機序

今回のポジティブな結果の作用機序はどのようなものだったか。

 

まず、僕のブリーフシステム、RASと言っても良いが、それはネガティブなものだ。これは、フィルタリング機能のようなもので、あらゆる情報の中から特定の情報、僕の場合自分に不利になるような情報だけを取り込んでしまうという特性だ。

 

つまり、主観的には、世界は不穏に満ち溢れ、景色は灰色に歪み、世界はネガティブな情報のみを自分に対して送ってきているように感じる。そして、この世界観に「No」を突きつけるのが、例の「否定」なのだろう。

 

―×―=+

という作用機序だ。

 

もちろん、僕のブリーフシステムやRASが完全にネガティブなものならば、完全にポジティブな方法だが、そうではないので、ネガティブが残る。+×-=-の部分もあるのだ。


ところで面白い記事がある

http://karapaia.com/archives/52237669.html


たしかに自分の周りを見ても、トラウマティックな環境で育っていたり、家が貧乏だったりするひとのほうが頭がいい印象がある。

ただ自分に当てはまるかどうかというと、「?」がつく部分もある。

効果

自分や自分の行動、考え方、感情などを否定するような全ての情報を逆に無限回廊的に否定し返す、という方法

 

早くも効果が表れている。劇薬なのではないかというくらい。

 

明らかに思考の方向性が変わった(前にもこんなこと書いてたな)。

 

自分で考えだした概念(作法、思考方向)が、明らかに自分の行動やエフィカシーを変えた。もちろん、特にメタでない現実世界では、一過性のものである可能性も高い。

 

なぜだろう。否定というネガティブな方法が、ポジティブな結果を生み出している。

考えられる原因は、自分の今までのエートスみたいな根深いものに影響を与えているからではないか。僕のエートスは破滅的で暗いネガティブなものだったということだ。ここ最近の生活、そして映画などの影響もある。絶望的なものばかり見ていて(レクイエムフォードリームなどなど。もう目を背けたくなる)、エートスのネガティブ性に拍車がかかっていたのだろう。

自分のエートスがネガティブであるという、そのことにさえ気付かなかった。というか、今獲得した視点から見ての話だが。

ネガティブとネガティブをかけるとポジティブになったというイメージがある。

-×-=+ というか。

そういう意味で、もともとポジティブなエートスを獲得している人には、この方法は合わないかもしれない。分からないけど。僕にしても、この方法は受容性を得るための一つの方法であり、必要に応じて捨てていく方法だろう。でも、今はそれよりもこの思考方向を忘れないことの方が大事かな。

 

何回か前の記事で書いた「突然変異」とも呼べるかもしれない。概念の発明と、それのインセプトによる突然変異。でも、これまでが破滅的かつネガティブすぎたので、解毒には時間を要すると思うが。だって、書いてる鼻から不安感が頭をもたげてきてるし。

 

それで良いんだ。揺らいでて良い。主に会社のことと、これからの自分の生活・人生に関することで、超絶ネガティブになっていた(本当にそうなっている時は、そのことに気付くことすらできない)。

また揺らぐだろう。

でも、それでもいいと、「今思えていること」が大事なのだ。そして、それは未来に繋がっていく。

 

今まで目にし、聞き、出会って僕の思考や人生の深淵への洞察を賦活してくれた全てのものは洗脳でもあった。しかし、「ある種の」脱洗脳のために必要な洗脳だった。それらに感謝。そして、それは洗脳であってもなお、今でも僕を支えている。その洗脳を前よりは自由に選び取れるようになったということもある。これこそが僕なりの脱洗脳だと言っても良い。本記事一行目の方法、この劇薬がそれを可能にした。

もうネガティブを赦す。僕は、ネガティブを恐れるという状況を恐れていたのだ。

つまり、逆説的に、ネガティブになっていいしネガティブを恐れていいんだよ、と思えたことが、ポジティブなことなのだ。

 

さあどうなるか。

受容性

今まで受動性という言葉で記してきたが、受容性という言葉に置き換えても良いように思う。

何でも受け入れる。この一言に尽きるのだが、何でも受け入れるというこの言葉が、この言葉だけだと、読み返す時に非常に勘違いしやすいので、長々とした説明記録が必要だ。

 

もちろん、僕の言う受容性も、一般的に言うそれとはかなり違う。受容性というと、なんでも受け入れてくれる優しいイメージ、って思うかもしれないけど、そうでもない。

というか、それは、一般的にいう受容性のイメージの方が間違っている。受容という言葉の本義、もしくは「何でも受け入れる」という言葉の本義に立ち返ると、全然違う。だって、何でも受け入れるって言ったときに、既に、何でも受け入れないような性質・排除性などを、それこそ「受容して」いない(排除的)のだから。だから、これも言語的には矛盾というか無限回廊にならざるを得ない。でも、人々は、この言葉の上澄みだけを見て、自分の都合の良い解釈をする。まあ精神が揺らいでしまう間は、そのことを否定はしないけど。

このようなことを含めて把握しない限り、やはり一般的に言う「受容性」とか「何でも受け入れる」という言葉・イメージにも、バイアス、もっと言えば洗脳が潜んでいる。まあ、これは、どの言葉でもそうだし、人間に対する洗脳が、どれだけ深いところまで達してしまっているか、ということも示す。

 

これらの言葉の説明は、基本的に、今までさんざん書いてきた無限回廊的な説明になるので省く。自分の頭の中では、もうこの思考方向には慣れてきた。

 

とにかく、特に僕のような人間は、どれだけ洗脳されてきたことか。いや、気づいてるだけマシか。ほとんどは、気づきすらしない。なんか傲慢な物言いになっちゃってるけど、まあ気にしないでおこう。本質を見失わないように必死で、そんなこと気にしてる余裕はない。

