またもや受動性について

僕が考える、というか感性が鋭くなっている時には気づけるんだけど鈍くなってるときにはその本質を見失ってしまう受動性、というのがある。つまり、鈍くなってるときに読み返すために書いている。

 

例えば、少し前の記事で、受動性のデメリットとして、市場における受動性(神の見えざる手)が大きな格差につながることを話題にした。

この時は受動性に対する感性が鈍っている時だったと言える。僕が本当に思う受動性とは違うからだ。

これは結構当たり前のようなことなのに、結構言われていない、そういう意味で僕のオリジナルに近い考えだと思うのだけど。

つまり、市場の例で言えば、神の見えざる手によって生じる著しい格差、それに対する世界の反応・変容、そしてその世界を見つめる自分の感情、これら全てを「見つめる視点」としての受動性だ。

著しい格差を見て動揺する程度の受動性(弱い受動性)ではない。著しい格差に対して、反動で「それを楽しめ!」というようなものでもない。かと言って、それに反旗を翻すことでもない。そして、ただただ極小化された点としての冷静を装うということでもない。

 

あくまで例として、市場の話を持ち出すが、神の見えざる手では著しい格差が生じてしまう、という話を聞いたときに、人が示す反応は大体同じだろう。これは、思考レベルではなく、もっと深い感情レベルでの反応の話だ。つまり、動物本能的に、そのような未来に対して「不安」の感情を持つはずだ。

この時点で、既にある意味「洗脳」されているのだ。人間が「持つべき」とされている感情に矯正されているのだ。本当は、個人史・先天的なもの、環境、その日の体調や精神状況など、あらゆる変数の違いによって、感情の反応にはかなりのバラつきがでるはずだ。しかし、上記の話を「本当に理解していれば」そうはならない。つまり、何らかのバイアスがかかっている。

現に僕は不安を感じた。別に、これだけじゃない。もうウォールストリートの支配、その裏の中世から続くヨーロッパ王侯貴族などの支配はもうそこまで迫っている(別にこれは妄想でもなんでもいいんです。現状を見て分かるように、背後にあるものが何であれ、これから超格差社会になることは目に見えている。現時点でもウォール街で働くビジネスマンの年収は650億円)。

googleapplemicrosoftfacebookなどの超サイバー企業が対抗馬となるが、まあ、一般人には計り知れない世界の流れの中にこれから放り込まれる。

 

市場の話だけど、その話を聞いたときに、素朴に不安を感じるのは、まあ別にどうでもいい。不安を感じないと豪語するタイプもどうでもよくてしょうもない。

うーん、なんだろう。言語化できない。こういう風に消去法的に浮かび上がらせるしかほとんど言語化の方法がないように思うのだけど、消去法でも限界がある。

 

こうして書いてる最中にも、もう消えてしまっていってる。繊細すぎる概念。論理的なものというより感情的にふってくるものだからか。

どうにか残したい。

 

つまり、本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことを極めている。その思考や感情には「寄る辺」がない(のにある)。例えば、上記の市場の話で言えば、不安を感じた自分すら客観化する自分すら客観化する・・・という無限回廊。でも、これは「自発的」なものだと「気付いてしまう」。その気付いてしまったことによる変化が起きた自分すら客観化・・・つまり、受動性だと「気づく」、それをまた客観化&受動性・・・のまた無限回廊

でも、無限回廊ではないのだ。論理的に言語的に言うと必ずこの無限回廊てきな説明になってしまう。でも、言葉の要らない実践形としては、無限回廊ではない。

円周率に近い。数値という言語的には、永遠にその計算は終わらない。ただし、実践形として、僕たちはこの世界でそれを実際に使っている。幻想ではない。

お、ちょっとだけ何とか消去法ではない形で言語化できたぞ。

 

本当の受動性は、「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている、という言語化なわけだけど、言葉のイメージとは違い、これが実際に徹底できると、実践形としては、『孤独』ではないという矛盾。これも幻想ではなく、つまり、「そこにいないけど繋がっている」というような、ある意味でのおためごかしではない。これもやはり円周率の例が分かり易い。

「人は思考において、感情において、徹底的に独立独歩・唯我独尊で『孤独』である」ことに気付くことを極めている>という言語自体、孤独の表現を極める形だけど、実践形ではそうではない。この矛盾は致し方なく生じる。

