塚本晋也監督「野火」

を見た。2回目だ。一回目は映画館で。

 

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今から一年前だが、映画館を出てからも、しばらくショック状態だった。

今回はDVDなので、やはり当時ほどの臨場感は無かったが、それでも衝撃的な内容だ。

 

塚本監督は、戦後70年ということで、もう戦争を語れる世代がいなくなってしまうと危惧し、無理矢理製作費を捻出して、この映画を作ったそうだ。その意気込みだけあって、手加減は無く、映像や描写は容赦ないものだった。

 

映画館では、始まってしばらくすると、もう自分の現実の規範意識は薄らいでいた。兵士の疲弊しきった様子や状況の悲惨さから、リアルに映画世界に連れ込まれる。彼らの目に光は無い。ただただ諦めている。人間らしい理性は吹き飛び、ただただ本能の奴隷となっている状態。

それを見て、自分も兵士を追体験させられる。追体験してしまうと、「ああ、こりゃ駄目だ。この状況なら自分も確実に狂ってしまうだろう。人間性を失うだろう」と分かってしまう。それがショックだったのだ。自分の嫌な面、業の深い面を見せられるのだ。

 

更に映画が進み、更に悲惨さが増すと、もはやショックすら感じなくなってくる。「慣れる」のだ。兵士たちも状況に慣れ、人間でなくなっていくのだなあ、と思った。

「人間性なんて簡単に潰せる。お前だって状況によっては簡単に本能だけの獣に変えられるんだ」と言われ「はい、その通りです」と認めざるを得ないような迫力がある。

 

これを見ると、V.E.フランクルの「夜と霧」のような状況下で、人間性を保ち続けることがいかに難しいかが分かる。ほとんど超人的な意志の強さを持っているのではないか。

 

とにかく、見終わった後に、今の平和な社会に感謝した。そして、このような平和の状況で嘆いてばかりいるのは、全くお門違いだと思い至った。

今の社会に、実質的に死の危険はほとんどゼロだ。それなのに何を自分は焦っているのか。餓死もしないし、ほとんど殺されもしない。雨風しのぐ屋根があり、腹いっぱい食べられる。

不安や恐怖を感じる理由などないにも関わらず、感じてしまう。これは、苫米地英人によれば、人類にとって長らく続いた危険な時代には、不安や恐怖がないと死んでいたからだという。現代日本のような安全な社会こそ、例外中の例外なのだ。

でも、今度は、その生きのびるために必要だった不安や恐怖が、人を自殺にまで追い込むのだから皮肉なものだ。苫米地は、不安や恐怖は脳の海馬と偏桃体によって無駄に増幅されていると言う。そこに前頭前野を介入させると、不安や恐怖はやわらぐと。

前頭前野を介入させるとは、理性を働かせることだ。つまり、物事をもっと客観的に、ドライに、現象として捉えること。現代日本における不安や恐怖など、「野火」の世界に比べれば、実はまやかしでしかないのだから、不安や恐怖は消して消し過ぎることはほとんどない。前頭前野を鍛え、どんどん消していこうと思った。

 

そのためのメソッドは苫米地の本から学べるので、ありがたいことだ。

 

そう考えると、映画の見方にもバリエーションが出てくる。

1、映画の世界やそれが醸し出す感情にどっぷり浸かる(感性を鍛える)。

2、映画の世界に入りつつも、前頭前野的思考によって、客観性と冷静さを保つ(冷静さや理性を鍛える)

2は、レジリエンスを鍛えることとも関係がありそう。

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