 

これも無限回廊だから記録は省くが、あらゆる洗脳が洗脳であり、洗脳でない、というか洗脳を洗脳のまま洗脳でなくすことができる。

 

これを実践するのに、とにかく受容する、という方向があるが、まだまだ深い洗脳状態に陥っている僕には、荒療治として、他の方法も併用するといいかも。

つまり、自分や自分の行動、考え方、感情などを否定するような全ての情報を逆に無限回廊的に否定し返す、という方法だ。人の言うことなんて完全に無視していいのだ(しかしそれは無限回廊的に無視ではないのだ)、と以前の記事で書いたが、これと関連する。色んな本とかで受容性の大事さが語られているが、このような方法はお目にかかったことが無い。だから、これは自分で思いついたというか、降ってきた方法だが、かなり効果のあるというか、本質に働きかける方法というか作法だという、結構深い確信がある。

 

空手などの武道で言う「型」。最終目標は型からも抜け出すことだけど、そのためには一度型を徹底することを通過しなければならない。不自由を経由しての自由。まあ上記の洗脳の場合、徹底まではいかなくていいかもだけど。

上記の場合も、受容に至るために非受容(否定)を経由する、という感じ。こういう矛盾や無限回廊があるから記録が煩瑣になるんだよな。

 

自分や自分の行動、考え方、感情などを否定する情報を何でもかんでも否定する。否定しつくす。外部からのあらゆる情報を否定する。否定の炎で焼き尽くす。これは、外部からの洗脳情報を跳ね返す、ということだ。ただ、否定すると言っても、これも無限回廊ね(否定に肯定が内包される)。その意味で、ことごとく矛盾的に無限回廊的に洗脳を跳ね返す。

また、行動、考え方、感情の中で、特に重視すべきは「感情」だ(これも無限回廊ね)。感情が、もっとも自分に影響を及ぼすもの、深い所のもの、純粋なもの、洗脳を受けていないもの、だからだ。次に考え方、行動、とくる。まあ結局全部だけど、とにかく自分に反するものを全て否定する。そして驚くべきことに、そこを通って逆説的に、本当の意味での受容に至ることができる(と思う)。

 

このことに気付くまでに、何と時間がかかっただろうか。そして、この視点から過去の自分を振り返ると、何と不自由だっただろうか。傍から見れば過去の自分の方が自由に見えるかもしれないけど。メタだからね。

 

 

ふう、結局、「とにかく自分を否定するものを悉く否定する」という作法、文章一行を記録しておきたかっただけなのに、なんと多くの説明記録が必要なことか。

よく、物事はシンプルだと言われるが、それは見かけ上の話で、裏ではとんでもなく複雑怪奇なものが潜んでいる。この世界についても、シンプルに単純に見たがる人が多いと思う。その方が楽だし、精神的にも安定するからね。でもその基盤が崩れた時どうすんだろ。これまでもそうだっただろうが、特にこれからの時代は、個々がどこまで考えを突き詰め、自分のオリジナルの強固な基盤を作ったかが試される時代なのに。あらゆる常識、あらゆる寄る辺、あらゆる基盤が崩れていくのだから。世界は全然シンプルじゃない。複雑怪奇のカオスです。

 

ところで、言葉とは、物事を固定する作用がある。だけど、世界というものは常に揺らぎ変化している。世界を記述するのに言葉を使う、ということに、そもそも無理があるのだ。でも他に有力な方法がないから、仕方なく使っているのだ。だから正確な言語記述は無限回廊にならざるを得ない。

しかも、数学で言うと、割り算で、同じ数字がずーっと続くというのがありますね。5.164164164164164164・・・というふうに。これならまだ言語化できてマシなのだが、無限回廊は円周率なんだ。3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・と、ランダムで、つまりカオスなんだ。

 

世界構造もこれと似ている。だから概念言語的には無限回廊という言葉で表現するしかない。

つまり、

(複雑怪奇な)世界構造←→3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971 6939937510 5820974944 5923078164 0628620899 8628034825 3421170679 8214808651 3282306647 0938446095 5058223172 5359408128 4811174502 8410270193 8521105559 6446229489 5493038196・・・

無限回廊」という概念←→「円周率」という概念

数学言語←→言語

という感じの対応関係。

 

ところで、こういう思想は、仏教や特に空観、中観やデリダ脱構築と、非常に親和性が高いだろう。やはり、個々の人がそれぞれ、本当に惹かれるというか吸い寄せられるものというのは、意味があるんだな。

 

やはり、fate/zeroのあの言葉が思い浮かぶ。

自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?

 

続き

・①洗脳に気付いているのに洗脳から抜け出せない、②洗脳に気付いていない、③洗脳に気付いて洗脳から抜け出せている(ある意味、抜け出せないと悟っている)の順番に、辛さが減っていく。

奴隷意識で考えると分かり易い。奴隷であることに気付いているのに奴隷から抜け出せないのが一番つらい。奴隷であることに気付いていないのが次に辛い。奴隷であることに気付いて奴隷から抜け出している(ある意味、奴隷から抜け出せないと悟っている)のが一番マシ。

 

・洗脳や奴隷という言葉を虚無、抑圧という言葉に置き換えても同じ。

 

・自分は、一番辛い状態だった。つまり①だった。だからこそ、洗脳も奴隷意識も虚無も抑圧も人一倍強かった。でも、だからこそ抜け出せたと言える(③)。いや、抜け出すところまでは行ってない。「気付いた」レベル(③´)。でも、この一つ前の記事でも書いたように、③´でメタ的完成系とも言える。