かつ、傲慢(言語)に聞こえるけど非常に謙虚(実践)。この矛盾も致し方なく生じる。

 

受動性(言語?)という自立性(実践?)。これだ。矛盾をそのまま表してる。まあこの言葉だけじゃ色んな方向に誤解釈してしまうけど。だから長々とした説明記録が必要だった。

ちなみに、

受動性→自立性

受動性←自立性

という両方向を秘める。

 

「世の中に洗脳ではないものはない」という考えも洗脳、という考えも洗脳・・・という無限回廊。うん、これもヒントになる。これも言語化では無限回廊だけど、実践形ではそうではない。

 

ここまでの話で重要なのは、あくまで徹底できれば、という話であるということ。でも、徹底の方向性にいること自体がすでに徹底である、という考えが既に徹底である・・・という無限回廊でもある。これもそうだね。

 

つまり、気づくことで既に完成している。

ある意味の、言語と実践の統合ではない。言語と実践の統合に「気付く」ということに気付くということに・・・無限回廊

 

ここの精神状態に極たまに偶然的に達していることがある。いや、偶然ではないか。やはりそれは<世界>に触れたときな気がする。いや、その精神状態だから<世界>に触れられたのか。どっちだろう。まあここはどっちでもいいや。どっちでもあるかも。

 

この精神状態、というか気づきに達している時のみ、精神がある種の特殊な、多分僕にオリジナルの高揚感を得る。オリジナル故の高揚感とも言えるし、でも<世界>を貫いているものを見ることによる高揚感でもあるから、それは独我論的なものでもない。個々も矛盾。

 

洗脳(「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」)の洗脳の洗脳・・・から実践というか実際に解き放たれた時とも言える。

 

僕の考える受動性は、(多分常に?)矛盾という形になるので、こういう意味不明な言語化になってしまう。

 

実践というか実際的には、言葉にするとまた矛盾と無限回廊をはらむけど、とにかく「世界がどうなるか楽しみ」「自分がどうなるか楽しみ」「ウキウキワクワク」と記しておこう。

 

そう、誰にも分からないということに気付いた。皆、独我論者であり独我論者でない。

とにかくオリジナル。オリジナルでしかあり得ない。ぜ~んぶ、無視と非無視の矛盾をはらんだ形(言語的に)

片方の意味で、人の意見なんて、完全に無視していいのだ。だって、本当は全て、ホントのホントに全て、確実ではないんだ。でもそれは片方で無視ではないのだ。無視は不可能なのだ。

 

全ての言語も意味も解釈も考え方も人生観も世界観も、他者から与えられたものであり、剥がれ落ちる。本当は全部オリジナルなのだ。それに気づくかどうかだけなんだ。でも結局剥がれ落ちてなくて、でも気付いたということは剥がれ落ちたことなんだ。

剥離と非剥離の矛盾。

 

嗚呼、気づく前まで、何と洗脳されていたことよ。まあまた洗脳に戻るだろうけど。できれば脱せれてる時間が多くなってほしい。

 

寄る辺が無いのに寄る辺があって、メタ的に怖くない。

どんなに自分の奥深くまで食い込んんだ親しみのある「他者の言葉」「他者の言葉の特定の意味解釈」でも、剥離とか無視。でも剥離とか無視じゃない。

 

とにかく気持ちいい。メタ的脱洗脳。そして、高揚感が導かれる。

メタ的に(あくまでメタ的に。でもこれこそ大事)、ま~ったく囚われる必要はない。

いやはや、一回性なるこの自分や世界、つまり「全て」、どうなるかな~。無限回廊的視点からの見晴らし。

 

 

これが僕の根源なのかな。

というか、あれ?これって結局、「空観ベースの仮観」である中観か?

