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【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】。これはトラウマティックな体験を基盤とする。「過去」のトラウマ体験と「現在」の認知の歪み、その認知の歪みによって現出する地獄は、地続きである。
トラウマティックな体験の有無。悲惨さの強弱。
【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】は、トラウマ体験がない、もしくは体験の悲惨度が弱い一般人には持ちえないものである。
この悲惨なトラウマ体験ゆえの社会に対する妄想的な眼差しは、現実社会で生きていく上で障害にしかならないものなのか。そうではない状況が現出しつつある。つまり、社会も人々も錯乱を始めた時代においては、これを持っている者も(者こそ?)生き抜けると言えよう。いや、いつの時代もこの種の人間は、このように生き抜いてきたのではないか。
錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が生き残る、という逆説。
錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が唯一まともさを保ち得るという逆説。
まあ、あくまで可能性。
このような人間はどのように生き抜くか?<なりすまし>である。なりすますことによってである。
<なりすまし>(宮台真司)≒<仮観>(苫米地英人)≒<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)≒運命愛(ニーチェ)
これら四つは、例えばその規模や次元において異なるが、その構造はほぼ同一である。例えば、細胞の構造を人体の構造として見做すことができたり、宇宙の構造として見做すことができたり、逆に極小世界としての素粒子の世界の構造として見做すことができるのと同様にである。
宮台真司の<なりすまし>は誤解を呼ぶ。その本質が能動的であるかのような勘違いを惹起する。本来、その本質は受動性である。更に、<なりすまし>は「俗に言う」通過儀礼によって得られるものなので、それを経験できない人間はその恩恵に預かることができない。宮台の誤謬を補填する、もしくは宮台の誤謬を中和するカウンターパートとして働くのが、<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)である。
ここでいう受動性とは何か。<なりすまし>の役柄を自ら選ぶことをしないということである。更に、<なりすまし>の役柄を自ら選ぶという能動性すら、受動性であると見切ることである。いや、これはそもそも事実ですらある。
<仏から与えられた役柄>は、その名の通り、受動的なものである。
この意味での【なりすまし】(自分)を実践すれば、神経症(ラカン)が治まる。
思想的な実践は今この瞬間から可能であり、その実践の瞬間から実践(実験)結果が得られる。【なりすまし】が効果的なのは実証済みだ。<なりすまし>(宮台)は、強者の論理であって、トラウマ経験者などの弱者には実践可能性が低いことが多い。
①【なりすまし】を支えるのは【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】であり、②【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を支えるのは、悲惨なトラウマ体験である。
ここからは、【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を【妄想】と呼ぶ。
②に関して、なぜ悲惨なトラウマ体験が【妄想】を支えるのか。これは、問いを対偶にすると分かりやすい。つまり、なぜ悲惨なトラウマ体験がないと【妄想】が生まれないのか。
簡単である。悲惨なトラウマ体験がなければ、強迫的に妄想する理由がなく、妄想が強固なものになる(そして、妄想が【妄想】になる)理由がないからである。トラウマティックな現実からの逃避として、あるいは自身のトラウマティックな現実と平和に回っている社会との落差における認知的整合化のために為されるのが妄想である。そして、妄想を繰り返すことによって、磨き上げられたそれは【妄想】へと昇格するのだ。
そして、①に関わるが、【妄想】は所詮手段でしかあり得ない。②は①の準備段階である。
