東北食べる通信

友人に誘われて、掲題の講演を見に行ってきた。

前知識を敢えて入れずに行ったので、どんな話をするんだろうと思って臨んだ。

結論から言えば、行ってすごく良かったと思う。

 

まず、講演の内容が良かった。最近の僕の問題意識と完全に合致する。自分の身体性をどんどんと忘れていき(この間山で熱中症にかかったのも、これが原因の一部である気がする)、生ける屍のようになってきていること。僕だけでなく、全体的にそういう傾向であること。「生きている実感」が乏しい事。

現代の大量消費社会では、安い、早い、分かりやすい(一言で言え!)ということばかり重視される。そして、マーケットはそのニーズにどんどん答える。甘やかされた消費者は、何でも「思い通り」にならないと気が済まなくなってくる。そして、その思い通りを満たすために、更にマーケットに依存し、マーケットはその期待に更に応え、すると消費者は更に甘やかされ・・・という無限ループ。

これ、僕も感じている。仕事を休めば、自分は回復すると思っていた。しかし、そうではなかった。「生きている実感」が足りないのだ。それを埋め合わせるために、マーケットに依存する。その悪循環は、今、示した通りだ。

僕が特に反応した言葉は、「思い通り」という言葉だ。生きている実感がなく、マーケットに依存する。しかし、マーケットが本当の生きている実感を代替できるわけはないので、どこまでいっても満足がなく、マーケットに求めるものも際限がなくなる。つまり、マーケットに「思い通り」を求める。これが、僕の場合、人生全般に起こってしまっているような気がする。人生の中の思い通りにならない全てのことから、逃げようとしているのだ。そして、逃げようと思って逃げられるわけではなく、仕事を辞めてしばらくの間の万能感のようなものは消え、今は些細な「思い通りにならなさ」への免疫すら失われつつある気がする。

 

人間関係は自然と似て、「思い通り」にならない。僕には今、思い通りにならない、泥臭い人間関係というものが希薄だ。会社を休職してほとんど一人でいて、しばらく天国のような気分だったが、これは、苦しみが取り除かれた時の、名づけるなら「消極的幸福感」であって、自分の力で何かをしたり、人間関係を築き上げたりすることによって得られる「積極的幸福感」とは違う。

消極的幸福感は、薄れるのが早い。そして、会社を休んでしばらく経った今、気づきつつある。「自分には(積極的幸福感が)ほとんど何もない」と。会社にいたときはその「辛さ」によって、会社を休んでしばらくの間は「消極的幸福感」によって、覆い隠されていた「生きている実感、積極的幸福感の乏しさ」が、そろそろその姿を表し始めているように感じる。

積極的幸福感は、「思い通り」の世界とは違う。思い通りにならないことばかりだろう。しかし、今日の講演者(高橋博之さん)は、まさしく、思い通りにならない世界で、積極的幸福感を得ている人だ。彼は、農業とそれに携わる(内発的に、積極的幸福感を満たすような形で携わる)人々たちとの仕事の中で、積極的幸福感を得ている。自分も何らかの形で、この積極的幸福感を得たい。(ちなみに、積極的幸福感は、バブル期の日本を覆っていたような「ふわふわした幸せ感」とは違う。このふわふわした幸せ感はどちらかというと、「思い通り」を追及するものであり、どちらかというと消極的幸福感に近いと思う。)

 

高橋さんは提案していた。「農家になれ!漁師になれ!とは言いません。ただ、都市の中でも自然と接続する回路を持つのが大事です。」都会の便利さの中で失われた自然との回路を復活させることによって、生きている実感を取り戻し、自然という思い通りにならないものを取り戻す。

積極的幸福感を得る方法はこれだけではないが、僕もそうしたいと思った。だから、農業体験や漁師体験をしたいと思った。その前段階として、今日の懇親会には参加しておけばよかったと、今更ながら後悔している。

 

なぜ帰ってしまったのか?やはり、ここにも「思い通り」に慣れた人間の問題がある。思い通りに慣れた人間は、予定調和の世界に生きている。だから、ああいう、「自分で話しかけていかなければならず、しかもそれがうまくいくかも分からないし、どうなるかも分からない」という世界が苦手なのだ。