自分の感情も心も、世界の見え方も、洗脳でないものは一つも、ホントのホントに一つもないんだな。空観だ。そして中観にする。それにさえ気づけば不自由さえ自由だ。つまり自由だ。

 

というか、こういうことに気付けたのは、僕が本当に不幸で変わった人生だからだろうな。一般から大きく逸脱した、ホントのホントに自分の考え、オリジナルでいいのだ。というか事実としてそうでしかあり得ない。「全て」決められている。ある意味ラプラスのデーモン。なのに受動的主体!高揚感!完全に脇役でも主役。

 

もうやめよう。永遠の言語化になってしまう。

 

 

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未知の未来

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国民国家、家族、所有という概念という順に歴史が長いわけだけど(最後の二つは逆かもしれない)それらが無くなるかもしれないという話。やっぱり歴史が短い順になくなっていく可能性が高い。

ここでも言ってるけど国民国家なんて日本ではできてから150年しかたってないもんね。

 

でも、「まあ生きてる間には起こらないだろう」って思うよね。

ところが、本「2050年衝撃の未来予想」(あくまで予想)によると、人間の寿命がもうどんどん延びてるわけで、IPSなんかもあるし、国民国家の崩壊くらいなら目撃しちゃう可能性大だね。

臨界点に達した時にバーンと色々変わるかもしれないし、気づいたらいつのまにかあらゆる事が変わってるかもしれない。

 

↑の動画で語られてる内容とか、ITやAIの発展ってことだけど、サイコパスってアニメでは的確に描かれていて、こんなふうになるのかな~とも思う。スゴイリアルな世界観ですよ。

でも、絶対に変わらないところもあって、所有という概念なんかはかなり手強いと。サイコパスでもそうだけど、結局格差は残ってるんだよね。

結局、人間は平等が嫌いなんだよね、多分。平等なんてつまんないと思っちゃうんでしょう。特に時代時代によって優秀の定義は変わるけど、その時代に優秀であると自覚する人間は、平等何て絶対に嫌なわけです。

 

こういうのに限らず、人間の持つ理不尽な感情が消えない限り、全然変わらない部分、つまり普遍的な部分ってのは残る。ホリエモンはそれすらもテクノロジーで変わると思ってるようだけど、宮台と東は逆ですね。

僕は宮台と東の予想が当たると思う。そして、その理不尽で普遍的な部分に切り込んでいけるものの一つに、仏教があると思う。テクノロジーはあくまで時代の変転を早めるだけのものだと思う。

内田樹の言うセンチネル(歩哨)が立つ外側の世界に切り込んでいく一つの思想体系が仏教。多くの哲学もそうだし、社会学とかも、社会だけ学問してるといつか限界に突き当たって、結局社会の外を考えざるを得なくなるらしい。社会学の場合分かり易くて、僕たちが社会と呼ぶものが、そもそも社会の外側に支えられて成り立っているからですね。でも健忘症の僕たちは、何世代も経るうちにその事実を忘れ、社会を成り立たせているリソースが社会の内部に存在すると勘違いする。本当は、過去の、社会の外の多大な犠牲によって成り立っているのに。でも、平和ボケするとその犠牲を忘れる。そして、社会が成り立たなくなって右往左往する。皆平和ボケしてるから誰も犠牲になりたがらない。そして社会崩壊→万人の万人ん駘する闘争~みたいな。

社会が成り立ってることの方が奇跡なのに、僕たちはそれを当たり前だと感じてるわけですね。

社会学だけでなく、物理学にしろ何にしろ、結局ある閉じた系の中だけで考えているといつか限界がきて、その外側を考えざるを得なくなるらしい。

 

まあつまり、テクノロジーによってめまぐるしく世界が変わるのを経験できそうなのが、僕は楽しみなわけです。でも、早死にする可能性もあることを忘れちゃいけないな。ここでも仏教が役立つな~。ホント、仏教さまさm。

 

一方で、いつまでたっても人間って変わらないな~というところも残る。そこが人類の「限界」とされるところでしょう。それは人類の定義かもしれないし、それを引き抜くと人類というゲシュタルトが崩壊するものかもしれないし、そもそも人間にはそれを思いつくことができないものなのかもしれない。例えば、当たり前すぎて。

多分、テクノロジーに限界はない。それでも変わらない、ある意味厄介で普遍的な部分は、普天的すぎて、当たり前すぎて、気づかないようなものでもあるだろう。当たり前に前提にしてる部分だから、気づきもしない。

でも、どこからが普遍的でどこからが可変的かが分からないところが面白い。え、こんなしょうもないことが普遍的だったの!とか、こんなに重要だと思ってたことが、なんの普遍性もないことだったの!とか。

 

それを知ることができるのが楽しみ。

 

でもこの動画の人たち、話し面白いからどうしても聞いちゃうんだけど、バカバカ言うのやめてくれないかな。バカからすると結構傷つくわ。

分岐点

遂に自分にとっての分岐点が近づいてきている気がする。

 