①を実践するにも、つまり、【なりすます】にも強固な地盤が必要なのである。他に強力な、揺るがぬ世界観(【妄想】)があるからこそ、【なりすまし】は可能となるのだ。子供たちが、家庭という強固な地盤があるからこそ、学校や諸々の活動での友人関係を築けるように。
【妄想】は各種精神障害と親和性が高い。統合失調症をうまく利用すれば、【妄想】の世界にもう一人の仲間、しかも絶対的な味方を作り出すことができる。(映画『BIG DRIVER』、漫画・映画『ヒメアノ~ル』)
以下、認知障害、人格障害、発達障害、精神障害、【なりすまし】・【妄想】モチーフなどに主に関連する(ある種の人間が生き抜くのに利用できるであろう)映画・アニメを列記する。
映画
『on the high way』
『ノーカントリー』(アントン・シガー)
『アンダーザスキン』
『チェンジリング』
『BIG DRIVER』
『メメント』
『キャストアウェイ』
『CURE』
『甘い鞭』
『蛇イチゴ』(明智周治)
『EUREKA』
『ハサミ男』
『ヒメアノ~ル』(森田正一)
『この世界の片隅に』(すずさん)
『紀子の食卓』
アニメ
『バッカーノ』(クレア・スタンフィールド)
『darker than black』(黒(ヘイ))
漫画
『MONSTER』(天馬賢三、ヨハン・リーベルト、ヴォルフガング・グリマー)
『鋼の錬金術師』(ヴァン・ホーエンハイム、キング・ブラッドレイ、ゾルフ・J・キンブリー、傷の男(スカー)、フラスコの中の小人(ホムンクルス))
『ヒメアノ~ル』(森田正一)
『ホムンクルス』
本
・『オープンハート』
・宮台真司、苫米地英人、ひろさちや、伊田広行、坂口恭平、中島義道、仏教系 などの著書
その他
・100de名著 ニーチェ「ツァラトゥストラ」、道元「正法眼蔵」、カフカ「変身」、サルトル「嘔吐」、「荘子」、パスカル「パンセ」など
まー挙げだしたらキリが無い。
ところで、一般的に得られる通過儀礼の体験は、トラウマ体験者にとって得難いものだろうか。全く逆なのだ。トラウマ体験者にとっては、一般的な通過儀礼など、子供騙しに過ぎないレベルのものである。悲惨なトラウマは、その体験の濃密さからしても、それが社会的にブラックボックス化・タブー化されてしまうことによって生じる変性意識状態という意味においても、修羅場としてのレベルが違う。
よく、修羅場を「量」で測る人々が存在する。違う。修羅場の物差しは「量」ではなく「質」である。100回の中途半端な修羅場の体験は人生をさほど変えないが、1回の濃密な修羅場の体験は人生を変える。
もちろん、トラウマも体験すれば良いというものではない。それをサバイバル力に変えるには、それなりに考えなければならないし、精神や肉体の頑健さも必要かもしれない。本質的な思考を放棄してしまっては、どうにもならない。
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まとめ と 補足
・悲惨なトラウマ体験によって支えられた【妄想】によって支えられた【なりすまし】によって生き抜く、という方法がある。(万人向けではない。ごく少数者向け。)
・【なりすまし】は受動的なものである。あくまでそれは<世界>から与えられた役柄に自己を投影する形となる。その本質は自我の喪失である。それは、能動性ならぬ主体性を帯びる。受動性と相反するように見えて、これが実際に起こる。【妄想】によって支えられた【なりすまし】があれば、大丈夫である。
・もちろん、【なりすまし】は生きる上での一つの杖に過ぎず、他にも様々な杖を人間は使い分けて生きていく。だが、それすらも【なりすまし】と言える。(再帰性。【なりすまし】の次元の多重性。)この記事で述べたような人は、人と比べその杖が大量に必要であるというだけの話だ。杖が多い分歩くには不利だ。しかし、緊急時には杖が多い分強いかもしれない。
・【なりすまし】た世界における細々としたサバイバル技術は、【なりすまし】
ているからこそ、強迫神経症的に捉われずに習得できる。
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いま、つとに思うこと、それは、幸せになるための方法論は、人間の本能に根差していないので薄弱なものに堕してしまいやすいということだ。
その思考が強力なものとなるのは、それが「生き残るためのもの」であるときだ。
そうであるとしても、頭の中にあるものを言語化すると、何と陳腐に感じられることだろう。
めんどくさいから分かり易さを犠牲にしたら、何て脈絡のない文章なのだろう。まー自分のための備忘録であるから。
さて、のんびりと生きていこう。