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)とPTG(Post Traumatic Growth)の両方。表裏一体性。学習性無力感と楽天性の表裏一体性と似る。

www.positivepsych.jp

→過剰。共同幻想で吸い取れなかった個々の部分。孤独だが根源。

自分の特殊性はそれに向き合わざるを得ないところ。メタ根源

 

a)多分、強さ的にも、③、③´、②、①、の順に強い(「『全て』変数」によって変わるが、傾向として)

 

・万人に対する万人の闘争は駄目と言われているが、違う。なぜなら、それ自体が一つの思想であり洗脳でもあり、かつ思想でも洗脳でもない。本当のぶつかり合いは、それにも気づいた③や③´の人たちのぶつかり合い→これこそ「人の業」だが、これこそ素晴らしい良い事。ここから「本物の」物語、「本物の」ドラマが生まれることが多い。

・洗脳(非洗脳でもあるが)はだめ!も違う。なぜなら、それ自体が洗脳

・そして、「全て」が何を選ぶのか。

 

・なぜ、ドラマ「リバース」に惹かれたか。よく見れば、このドラマは③や③´の人たちのぶつかり合いだから。いや、気づいたからそう見ることができるだけで、あらゆる「本当の」ドラマ・物語、あらゆる「本当の」歴史がこれ。

・これに気付けば、各人独立しており、個々の思惑を持っており、一枚岩なんてことはあり得ないことに気付く。しかし、現在は資本主義の一枚岩になっているように見える。しかし、③や③´の人々は、違う。資本主義に洗脳されながら洗脳されてない。気づいた人々。

自分で言えば、会社の人間もそう。一枚岩であり一枚岩でない。①②③③´という意味でも一枚岩ではないし、③や③´もそれぞれ一枚岩ではない。

・①②は素朴に洗脳・去勢されてる。

→a)だから、③や③´が勝つ傾向(あくまで傾向。だからこそ「全て」は面白いという面も)。

 

・自分はたまに③´がある程度。③に気付けた。近づけたいという意志自体で完成系。あとは時系列的これからを見ていくのが楽しみ。自分の特殊性を挙げるなら、洗脳も奴隷意識も虚無も抑圧も先天的にも環境的にも人一倍強かったからこそ、反動で③´に行けた。(「この私」の根源?かつ、「この私」は存在して存在しないと分かっている「(この)私」)

自分みたいな一般的に言う弱者が生き残る可能性?この意味での他の弱者も。(①から③´や③へのリバース)これからはそれが試される傾向が顕著に。特別な時代に差し掛かっている。やはり世界は変転し、過去を参照できず、輪廻性を包み込む一回性。そのダイナミズムが面白い「全て」が何を選ぶのか。

 

・もともと皆③や③´だった。→必然的に①②になっちゃう。特に現代は(資本主義と拝金主義、平和ボケ、思考体力の喪失など、だが偶発性によって)。→③や③´だからこそぶつかるが、③や③´だからこそ認め合え助け合える

・①②は自信喪失。今は資本主義と拝金主義、平和ボケ、思考体力の喪失など、だが偶発性によって特に多い。ある意味それにより、「悪い意味での(良い意味でのも少し?)」万人の万人に対する闘争が防がれている。→しかし、徐々に奴隷世界に。

→でも③と③’は比較的生き残る。

 

自分の今まで親しんできた世界観を構築するのにお世話になった思想、人物ですら洗脳であり洗脳でない(伊田先生:主流秩序・拝金だめ。 東浩紀:受動性だめ などなど)。

→これらの洗脳(と非洗脳)すら、気づくたびに高揚感。受動的主体。

 

・「リバース」とシンクロしている「detiny(シェリル)」にも惹かれる。

→▽罪と罰 愛の定義さえ人が決めるものよ」・・・「人」でもいいが、どっちかというと特に「個々」。更に言えば「この私」(個々の根源。万人に対する~)→③や③´の人にしか(本当の意味では)思いつけない言葉。←「it's my destiny」も。シェリルはおそらく気付いてる。

▽「はじめから気付いていたの」・・・人は本来③や③´。はじめからそう。存在自体が常に既に、その人の結論を出してしまっている。これからは誰も逃れられない。存在という業。存在という傷。存在という宿命。

→気づく(③③´)か気づかない(①②)かだけ

 

・人に自分の考えを伝える。特に書籍で(物書き)。このことの「業の深さ」

→必ず伝播・影響し、さらにそういう人々を生み出す。永遠に続くカルマ。しかし、「この業こそが素晴らしい」。

→多分、仏教は悟ってこの業を亡くすことを目的とする。特に初期仏教というか釈迦仏教は。しかし、僕の予想では、日本仏教的に「悟れないと気づくことが悟り」。それこそが業をメタ的に亡くすこと。

 

・そして、物書き(特に思想や哲学)のもう一つの側面。

→概念から抜け出すための概念。

知識から抜け出すための知識。

言語から抜け出すための言語。

思考から抜け出すための思考。

つまり、本当の意味での「死」。辛く悲しいものとしての死ではなく、悟りとしての、生との表裏一体を成すという意味での、日本仏教的な解脱としての死(入滅)。

→悟りとは、平然と死ぬことではない。平然と恐怖に慄き、平然とのたうち回り死んでも、メタ的に大丈夫だということだ。

 

・気付けた。③や③´に向かえた。

受動的主体的に「全て」に選ばれた(選民思想とは違う)

→勝てる。少なくともメタ的に勝てる。

愉しめる。少なくともメタ的に愉しめる。これぞ愉悦。

 

これから、いくつもの個々の事例について、脱洗脳的視点を獲得できるだろう。その個々の事例をこれから書き記せたら書き記そう。

 

 