会社に復帰して約一か月。総務部で働いているわけだが、早くも嫌気がさしている。というか、絶望的に仕事ができない。やる気もない。心理テストでも明らかになったが、知識を吸収してそこから新たな視点や展開を生み出しプレゼンすることに関しては高い評価を得たが、総務部の事務処理的な内容となると絶望的に仕事ができない。クリニックの先生も、能力分布的に、営業と総務は一番向いてないと言ってた。

ファイリングにクリエイティビティを発揮しろと言われても困る。

 

というか、先輩とかも好きじゃない。正確に言うと約一名は大嫌いだし、約一名は嫌いだし、しかも嫌いな奴らに限って力持ってるし。彼(女)らと一緒に仕事するなんてホントやだ。上司はまだいい人なんだけど、やっぱり企業の論理からは逃れられない。

会社行きたくない。木金と休んだが、このまま休み続ければ有休をすべて消化し、残された休職期間も消化し、自動的に退職となる。まー色々な条件を鑑み、少なくとも来週いっぱいは行って、GWに入り、そこから有休消費する形がいいと思ってるけど、それすら無理かも。

 

退職した後に変に後悔しないように、「どのみち無理だった」ということをここに書き記しておこう。

自分の性格では、低賃金でも好きな仕事をするしかない。というか今だって、税金でかなり持ってかれるし、休職期間は税金分で赤字給料だったんだから。まー6月のボーナスまで粘ってから辞めるのが一番得か。たんまり内部留保をため込んでる企業だから罪悪感とかは全然ない。

 

仕事できるのに敢えて退職する人とかってかっこいいなあと思うけど、自分の場合、ホントに今の仕事はできないから、そういう意味での後悔は少なくて済むかも。部署異動もうまくいかなかったし。人間関係も嫌だし。何より仕事行くってだけでこんな消耗するのに、無理矢理行くことが自分にとって得なのか?刹那的に生きるつもりはないけど、少し先の将来くらいのことは考えても、現時点で本当に体がベッドから出ようとしないなら仕方ない。

そもそも、正社員って責任持たされるのがもう嫌ってのもありそう。超がつく我儘だけど(笑) でも本気で好きな仕事だったら正社員でもいいんだろうな。

 

前回の休職中も結局何もしなかったから、結局お前は怠けてるだけだ。今の会社で勤めあげろ。という声も自分の中から聞こえる。しかしだ、現に体が動かないのはどうしようもない。生理的な問題だから。

更に言えば、やはり休職中と求職中は全く違う。いつかは今の仕事に戻ると考えてるときと、もう戻らない、というときでは、発想の仕方がまるで違ってくる。退職したら、多分、自分が好きな仕事に就くと思う。低賃金でもいい。

実は僕は、結構な拝金主義者だった。何か親は小さいながらも一軒家持ってるくせに(そのローンもあって)すごいケチだったし、それで痛い目を見てきたことが多かったからね。まあ実際貧乏な家でもあるんだけど。金さえあれば・・・という想いはずっとあった(今でもある)。だからバイト選びとかでも、賃金優先で、自分の特性にあってるかどうかなんてほとんど考えなかった。結果、バイトだけどジョブホッパーになった(何せ心理テストの結果、発達障害だからね。ADHDASDが軽度ながら併存してる。この軽度ってのが厄介なんだが)。結果、ほとんど金が貯まらなかった。やっぱり、「求めれば逃げ、捨てれば懐に飛び込んでくる」ってのはかなり汎用性が高い格言ですな。

 

少ないながらも生まれて初めて貯金ができ、初めて自由に職を選ぶ余裕ができた。退職したら、生まれて初めて、賃金を度外視し、完全に自分がやりたい職業についてみよう。ジョブホッパーでも全然OK。もうこの年齢だし、どのみち普通の就職戦線に戻れるとは思ってない(まー今は実は中小は特にこの年でも売り手市場らしいけど、よっぽど好きな仕事でないと長時間労働とかは勘弁。しかも自分の場合、空白期間長くてスキルもないし。かといって今の総務部にいて一体何のスキルがつくというのだろう)。

 

