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【なりすまし】の受動性について、も少し詳しく。

 

「役柄」レベルでの【なりすまし】。

「感情」レベルでの【なりすまし】。

様々なレベルでの【なりすまし】があることには、前回少し触れた(なりすましの多重性)。

 

後者の場合で例をとる。

単純に、やる気を見せなければならない場面なのに、気後れしてやる気が出ないという「感情」を例にとる。

 

<なりすまし>は字義通り、自分の感情は他にあるとしてそれについては手放さずとも、やる気がある態度に<なりすます>。コントロール的である。

【なりすまし】は、「やる気を見せなければならないという状況」と「実際にはやる気がないという感情」を総合した結果として現に生み出されてしまった「行動や感覚や感情という結果(人それぞれ)」に準ずる。

別にそれに徹しようとするわけではないが、基本的に、仏教的な何も考えない(この「何も考えない」を説明するのが難しい。何というか、何も考えないように「考える」事とも違うので実際には考えてしまっていたりするのだが、別に良いのだ。その意味で「徹しようとするわけではない」のだ。「自分なりの自然体」くらいの言葉が適切か。ニュアンスちょっと違うけど言葉が無い。)態度で全てに臨む。

その結果として生まれた行動や現状や感覚に【なりすます】のだ。つまり、全く自分を縛る気が無い。「やる気見せねば!」と縛ることもないし「縛られてたまるか!」と縛ることもない。状況や感情をコントロールしようとせず、流れに任せ、出た結果に対して【なりすます】。

つまり、「音を操る」(バイオリン、ピアノなど)のではなく「音に乗る」(ドラム)というか。事前ではなく、事後というか。0.1秒前ではなく0.1秒後というか。非コントロール的なのだ。

 

<なりすまし>はコントロール。能動的被駆動性。西洋的意志。

【なりすまし】は非コントロール。受動的主体性。東洋的受動。(荘子

 

そう、瞑想だ。

瞑想においても、自分をコントロールしようとするのが<なりすまし>。

一方、あらゆる環境の結果「自然に(「無理に(不自然に)自然にする」ことではない。上記の「何も考えない」と似た構造)」生み出された身体・感情・感覚の反応を「コントロールしようとせず」「ただ観察する」のが本当の瞑想(空観)。更にもうひと手間加えて、その反応に「敢えて」【なりすます】のが【なりすまし】(中観)。「自然に」生み出されたものであるから、【なりすまし】ても負担はない。しかし、「敢えて」それに【なりすます】、つまりその演技を自覚するというのか・・・これが「主体性」に繋がる。

ちなみに、【なりすまし】が無いのが、現実世界をマジガチで生きてしまうことだ。(仮観をマジガチだと思ってしまうこと)

 

自分を使って実験し、<なりすまし>は負担を強いることは実証済みだ。一方【なりすまし】の実験期間に入っているが、既に効果はある。

効果はある、つまり、【なりすまし】は(メタ的な意味で)楽しいし(主体性は楽しいのだ)、また、(メタ的な意味で)生き抜けるのだ。

メタ的なので別に見た目てきに楽しそうだったり、生き抜けているように見えるわけではない。

むしろ、顔をしかめて苦しんでいても、失敗失態まみれの人生でも、その自分に【なりすまし】て自分に酔ってる人っているでしょ。あれに近い。

感情などというものは、ある意味所詮娯楽である。【なりすまし】て楽しむものなのだ。だから、人はわざわざ金を払って映画館に足を運び涙を流してすっきりしたりしているではないか。あれに近い。

 

だから、病人は病人に【なりすま】せばいい。ひきこもりはひきこもりに、犯罪者は犯罪者に【なりすま】せばいい。

その方がスッと抜け出すのだ。まーこの時にはもう抜け出す必要もあまり無くなっているのだが。

金持ちなら金持ちに、リア充ならリア充に【なりすま】せば良い。

そうすると傲りが原因で落ちぶれるということが起こりにくいのだ。まーこの時にはもう落ちぶれるのを避ける理由もあまり無くなっているのだが。

 

まー【なりすまし】の境地はグラデーションだ。大体の方向性は分かっているのだから、あとはのんびりやればいいのだ。