またもや受動性について

僕が考える、というか感性が鋭くなっている時には気づけるんだけど鈍くなってるときにはその本質を見失ってしまう受動性、というのがある。つまり、鈍くなってるときに読み返すために書いている。

 

例えば、少し前の記事で、受動性のデメリットとして、市場における受動性(神の見えざる手)が大きな格差につながることを話題にした。

この時は受動性に対する感性が鈍っている時だったと言える。僕が本当に思う受動性とは違うからだ。

これは結構当たり前のようなことなのに、結構言われていない、そういう意味で僕のオリジナルに近い考えだと思うのだけど。

つまり、市場の例で言えば、神の見えざる手によって生じる著しい格差、それに対する世界の反応・変容、そしてその世界を見つめる自分の感情、これら全てを「見つめる視点」としての受動性だ。

著しい格差を見て動揺する程度の受動性(弱い受動性)ではない。著しい格差に対して、反動で「それを楽しめ!」というようなものでもない。かと言って、それに反旗を翻すことでもない。そして、ただただ極小化された点としての冷静を装うということでもない。

 

あくまで例として、市場の話を持ち出すが、神の見えざる手では著しい格差が生じてしまう、という話を聞いたときに、人が示す反応は大体同じだろう。これは、思考レベルではなく、もっと深い感情レベルでの反応の話だ。つまり、動物本能的に、そのような未来に対して「不安」の感情を持つはずだ。

この時点で、既にある意味「洗脳」されているのだ。人間が「持つべき」とされている感情に矯正されているのだ。本当は、個人史・先天的なもの、環境、その日の体調や精神状況など、あらゆる変数の違いによって、感情の反応にはかなりのバラつきがでるはずだ。しかし、上記の話を「本当に理解していれば」そうはならない。つまり、何らかのバイアスがかかっている。

現に僕は不安を感じた。別に、これだけじゃない。もうウォールストリートの支配、その裏の中世から続くヨーロッパ王侯貴族などの支配はもうそこまで迫っている(別にこれは妄想でもなんでもいいんです。現状を見て分かるように、背後にあるものが何であれ、これから超格差社会になることは目に見えている。現時点でもウォール街で働くビジネスマンの年収は650億円)。

googleapplemicrosoftfacebookなどの超サイバー企業が対抗馬となるが、まあ、一般人には計り知れない世界の流れの中にこれから放り込まれる。

 

市場の話だけど、その話を聞いたときに、素朴に不安を感じるのは、まあ別にどうでもいい。不安を感じないと豪語するタイプもどうでもよくてしょうもない。

うーん、なんだろう。言語化できない。こういう風に消去法的に浮かび上がらせるしかほとんど言語化の方法がないように思うのだけど、消去法でも限界がある。

 

こうして書いてる最中にも、もう消えてしまっていってる。繊細すぎる概念。論理的なものというより感情的にふってくるものだからか。

どうにか残したい。

 

つまり、本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことを極めている。その思考や感情には「寄る辺」がない(のにある)。例えば、上記の市場の話で言えば、不安を感じた自分すら客観化する自分すら客観化する・・・という無限回廊。でも、これは「自発的」なものだと「気付いてしまう」。その気付いてしまったことによる変化が起きた自分すら客観化・・・つまり、受動性だと「気づく」、それをまた客観化&受動性・・・のまた無限回廊

でも、無限回廊ではないのだ。論理的に言語的に言うと必ずこの無限回廊てきな説明になってしまう。でも、言葉の要らない実践形としては、無限回廊ではない。

円周率に近い。数値という言語的には、永遠にその計算は終わらない。ただし、実践形として、僕たちはこの世界でそれを実際に使っている。幻想ではない。

お、ちょっとだけ何とか消去法ではない形で言語化できたぞ。

 

本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている、という言語化なわけだけど、言葉のイメージとは違い、これが実際に徹底できると、実践形としては、『孤独』ではないという矛盾。これも幻想ではなく、つまり、「そこにいないけど繋がっている」というような、ある意味でのおためごかしではない。これもやはり円周率の例が分かり易い。

「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている>という言語自体、孤独の表現を極める形だけど、実践形ではそうではない。この矛盾は致し方なく生じる。

かつ、傲慢(言語)に聞こえるけど非常に謙虚(実践)。この矛盾も致し方なく生じる。

 

受動性(言語?)という自立性(実践?)。これだ。矛盾をそのまま表してる。まあこの言葉だけじゃ色んな方向に誤解釈してしまうけど。だから長々とした説明記録が必要だった。

ちなみに、

受動性→自立性

受動性←自立性

という両方向を秘める。

 

「世の中に洗脳ではないものはない」という考えも洗脳、という考えも洗脳・・・という無限回廊。うん、これもヒントになる。これも言語化では無限回廊だけど、実践形ではそうではない。

 

ここまでの話で重要なのは、あくまで徹底できれば、という話であるということ。でも、徹底の方向性にいること自体がすでに徹底である、という考えが既に徹底である・・・という無限回廊でもある。これもそうだね。

 

つまり、気づくことで既に完成している。

ある意味の、言語と実践の統合ではない。言語と実践の統合に「気付く」ということに気付くということに・・・無限回廊

 

ここの精神状態に極たまに偶然的に達していることがある。いや、偶然ではないか。やはりそれは<世界>に触れたときな気がする。いや、その精神状態だから<世界>に触れられたのか。どっちだろう。まあここはどっちでもいいや。どっちでもあるかも。

 

この精神状態、というか気づきに達している時のみ、精神がある種の特殊な、多分僕にオリジナルの高揚感を得る。オリジナル故の高揚感とも言えるし、でも<世界>を貫いているものを見ることによる高揚感でもあるから、それは独我論的なものでもない。個々も矛盾。