バイトもうまくいかなかったが、新卒切符は一回限りなので、一応使って、たまさかの偶然でかなり条件の良いところに就職した。でも、自分の本質は嘘をつきませんね。やはりうまくいかない。やはり社会不適合だ。今はそんなにネガティブでもないけど。

それにしても、何で営業職なんて選んだんだって思いもある。でも、行きたかった新聞や出版は落ちちゃったし(まあ何の対策もしてなかったのもあるけど、当時は、「何の対策もしないのならその程度の意気込みなのだ」と思った)、となると文系は大体営業ですよ。しかも真剣に考えてなかったし。適当でした。新卒切符とりあえず使っとくか―、的な。でも、会社というのは恐ろしいですね。元々はそういう気だったのに、いつのまにか、しがみつこうとしちゃってる。でも一方で、年をとってくるから当たり前とも言える。自分だけでなく、家族も年をとってくるからね。こういうことを考えれば、賢明な人ならやっぱり会社勤めを続けると思う。自分みたいに「能力的に無理」って場合でない限り。自分は他の道が無いってだけだからね。でも、それがむしろ福音かもしれない。「人間万事塞翁が馬」。

会社でやっていく能力がある人はやっていけばいい。でも自分には圧倒的にその能力が無い。実務面でもそうだし、いわゆる「コミュ力」的にもそうだし、性格的にも嫌なことをやらされるととんでもなくストレスがかかる。大体コミュ力ってなんだよ。企業が設定したある特定の会話コードに乗っかれってことだろ。それを拒否したらもうコミュ障ってんだから、どんだけ支配者に都合がいいんだよ。飲み会とかもバンバン断ってたら、やっぱ風当り強いし。上意下達が効率良いのは分かるけど、その同調圧力がきつい。少なくとも自分には。一般的に見れば、この会社は全然マシな方なんだろうけど。

一番の問題はやっぱり人間関係だな。自分は人間関係への不適応が一番ひどい。嫌なやつとは徹底的に避けたい。やっぱり自分は重度の社会不適合者だ。でも、ここまでくるともうその道を突き詰めるしかない気もしている。だって将来食えなくなって餓死するとしても、その方がマシだと思っちゃうくらいなんだから。まあ目の前に餓死が無いし、経験も無いんだけど。でも、日本だとほぼ餓死しないという事情もあるしね。

病院ではうつ状態と診断されたが、明らかに仕事に対する不適応から来ている。だって、休職期間中の、親からの攻撃が無かった時期は、まだ元気だったもの。

 

それと、自分の場合、ほとんど何の努力もせずいい大学、良い会社に入れちゃったのも大きい。大学は、英語でゲームしてたら3日前に願書出して受けたら何か受かっちゃったし、就活も、孫会社受けたら子会社に来ないかって言われて行ったら、かなり親会社と近い待遇だったって感じで(ほとんどが親から子に出向してるだけの社員だからね)。つまり、たいして努力せずに入っちゃったから、比較的簡単に捨てる気になれるんだろう。気張って気張って辿り着いた人なら、もっと縋りついちゃうかもしれない。

 

そう、親からの攻撃が問題だ。まーせめて子供のうち一人くらいは堅実な会社員になってほしいと思ってるんだろう。知るか、んなもん。同情はするが、残念ながらそんな子供たちに育てたのはあんた達だ。

だが、そこは強くなった。微々たるものだが貯金ができて余裕ができたのも一因だが、何か負けなくなったね、うん。どうにかして金をむしりとろうとしてくるけど、親を精神的に切り離した今となっては抵抗はたやすい。

まあ、家は利用させてもらおう。出てけって言われても出ないよ。家賃がかからないってのはやっぱでかいからね。額は減らすけど、引き続き、ちょっとくらいは家にお金いれるつもりだし。家のこともやるし。一人暮らしに比べればかなり安上がりだ。

浮いた分の金を(浮くか分からないけど)将来の投資に回す。

 

ホント、好きにさせてもらおう。今興味があるのは、手堅いところでは介護、葬儀あたりか。特殊清掃はちょっと精神的にハードルが高い。興味はあるけど、なかなか。全く食えなくても良いなら、フリージャーナリストとかかな。インタビュアーとか。でも、人脈とか必要そうだし、ハードル高いかな。

まー、退職してからでないとやっぱりスコトーマがあるから自由に発想できない。それに、退職してある意味追い詰められないとね。探せば、全く存在を認知してなかったような仕事がいっぱいあるらしいし。

