つまり最も非理性的な選択をしたかに思われた女性が生き残っていた)。このダイナミズム。

 

人間の理性の限界を見せつけられた。でも、理性(前頭前野)の力にも期待したい自分は、主人公がこの後、現実論的に考えて、「自分は『あの時あの場における』ベストの選択をした。自分にはそれしかできなかった。悔いはない。結果論で自分を責めるのは馬鹿げている。この経験を、また次に生かせばいい」と立ち直ることを期待したいなあ。超人的な理性ですね。

そして、理性の力で吸い取れない分の後悔は、【妄想】に頼って自分の力にするのも良いだろう。でもなんか、理性側と【妄想】側には通ずるところもある気もするんよね。根を辿っていけば同じところに辿り着くような気が。ただの直感ですが。

ちなみに僕の理解では、上座部仏教とか苫米地とかが「理性の力」の究極で、大乗仏教キリスト教とか宮台とかが【妄想】の力、って感じがあります(ただの感覚的なもの)。でもやっぱり混ざり合ってたりするし、根は一つな感じもするんよねえ。

 

まー、未来を予測できず、現実論的に生きるしかない、一個の弱い人間である僕は、できる限り「結果論的」な視点を持続させたいと思った。つまり、「あともう少しかもしれない。まだ希望があるかもしれない」とギリギリまで希望を捨てない人間。

まあそれすらも踏みにじるからこそ「<世界>はデタラメで偶発的」なんだけど。でも事後にはそれすらも理性の力で・・・ってキリがないな(笑)

こういう再帰性を考えさせられるし、これはメタのメタのメタまで自分を肯定するっていう考えにも関連するし、うん、どこまでメタになれるかの闘いでもある。再帰性がずーっと続くということは、この闘いに終わりがないということ。

終わりが無いということに気付くということも、(また一つ外側の)メタ認知だなあ。

 

理性の力と【妄想】後からも入れ子構造で、互いに戦い続けて(メタの地位を取り合って)洗練されていく気がする。


あと一つ。〈世界〉がデタラメだからこそ救われる、ということもあるんたなあ、と。最初にスーパーを飛び出して生き残った女性が良い例。