 

洗脳(「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」)の洗脳の洗脳・・・から実践というか実際に解き放たれた時とも言える。

 

僕の考える受動性は、(多分常に?)矛盾という形になるので、こういう意味不明な言語化になってしまう。

 

実践というか実際的には、言葉にするとまた矛盾と無限回廊をはらむけど、とにかく「世界がどうなるか楽しみ」「自分がどうなるか楽しみ」「ウキウキワクワク」と記しておこう。

 

そう、誰にも分からないということに気付いた。皆、独我論者であり独我論者でない。

とにかくオリジナル。オリジナルでしかあり得ない。ぜ~んぶ、無視と非無視の矛盾をはらんだ形(言語的に)

片方の意味で、人の意見なんて、完全に無視していいのだ。だって、本当は全て、ホントのホントに全て、確実ではないんだ。でもそれは片方で無視ではないのだ。無視は不可能なのだ。

 

全ての言語も意味も解釈も考え方も人生観も世界観も、他者から与えられたものであり、剥がれ落ちる。本当は全部オリジナルなのだ。それに気づくかどうかだけなんだ。でも結局剥がれ落ちてなくて、でも気付いたということは剥がれ落ちたことなんだ。

剥離と非剥離の矛盾。

 

嗚呼、気づく前まで、何と洗脳されていたことよ。まあまた洗脳に戻るだろうけど。できれば脱せれてる時間が多くなってほしい。

 

寄る辺が無いのに寄る辺があって、メタ的に怖くない。

どんなに自分の奥深くまで食い込んんだ親しみのある「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」でも、剥離とか無視。でも剥離とか無視じゃない。

 

とにかく気持ちいい。メタ的脱洗脳。そして、高揚感が導かれる。

メタ的に(あくまでメタ的に。でもこれこそ大事)、ま~ったく囚われる必要はない。

いやはや、一回性なるこの自分や世界、つまり「全て」、どうなるかな~。無限回廊的視点からの見晴らし。

 

 

これが僕の根源なのかな。

というか、あれ?これって結局、「空観ベースの仮観」である中観か?

自分の感情も心も、世界の見え方も、洗脳でないものは一つも、ホントのホントに一つもないんだな。空観だ。そして中観にする。それにさえ気づけば不自由さえ自由だ。つまり自由だ。

 

というか、こういうことに気付けたのは、僕が本当に不幸で変わった人生だからだろうな。一般から大きく逸脱した、ホントのホントに自分の考え、オリジナルでいいのだ。というか事実としてそうでしかあり得ない。「全て」決められている。ある意味ラプラスのデーモン。なのに受動的主体!高揚感!完全に脇役でも主役。

 

もうやめよう。永遠の言語化になってしまう。

 

 

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未知の未来

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国民国家、家族、所有という概念という順に歴史が長いわけだけど(最後の二つは逆かもしれない)それらが無くなるかもしれないという話。やっぱり歴史が短い順になくなっていく可能性が高い。

ここでも言ってるけど国民国家なんて日本ではできてから150年しかたってないもんね。

 

でも、「まあ生きてる間には起こらないだろう」って思うよね。

ところが、本「2050年衝撃の未来予想」(あくまで予想)によると、人間の寿命がもうどんどん延びてるわけで、IPSなんかもあるし、国民国家の崩壊くらいなら目撃しちゃう可能性大だね。

臨界点に達した時にバーンと色々変わるかもしれないし、気づいたらいつのまにかあらゆる事が変わってるかもしれない。

 

↑の動画で語られてる内容とか、ITやAIの発展ってことだけど、サイコパスってアニメでは的確に描かれていて、こんなふうになるのかな~とも思う。スゴイリアルな世界観ですよ。

でも、絶対に変わらないところもあって、所有という概念なんかはかなり手強いと。サイコパスでもそうだけど、結局格差は残ってるんだよね。

結局、人間は平等が嫌いなんだよね、多分。平等なんてつまんないと思っちゃうんでしょう。特に時代時代によって優秀の定義は変わるけど、その時代に優秀であると自覚する人間は、平等何て絶対に嫌なわけです。

 

こういうのに限らず、人間の持つ理不尽な感情が消えない限り、全然変わらない部分、つまり普遍的な部分ってのは残る。ホリエモンはそれすらもテクノロジーで変わると思ってるようだけど、宮台と東は逆ですね。

僕は宮台と東の予想が当たると思う。そして、その理不尽で普遍的な部分に切り込んでいけるものの一つに、仏教があると思う。テクノロジーはあくまで時代の変転を早めるだけのものだと思う。

内田樹の言うセンチネル(歩哨)が立つ外側の世界に切り込んでいく一つの思想体系が仏教。多くの哲学もそうだし、社会学とかも、社会だけ学問してるといつか限界に突き当たって、結局社会の外を考えざるを得なくなるらしい。社会学の場合分かり易くて、僕たちが社会と呼ぶものが、そもそも社会の外側に支えられて成り立っているからですね。でも健忘症の僕たちは、何世代も経るうちにその事実を忘れ、社会を成り立たせているリソースが社会の内部に存在すると勘違いする。本当は、過去の、社会の外の多大な犠牲によって成り立っているのに。でも、平和ボケするとその犠牲を忘れる。そして、社会が成り立たなくなって右往左往する。皆平和ボケしてるから誰も犠牲になりたがらない。そして社会崩壊→万人の万人ん駘する闘争~みたいな。

社会が成り立ってることの方が奇跡なのに、僕たちはそれを当たり前だと感じてるわけですね。

社会学だけでなく、物理学にしろ何にしろ、結局ある閉じた系の中だけで考えているといつか限界がきて、その外側を考えざるを得なくなるらしい。

 