好きな仕事を好きなだけしつつ、質素に暮らし、とにかく本とか多く読んで過ごそう。金が貯まれば、場合によってはどっかの大学院にいくかもしれない。今の貯金じゃ到底無理だけど。錆びついた英語のエンジンも、磨けばまた動き出すと思う。

 

英語と言えば、ドラえもんのほんやくコンニャクよろしく、翻訳機能を持った拡声器が成田空港とかで使われ始めてるな。これがもっと進めば、日本語の壁が取っ払われ、外国人労働者が日本で働けるようになり、相対的にこれからの自分の給料も下がりそうだが、やはり細かい文化差やニュアンスの違いをとらえるのは難しいし、そこまでの実用化はまだ先だろうから、まー大丈夫そう。こういうところ、エゴイスティックだな、自分は。

それに、日本人にしかできない仕事ってのも、まああるだろう。

 

いずれにしろ、自分が好きなことを好きなだけやるに限る。一応自分は質素な生活さえすれば、ギリギリまだそれができる環境にいる。多分。質素な生活の強要が、むしろいい方向にいくかもしれないし。瞑想や気功の方向も良い。

何かの研究によると、好きな仕事をしている人の生産性は、嫌いな仕事をしている人のそれの756倍(だったかな?)にもなるらしい。好き嫌い、得意不得意の差が著しい自分には、これは実感としてすごくよく分かる。好きな仕事してても自分の場合そこまで生産性高いとは思わないけど、嫌いな仕事してる時の生産性なんて、むしろマイナスって感じだからな、自分の場合。

 

今となってはプライドも何も吹っ飛んじゃったのもでかいな。正直、高収入でバリバリ仕事してるイケてる俺様!になりたい!みたいに思っちゃってる時期もあったけど、ここまで能力が追っつかないとなると、そんな幻想は消し飛んでしまう。というか、海外でバリバリ活躍できるチャンスがもうちょっと我慢すれば手に入る環境だったけど、結局そのもうちょっとの我慢ができなかったんだよね。そんなガッツ自分にはなかった。というか、目の前にチャンスがあっても、会社員というものの現実を知った今となっては、もう嫌になってるかもしれないけど。

これ、恋愛とかでみんな経験があると思うけど(特に男は)、どうにかして手に入れたい女の子がいて、いざ手に入りそうになった瞬間、何か気分が萎えていくというかね。そういう感じに似てた(そんな恵まれた経験、ほとんどないけど)。

海外でバリバリ!にしても、憧れの女の子にしても、共通してるのはやっぱり「幻想」ってことなんだよね(まあ後者に関しては「ぶどうはすっぱい!」っていう感じもあって、ちょっとミソジニールサンチマンも入ってるだろうけど。いや多大に入ってるだろうけど。でもミソジニールサンチマンが皆無な男は(女も)いないでしょう)。

でも現実を一回でも知ったことがあれば、ね。まーでも僕は忘れっぽいからまた憧れたりしそうだけど。でも一回でも知ってるのと知らないのは結構違うと思う。

会社勤めを一度でもしといてよかったのはこの点くらいかな。現実を知れた。結局、高収入でしかも自分の好きな仕事で、なんて、かなり運が良いんですよ。東電の自殺問題を見るまでもなく。ホントおいたわしい限りだ。

まー後はちょっとくらいは貯金がたまったことかな。僕にとって会社勤めとは、給料が入る徴兵制って感じでした。

 

今、もう辞めてもいいや、って思ってるけど、こう思えたのは(良かったのか悪かったのか、それは死ぬまで分からないけど)、坂口や苫米地、大原扁理さん、仏教系の本や、友人から紹介された本や友人そのものの影響もあるな。

坂口は会社なんていますぐ辞めろって言ってるし(で、何も考えずに辞めて「どうすればいいですか?」ってきた人を彼は「馬鹿か!」と行ってるけど(笑))、苫米地に至っては本気で、嫌な仕事は今すぐ辞めろって言ってます。仏教は貧乏でも幸せになれるって言うし清貧を勧めるし、キリストは「金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」って言ってる(まー僕は金を掴むチャンスがあれば掴むけど)。大原扁理さんは週休5日で月7万で東京で楽しく一人暮らししてる。こういう思考回路がないと、自分も東電の女の子まではいかなくても、近い所の精神状態までいってたかも。

