ものぐさ精神分析

を読み終わった。友人から借りていたもの。彼がブログで書いていた通り、とてつもなくおもしろかった。

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結構同じテーマを繰り返している部分もあるが、逆にそれが理解を助けてくれた。

繰り返しがあるといっても、テーマは多岐に渡り、その全てを記憶しているわけではないが、一番目から鱗が落ちた内容を短く言葉にしておく。ただし、間違っているところもあると思う。

 

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動物は本能が現実に適合している。人間は本能と現実にずれがある。

この違いは、動物は生後間もなく現実に適応するのに対し、人間は現実に適応するまでに時間がかかるからだ。人間は生まれてすぐに現実に放り出されても生きていけない。よって、生まれてからかなり長い間、現実に触れず、母親の胎内にいたときに近い、全知全能の世界を生きる。この全知全能の世界をセットアップするのが、家族、特に母親の役目だ。

しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかないので、少しずつ現実に直面していく。もしくは、母親が赤ちゃんに、現実への適応を促す。ここで、人間のフラストレーションが生まれる。人間は、全知全能の状態を知っているのに、大人になるともう、それは永久に失われてしまう。それを取り戻そうとして、恋愛や芸術などにその世界の成就を夢見る。しかし、それは幻想なので、ことごとく失敗する。

動物の本能は現実に適合しているので、必要以上のものを欲望しない。人間は本能が現実に適合していない奇形児なので、際限なく求める。この点において、人間は地球上の異端である。

つまり、人間は「病気」なのだ。ある意味、人間は他の動物に比べて優れているのではなく、上記の点で異常に劣っているからこそ、それを埋め合わせるために、異常に強くなってしまったとも言える。(そう考えると、いつ、強いが弱い、弱いが強いに、長所が短所、短所が長所に転換するか、分かったものじゃないですね)

人間は、特定の状況などの外的要因によって、精神病に陥るのではない。もともと生まれた時から精神病なのだ。それを何とか和らげるために「文化」が作られたのだ。

 

幼児期の全知全能の世界での「私的幻想」を各々が好き勝手に表出していては、社会は維持できない。社会的生物で、一人ひとりは非常に弱い人間にとって、それは死を意味する。そこで仕方なく、人間は、それぞれの私的幻想の一部を満たす「共同幻想」を作り上げた。しかし、共同幻想に吸い上げられなかった分の私的幻想が残る。これが「エス」になる。共同幻想の方は「自我」になる。しかし、エスは抑圧されているだけで、消えはしない。エスの表出としての芸術などが必要になる。

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書きだしたらきりがないので、このあたりにしておくが、明治維新によって日本人のエスが抑圧されたとか、だから日本人はみな分裂症気味だとか、他にも目から鱗はいっぱいあった。

 

僕としては、「受苦的疎外論」やハイデガーの「ここ」と「ここではないどこか」や「どこかにいけそうでどこにも行けない」や「<世界>と<社会>と<なりすまし>」、「空観、仮観、中観」などなど、色んな概念と響き合う内容だ。自分が「賢い人たちによると、世界ってこういうところなんじゃないの?」って思ってる世界観に、また一つ論拠が与えられたような気分だ。

 

安心したのは、人生において苦しんでいるのは僕だけではないこと。僕は「僕が僕だから」苦しんでいるのではなく、「僕が人間だから」苦しんでいるのだ、きっと。そう考えると、みんな五十歩百歩である。今自分が苦しんでいることがとんでもないことのように考えがちであるが、そもそもどんな人生でも苦しみがインストールされている(仏教一切皆苦と響き合いますね)のであって、そのような、ある意味「生ぬるい地獄」をみんな生きているのであって、自分も皆も大差はないように思える。この達観を常に持ちつつ、虚無主義に陥らなければ一番いいな。

しかし、僕が周りと一つ違うと思うのは、僕の場合は、苦しみの軌跡がはっきり分かってしまうこと。履歴書にはっきりと記載できてしまうような迷いの人生であることだ。この点において、やっぱり自分は一般的ではない気がする。

 

この点において、僕はいつも以下の記事を思い出すのだ。

↓映画評:クリント・イーストウッド監督『チェンジリング

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。 

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=734

 

ソクラテス的な<遅れ>が帰結する批判

(3ページ目)宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

僕も、自分が<遅れ>ていると感じるのだ。昔からずっと。