まあつまり、テクノロジーによってめまぐるしく世界が変わるのを経験できそうなのが、僕は楽しみなわけです。でも、早死にする可能性もあることを忘れちゃいけないな。ここでも仏教が役立つな~。ホント、仏教さまさm。

 

一方で、いつまでたっても人間って変わらないな~というところも残る。そこが人類の「限界」とされるところでしょう。それは人類の定義かもしれないし、それを引き抜くと人類というゲシュタルトが崩壊するものかもしれないし、そもそも人間にはそれを思いつくことができないものなのかもしれない。例えば、当たり前すぎて。

多分、テクノロジーに限界はない。それでも変わらない、ある意味厄介で普遍的な部分は、普天的すぎて、当たり前すぎて、気づかないようなものでもあるだろう。当たり前に前提にしてる部分だから、気づきもしない。

でも、どこからが普遍的でどこからが可変的かが分からないところが面白い。え、こんなしょうもないことが普遍的だったの!とか、こんなに重要だと思ってたことが、なんの普遍性もないことだったの!とか。

 

それを知ることができるのが楽しみ。

 

でもこの動画の人たち、話し面白いからどうしても聞いちゃうんだけど、バカバカ言うのやめてくれないかな。バカからすると結構傷つくわ。

分岐点

遂に自分にとっての分岐点が近づいてきている気がする。

 

会社に復帰して約一か月。総務部で働いているわけだが、早くも嫌気がさしている。というか、絶望的に仕事ができない。やる気もない。心理テストでも明らかになったが、知識を吸収してそこから新たな視点や展開を生み出しプレゼンすることに関しては高い評価を得たが、総務部の事務処理的な内容となると絶望的に仕事ができない。クリニックの先生も、能力分布的に、営業と総務は一番向いてないと言ってた。

ファイリングにクリエイティビティを発揮しろと言われても困る。

 

というか、先輩とかも好きじゃない。正確に言うと約一名は大嫌いだし、約一名は嫌いだし、しかも嫌いな奴らに限って力持ってるし。彼(女)らと一緒に仕事するなんてホントやだ。上司はまだいい人なんだけど、やっぱり企業の論理からは逃れられない。

会社行きたくない。木金と休んだが、このまま休み続ければ有休をすべて消化し、残された休職期間も消化し、自動的に退職となる。まー色々な条件を鑑み、少なくとも来週いっぱいは行って、GWに入り、そこから有休消費する形がいいと思ってるけど、それすら無理かも。

 

退職した後に変に後悔しないように、「どのみち無理だった」ということをここに書き記しておこう。

自分の性格では、低賃金でも好きな仕事をするしかない。というか今だって、税金でかなり持ってかれるし、休職期間は税金分で赤字給料だったんだから。まー6月のボーナスまで粘ってから辞めるのが一番得か。たんまり内部留保をため込んでる企業だから罪悪感とかは全然ない。

 

仕事できるのに敢えて退職する人とかってかっこいいなあと思うけど、自分の場合、ホントに今の仕事はできないから、そういう意味での後悔は少なくて済むかも。部署異動もうまくいかなかったし。人間関係も嫌だし。何より仕事行くってだけでこんな消耗するのに、無理矢理行くことが自分にとって得なのか?刹那的に生きるつもりはないけど、少し先の将来くらいのことは考えても、現時点で本当に体がベッドから出ようとしないなら仕方ない。

そもそも、正社員って責任持たされるのがもう嫌ってのもありそう。超がつく我儘だけど(笑) でも本気で好きな仕事だったら正社員でもいいんだろうな。

 

前回の休職中も結局何もしなかったから、結局お前は怠けてるだけだ。今の会社で勤めあげろ。という声も自分の中から聞こえる。しかしだ、現に体が動かないのはどうしようもない。生理的な問題だから。

更に言えば、やはり休職中と求職中は全く違う。いつかは今の仕事に戻ると考えてるときと、もう戻らない、というときでは、発想の仕方がまるで違ってくる。退職したら、多分、自分が好きな仕事に就くと思う。低賃金でもいい。

実は僕は、結構な拝金主義者だった。何か親は小さいながらも一軒家持ってるくせに(そのローンもあって)すごいケチだったし、それで痛い目を見てきたことが多かったからね。まあ実際貧乏な家でもあるんだけど。金さえあれば・・・という想いはずっとあった(今でもある)。だからバイト選びとかでも、賃金優先で、自分の特性にあってるかどうかなんてほとんど考えなかった。結果、バイトだけどジョブホッパーになった(何せ心理テストの結果、発達障害だからね。ADHDASDが軽度ながら併存してる。この軽度ってのが厄介なんだが)。結果、ほとんど金が貯まらなかった。やっぱり、「求めれば逃げ、捨てれば懐に飛び込んでくる」ってのはかなり汎用性が高い格言ですな。

 

少ないながらも生まれて初めて貯金ができ、初めて自由に職を選ぶ余裕ができた。退職したら、生まれて初めて、賃金を度外視し、完全に自分がやりたい職業についてみよう。ジョブホッパーでも全然OK。もうこの年齢だし、どのみち普通の就職戦線に戻れるとは思ってない(まー今は実は中小は特にこの年でも売り手市場らしいけど、よっぽど好きな仕事でないと長時間労働とかは勘弁。しかも自分の場合、空白期間長くてスキルもないし。かといって今の総務部にいて一体何のスキルがつくというのだろう)。

 

バイトもうまくいかなかったが、新卒切符は一回限りなので、一応使って、たまさかの偶然でかなり条件の良いところに就職した。でも、自分の本質は嘘をつきませんね。やはりうまくいかない。やはり社会不適合だ。今はそんなにネガティブでもないけど。