町起こし隊をしている男の子の話を聞きたかった。しかし、彼と話したり、他の人たちの談笑する中で、「何もない」自分は何を話せばいいのだろう。居場所がなくならないだろうか。そもそも、彼は誰かのために何かをしたいという「利他的内発性」に突き動かされて行動している。高橋さんもそうだ。それに対して自分は、自分一人の生というものに汲汲としている。明らかに、会話のバランスが取れなくなると予想してしまった。

頭の中には、利他性、ある種の積極性、自然、良き人間関係、身体性、などについての知識、またその重要性に関する情報が結構いっぱい詰まっている。しかし、頭の中だけの話であって、全く行動できていない。一言でいえば、行動している人たちを前に「引け目」を感じてしまったのだ。こういう風に感じる人は、基本的にあのような場にいられない。その意味で、あの場に残れるかどうかということが、そのまま、あの場にいてよいかどうかの最低足きりラインになっているように思う。

 

しかし、今になって思う。無理に話そうとする必要などなかったのだ。その場にいて、とにかく話を聞かせてもらうだけでも良かったと思う。カウンセラーの高石宏輔さんは「情報は、上からしか流してはいけない。下から流してはいけない。」と言っていた。この「上」「下」というのは、様々な意味での「レベル」の上下のことだろう。つまり、師匠に対して弟子が喋る必要は、(促されない限り)ない。できるのは、ただ話を聞き、その佇まいやオーラや話すことを吸収することだけだ。下から無理矢理上に流しても、戻ってくるだけだ。

僕も、その場にいて、とにかくいろいろな話を聞いていけばよかったのだ。質問と回答だけでも会話は成り立つ。何もない(「下」の)僕自身のことを話す必要など、ないのだ。

そういうある種の謙虚さを持って臨み、何か「これを話してみようかな」ということが浮かべば、その時初めて話せばいいのだ。多分、それが「良い会話」というものの一つだ。急かされて話すものではない。

 

今度このような場面に遭遇した時は、まず「一度立ち止まる」ことが必要だろうと思う。そしてやはり、このブログで何度も述べたように「観察する」のだ。自分の気持ちや行動を観察し、気づく。それにより、自然に体は最適な行動を起こす(もちろん、時には「えいっ」と飛び込んでみることも必要だろうが)。

 

講演の内容だけでなく、利他的なパワーを持つ人たちを間近に見ることによって出てきたこのような問題意識も、今日得ることができた重要なものだった。

 

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ここから、少し上記の自分の書いたことへのカウンターパートを。

実際には、今見た自分の問題は、自分の中の原因だけではない。つまり、今、会社に属している自分であり、24日からもう会社にいくべきかどうか迷っている自分である、という自意識が、様々な行動にブレーキをかけているところもある。休むならば、また手続きも必要であり、農業体験や漁業体験などの遠出が制限されるかもしれない。現に働いている人は、もっとそうなのではないか。(もちろん、これも自分で乗り越えるべき問題であり、それを乗り越えられない自分の心に問題を帰属させることもできるが。)

つまり、僭越ながら食べる通信にお願いしたいのは、もっと「体験」の機会、もしくは情報を提供していただけるとありがたい、ということだ。高橋さんは、「共感と参加」ということを仰っていたが、あの場にいるくらいなのだから、ほとんどの人は共感はしているのではないか。後は、会社で働きながらも土日を使って、パッと体験する場が必要だと思う。

もちろん、これは僕の「甘え」であると言われればそれまでなのだが、正直言って、雑誌を買おうとは思えなかった。それよりも「体験」がしたいのだ。雑誌での「共感」があって「体験」に目が向かうのではなく、強烈な「体験」を通して意識が変わり、「共感」に繋がり、購読に至る、というほうが、人の気持ちの変化としては現実的である気がする。

体験にはコストがかかるからかもしれない。しかし、こちらとしては、雑誌よりも体験にお金を出したいと思った。