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LUCY

オカルティックな内容だが、それなりに学べるところも。

 

「どうなるだろう。もし脳の機能の20%にアクセスできたら。この第1ステージは自らの肉体を掌握し意のままに操ること。第二ステージは他者を意のままに支配する事。その次は物質の支配となる。」

「全てを感じる。空間や大気、大地の震動、人々、重力、地球の回転。私の体から出る熱。血管を流れる血。脳も感じる。記憶の最も奥深く・・・

口に広がるママの母乳の味も覚えてる。沢山のキスも。」

「障壁は次々に消え自分の脳を完全支配できる。」

学びには痛みが伴う。骨の成長で痛みを感じるように。骨が成長する音を覚えてる。皮膚の下できしむ音。今は全てが違う。

あらゆる音が音楽のように理解できる。

以前はいつも不安だった。自分は誰で何になりたいのかと。

脳の深淵にアクセスできる今は、人間がどういうものか分かる。

人間は原始的。不安は障壁。分かる?

あなたの痛みと同じ。不安が理解の邪魔をする。あなたは今痛みしか感じてない。

痛みは感じない。恐怖も欲望も。人間的な感情が消えていく。人間らしさが薄れていくにつれて、ありとあらゆる知識が増える。

「環境が生育に適していない場合、細胞は不死を選ぶ。つまり自己完結して生き続ける。」

「人間は自らの独自性を存在論の根拠としている。

単位の基準は1。だが違う。社会システムは全て表層的。1+1=2と習う。でも1+1=2ではない。実際には数字も文字もない。人間は理解しやすいよう存在や情報を単純化する。楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。

「独自性が根拠ではなく、数学的法則に支配されていないなら、何が支配する?」

「走る車を撮影し、速度を上げていくと、車は消える。車の存在を示す根拠は?時が存在の証となる。時だけが真実の尺度。時が物質の存在を明かす。時なくして、何ものも存在しない。」

 

「彼女はどこに?」

(私は至る所にいる。)

 

単純に全部オカルトとは言えなさそう。ほとんどオカルトだけど、哲学とか思想とか、頭の中だけのものを突き詰めていくとこういう結論になるのかな~という気はする(根拠なし)。あ、でも時が存在の根拠みたいな話は全然分からない。

 

脳が覚醒した主人公が唯一分からなかったものが、生きる目的だった。

それはそうだろう。どんなに能力が覚醒しても、目的が無ければどう行動すればよいか分からない(生き残るという最低限のことは自動的に行うだろうが、それは目的とは違う)。

教授にそれを尋ね、「知識を伝えることではなかろうか」と言われ、それに従う。

 

ここんとこは、う~んという感じ。

安易な目的設定ではなかろうか。目的なんか無いよって言われた方がしっくりくる。というか、絶対的な目的などない。そんなもの自分で決めろよ、という回答の方が。

 

まー目的がないってのは結構怖い。何でもありで自由なんだけど、ホント、何をすれば良いのか分からなくなる。本当に物事の本質を、頭だけでなく体の底から知ってしまって、目的などないって実感できちゃったら、せせこましい他者との比較とかも完全になくなって、ホームレスでもなんでも、最低限生きていればそれでいいってことになって、最低限の生存を確保すること以外何のやる気もおきなさそう。

てか、日本ではかなり逸脱しても餓死することはないので、マジで何もしなさそう。

それか、釈迦のように、悟った後に人々を救う道を(メサイアコンプレックスとは違う形で)選ぶんだろうか。

 

マズローの欲求の段階でいろいろあるけど、日本ではほとんどの場合、第一(生理的欲求)、第二(安全欲求)の最低限満たされてるし、だから今日本で重要視されるのは承認欲求なんでしょう。

まさにうえの台詞の「以前はいつも不安だった。自分は誰で何になりたいのかと。」っていうのは第三(社会的欲求)第四(承認欲求)第五(自己実現欲求)とかに関連する、先進国民に顕著のもので、共感できる人も多いのではないでしょうか。

何かこのLUCYの主人公は、悟りを開いた人みたいな感じに僕には見えるんですが、社会的欲求とか承認欲求とかを超越したその姿にやはり僕は憧れを覚えますし、僕が仏教とかにコミットする理由は、人一倍こうした欲求が強いことを表しているのでしょう。

 

でも、悟りなんてほとんど開けないもの。苫米地氏も、空観の習得なんて、まーできないと言ってる。だから、僕のような凡夫はもがき続けるしかないし、あらゆる哲学や思想で武装しないと、立っていることもままならない。

 

じゃあ直截に第三第四の欲求を満たすべく、他者にもたれかかれば良いのかというと、中々うまくいかない。まあ、それができる人はすればいいと思うけど、相手だって誰かにもたれかかりたい。だから、互いにもたれ合うというのは、人間が心の安全を確保する上で重要な知恵なんだろう。

 

まーでも相手が人間だけに、そう簡単にはいかないわけです。だから喧嘩して仲直りしてをくりかえして、くっついたり離れたりするわけで、それが嫌なら第三第四の欲求を超越しなければならないんだろう。もちろん、その二つの間があってもいい。

何か自分は、欲求が強い分そういうアンコントローラブルでドロドロした関係になりやすいし、そのくせしてそういう関係からすぐ逃げ出したくなるので、超越の方を志向する傾向がある。

才能ないのにその方向を志向するというパラドックス。自分にないものに憧れる傾向。でも、こういう人は存外多いだろう。それに、苦手分野でも、自分が「これ!」と思った分野ならば、少しずつ克服しているような気がする時は、生き甲斐があるってもんで。

 

何というか、何の生きる目的もない、虚無の状況に打ち勝つことが、まさに生きる目的になってるという感じはある。まーとんでもないきつい状況でそれでも自己を肯定し続けた人は少数ながらいるわけで。強制収容所とか。第三第四どころか第一第二の欲求すら満たされない中で、(メタ的に)超然としていたり。(メタ的にといったのは、実際には取り乱したりしていても、メタレベルの自己はそんな自分を優しく見守っている、というような感覚。もちろん、そんなもの関係なく超然としている、まさしく超人のような人も奇跡的な確立で存在するかもしれない。)

精神科医斎藤環さんが言ってた「承認抜きで自己を全肯定せよ」って憧れちゃうなあ。もちろん、これは言外に「『承認抜きで自己を全肯定できない自分』も含めて、全肯定せよ」ってことも言ってるんでしょう。メタのメタのメタの更にメタまで自分を肯定する。そこまで行ったら、善悪も超えて、自己も他者も承認してあげる側に回ることもできるのかもしれない。遠い遠い。

 

とにかくこの映画を観て、どんな状況でも、まだまだ自分の中から掘り起こせる可能性はあるような気がした。「もう限界だ~。助けてくれー」とかいうには早すぎですな。いや、まあ言っても良いし言ってるんだけど、そこからまた戻って来いよという自分への戒め。

結局後から考えてみたら、そういうのって視野狭窄に陥っているだけだったりするから。ちょっと発想やモノの見方が変わったら、何てことなかったりするわけで。不安が理解の邪魔をするって台詞はホントいいな。