それにしても、何で営業職なんて選んだんだって思いもある。でも、行きたかった新聞や出版は落ちちゃったし(まあ何の対策もしてなかったのもあるけど、当時は、「何の対策もしないのならその程度の意気込みなのだ」と思った)、となると文系は大体営業ですよ。しかも真剣に考えてなかったし。適当でした。新卒切符とりあえず使っとくか―、的な。でも、会社というのは恐ろしいですね。元々はそういう気だったのに、いつのまにか、しがみつこうとしちゃってる。でも一方で、年をとってくるから当たり前とも言える。自分だけでなく、家族も年をとってくるからね。こういうことを考えれば、賢明な人ならやっぱり会社勤めを続けると思う。自分みたいに「能力的に無理」って場合でない限り。自分は他の道が無いってだけだからね。でも、それがむしろ福音かもしれない。「人間万事塞翁が馬」。

会社でやっていく能力がある人はやっていけばいい。でも自分には圧倒的にその能力が無い。実務面でもそうだし、いわゆる「コミュ力」的にもそうだし、性格的にも嫌なことをやらされるととんでもなくストレスがかかる。大体コミュ力ってなんだよ。企業が設定したある特定の会話コードに乗っかれってことだろ。それを拒否したらもうコミュ障ってんだから、どんだけ支配者に都合がいいんだよ。飲み会とかもバンバン断ってたら、やっぱ風当り強いし。上意下達が効率良いのは分かるけど、その同調圧力がきつい。少なくとも自分には。一般的に見れば、この会社は全然マシな方なんだろうけど。

一番の問題はやっぱり人間関係だな。自分は人間関係への不適応が一番ひどい。嫌なやつとは徹底的に避けたい。やっぱり自分は重度の社会不適合者だ。でも、ここまでくるともうその道を突き詰めるしかない気もしている。だって将来食えなくなって餓死するとしても、その方がマシだと思っちゃうくらいなんだから。まあ目の前に餓死が無いし、経験も無いんだけど。でも、日本だとほぼ餓死しないという事情もあるしね。

病院ではうつ状態と診断されたが、明らかに仕事に対する不適応から来ている。だって、休職期間中の、親からの攻撃が無かった時期は、まだ元気だったもの。

 

それと、自分の場合、ほとんど何の努力もせずいい大学、良い会社に入れちゃったのも大きい。大学は、英語でゲームしてたら3日前に願書出して受けたら何か受かっちゃったし、就活も、孫会社受けたら子会社に来ないかって言われて行ったら、かなり親会社と近い待遇だったって感じで(ほとんどが親から子に出向してるだけの社員だからね)。つまり、たいして努力せずに入っちゃったから、比較的簡単に捨てる気になれるんだろう。気張って気張って辿り着いた人なら、もっと縋りついちゃうかもしれない。

 

そう、親からの攻撃が問題だ。まーせめて子供のうち一人くらいは堅実な会社員になってほしいと思ってるんだろう。知るか、んなもん。同情はするが、残念ながらそんな子供たちに育てたのはあんた達だ。

だが、そこは強くなった。微々たるものだが貯金ができて余裕ができたのも一因だが、何か負けなくなったね、うん。どうにかして金をむしりとろうとしてくるけど、親を精神的に切り離した今となっては抵抗はたやすい。

まあ、家は利用させてもらおう。出てけって言われても出ないよ。家賃がかからないってのはやっぱでかいからね。額は減らすけど、引き続き、ちょっとくらいは家にお金いれるつもりだし。家のこともやるし。一人暮らしに比べればかなり安上がりだ。

浮いた分の金を(浮くか分からないけど)将来の投資に回す。

 

ホント、好きにさせてもらおう。今興味があるのは、手堅いところでは介護、葬儀あたりか。特殊清掃はちょっと精神的にハードルが高い。興味はあるけど、なかなか。全く食えなくても良いなら、フリージャーナリストとかかな。インタビュアーとか。でも、人脈とか必要そうだし、ハードル高いかな。

まー、退職してからでないとやっぱりスコトーマがあるから自由に発想できない。それに、退職してある意味追い詰められないとね。探せば、全く存在を認知してなかったような仕事がいっぱいあるらしいし。

好きな仕事を好きなだけしつつ、質素に暮らし、とにかく本とか多く読んで過ごそう。金が貯まれば、場合によってはどっかの大学院にいくかもしれない。今の貯金じゃ到底無理だけど。錆びついた英語のエンジンも、磨けばまた動き出すと思う。

 

英語と言えば、ドラえもんのほんやくコンニャクよろしく、翻訳機能を持った拡声器が成田空港とかで使われ始めてるな。これがもっと進めば、日本語の壁が取っ払われ、外国人労働者が日本で働けるようになり、相対的にこれからの自分の給料も下がりそうだが、やはり細かい文化差やニュアンスの違いをとらえるのは難しいし、そこまでの実用化はまだ先だろうから、まー大丈夫そう。こういうところ、エゴイスティックだな、自分は。

それに、日本人にしかできない仕事ってのも、まああるだろう。

 

いずれにしろ、自分が好きなことを好きなだけやるに限る。一応自分は質素な生活さえすれば、ギリギリまだそれができる環境にいる。多分。質素な生活の強要が、むしろいい方向にいくかもしれないし。瞑想や気功の方向も良い。

何かの研究によると、好きな仕事をしている人の生産性は、嫌いな仕事をしている人のそれの756倍(だったかな?)にもなるらしい。好き嫌い、得意不得意の差が著しい自分には、これは実感としてすごくよく分かる。好きな仕事してても自分の場合そこまで生産性高いとは思わないけど、嫌いな仕事してる時の生産性なんて、むしろマイナスって感じだからな、自分の場合。

 

今となってはプライドも何も吹っ飛んじゃったのもでかいな。正直、高収入でバリバリ仕事してるイケてる俺様!になりたい!みたいに思っちゃってる時期もあったけど、ここまで能力が追っつかないとなると、そんな幻想は消し飛んでしまう。というか、海外でバリバリ活躍できるチャンスがもうちょっと我慢すれば手に入る環境だったけど、結局そのもうちょっとの我慢ができなかったんだよね。そんなガッツ自分にはなかった。というか、目の前にチャンスがあっても、会社員というものの現実を知った今となっては、もう嫌になってるかもしれないけど。

これ、恋愛とかでみんな経験があると思うけど(特に男は)、どうにかして手に入れたい女の子がいて、いざ手に入りそうになった瞬間、何か気分が萎えていくというかね。そういう感じに似てた(そんな恵まれた経験、ほとんどないけど)。

海外でバリバリ!にしても、憧れの女の子にしても、共通してるのはやっぱり「幻想」ってことなんだよね(まあ後者に関しては「ぶどうはすっぱい!」っていう感じもあって、ちょっとミソジニールサンチマンも入ってるだろうけど。いや多大に入ってるだろうけど。でもミソジニールサンチマンが皆無な男は(女も)いないでしょう)。

でも現実を一回でも知ったことがあれば、ね。まーでも僕は忘れっぽいからまた憧れたりしそうだけど。でも一回でも知ってるのと知らないのは結構違うと思う。

会社勤めを一度でもしといてよかったのはこの点くらいかな。現実を知れた。結局、高収入でしかも自分の好きな仕事で、なんて、かなり運が良いんですよ。東電の自殺問題を見るまでもなく。ホントおいたわしい限りだ。

まー後はちょっとくらいは貯金がたまったことかな。僕にとって会社勤めとは、給料が入る徴兵制って感じでした。

 

今、もう辞めてもいいや、って思ってるけど、こう思えたのは(良かったのか悪かったのか、それは死ぬまで分からないけど)、坂口や苫米地、大原扁理さん、仏教系の本や、友人から紹介された本や友人そのものの影響もあるな。

坂口は会社なんていますぐ辞めろって言ってるし(で、何も考えずに辞めて「どうすればいいですか?」ってきた人を彼は「馬鹿か!」と行ってるけど(笑))、苫米地に至っては本気で、嫌な仕事は今すぐ辞めろって言ってます。仏教は貧乏でも幸せになれるって言うし清貧を勧めるし、キリストは「金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」って言ってる(まー僕は金を掴むチャンスがあれば掴むけど)。大原扁理さんは週休5日で月7万で東京で楽しく一人暮らししてる。こういう思考回路がないと、自分も東電の女の子まではいかなくても、近い所の精神状態までいってたかも。

 

でも、ほんともったいないな彼女。ホント同情する。だれか身近な人たちで止められる人はいなかったのかと思ってしまう。この拝金主義国の犠牲者だ。家が貧しかったとはいえ、彼女はまだ若く、東大ブランドもあった。自分の家も貧乏だし、普通に考えて、彼女が自殺しなきゃならないなら、僕なんかとっくに自殺してなきゃいけないわけです。まあ東大だからこその事情や、若いからこそ希望が大きいとか、色々あるのかもしれないから、一概に言えないけど。というか、自分は自殺してなくて彼女は自殺しているということは、やはり彼女の方が苦しみが重かったのだろう。

それでも、人生いくらでも切り開いて行けただろうにと思う。でも、罵倒続きで脳がそういう風になってるときって、ホント視野狭窄になっちゃう。RAS(reticular activating system:網様体賦活系)が悪く働いて、悪い情報しか入ってこなくなるんでしょう。自殺するってよっぽどですよ。ちなみに、勉強できる人ほど変性意識状態に入りやすく洗脳されやすいらしいから、そういうのもあるかも。オウムとか分かり易い例ですね。

僕なんか、今となっては生活保護でも生きてりゃいいって考えです。質素でも、抑圧を受けず、五体満足で飯が食えて、雨風しのげて、図書館で無料で本読めたらそれで十分だよ。でもついこの間までは、やっぱり会社にしがみつく感じになってた。それくらい会社の内部の洗脳は強い。ほとんどの人は洗脳とすら思ってないし。というか、会社というところは一部(突出して能力が高い人や突出して精神がぶれない人)を除いて、そういう人たちで成り立ってるわけです。いちいち疑問を感じてたら精神が持たないし、淘汰されていくし。会社としても、結局は反抗しない従順なロボットを求めてるし。特に日本企業は。

一言でいうと、とにかく、自分にとってはこの会社に居続けることは「不健康」だと思う。

 

長い目で見れば、従順な社員ははホントにロボット(AI)に置き換えられていくだろうし。従順な社員がもしかしたら割を食うかもしれませんよ。そして自分の好きなことやってる人間のほうが、AIで代替できない価値を提供できるようになるかもしれませんよ。アリではなくキリギリスが生き残るかもしれませんよ。というかアリも2割は怠け者ですよ。

まー希望的観測はこの程度にして。

 

何か分岐点ってタイトルなのに、ほぼ辞めるみたいな話になってるな。それだけ辞めたい気持ちが強いってことだな。でもここまで書いておきながら、一か月後、一年後、普通に会社に留まってる自分がいるかもしれない。まーそのあたりは結局分からない。

最悪なのは、辞めたけど何もやる気が起こらないという状況。で、ただ単に貯金を食いつぶすと。でも、それすらも、どうしてもそうなってしまうなら仕方ないや、と思ってる。

お得意の「おまかせコース」でいこう。