 

でも、ほんともったいないな彼女。ホント同情する。だれか身近な人たちで止められる人はいなかったのかと思ってしまう。この拝金主義国の犠牲者だ。家が貧しかったとはいえ、彼女はまだ若く、東大ブランドもあった。自分の家も貧乏だし、普通に考えて、彼女が自殺しなきゃならないなら、僕なんかとっくに自殺してなきゃいけないわけです。まあ東大だからこその事情や、若いからこそ希望が大きいとか、色々あるのかもしれないから、一概に言えないけど。というか、自分は自殺してなくて彼女は自殺しているということは、やはり彼女の方が苦しみが重かったのだろう。

それでも、人生いくらでも切り開いて行けただろうにと思う。でも、罵倒続きで脳がそういう風になってるときって、ホント視野狭窄になっちゃう。RAS(reticular activating system:網様体賦活系)が悪く働いて、悪い情報しか入ってこなくなるんでしょう。自殺するってよっぽどですよ。ちなみに、勉強できる人ほど変性意識状態に入りやすく洗脳されやすいらしいから、そういうのもあるかも。オウムとか分かり易い例ですね。

僕なんか、今となっては生活保護でも生きてりゃいいって考えです。質素でも、抑圧を受けず、五体満足で飯が食えて、雨風しのげて、図書館で無料で本読めたらそれで十分だよ。でもついこの間までは、やっぱり会社にしがみつく感じになってた。それくらい会社の内部の洗脳は強い。ほとんどの人は洗脳とすら思ってないし。というか、会社というところは一部(突出して能力が高い人や突出して精神がぶれない人)を除いて、そういう人たちで成り立ってるわけです。いちいち疑問を感じてたら精神が持たないし、淘汰されていくし。会社としても、結局は反抗しない従順なロボットを求めてるし。特に日本企業は。

一言でいうと、とにかく、自分にとってはこの会社に居続けることは「不健康」だと思う。

 

長い目で見れば、従順な社員ははホントにロボット(AI)に置き換えられていくだろうし。従順な社員がもしかしたら割を食うかもしれませんよ。そして自分の好きなことやってる人間のほうが、AIで代替できない価値を提供できるようになるかもしれませんよ。アリではなくキリギリスが生き残るかもしれませんよ。というかアリも2割は怠け者ですよ。

まー希望的観測はこの程度にして。

 

何か分岐点ってタイトルなのに、ほぼ辞めるみたいな話になってるな。それだけ辞めたい気持ちが強いってことだな。でもここまで書いておきながら、一か月後、一年後、普通に会社に留まってる自分がいるかもしれない。まーそのあたりは結局分からない。

最悪なのは、辞めたけど何もやる気が起こらないという状況。で、ただ単に貯金を食いつぶすと。でも、それすらも、どうしてもそうなってしまうなら仕方ないや、と思ってる。

お得意の「おまかせコース」でいこう。

概念の発明

そうか、自分の中で、合理的に考えると馬鹿げている、でも捨てたくないというか信じたい考えがあった。まさにオカルトだからこそ、馬鹿げていると考えていたのだが、でも捨てたくなかった。

 

もうマクロではどうしようもなく見える世界で、人間に何かの突然変異が起きて何とかなるんじゃないか、という思考。こんなのはオカルトだ。でも捨てたくなかった。

でも、突然変異という言葉だからオカルトだったのだ。なんか超能力とか、そういう風な感じ(まー完全にオカルトとも言えないが。例えば、オカルト扱いされやすい「気」とか気功とか狭義の意味での霊力みたいなものは、多分間違いなく本当にある)。

 

でも、これが「概念」だったらどうだろう。

つまり、東浩紀の言う「概念の発明」を突然変異になぞらえる。概念の発明はオカルトじゃないですよね。

フランス革命ではルソーの社会契約論とか一般意思とか自由平等博愛とかの概念の発明がウイルスのように人々に広がり、ある意味人間の脳に突然変異を引き起こし、革命をおこした。

ジョンロックの自然権とか抵抗権とか(概念の発明)が、人々にウイルスのように広がり突然変異を引き起こし、をアメリカ独立戦争に導いた。

 

動物レベルで考えると、突然変異って遺伝子レベル、肉体レベルとかのものと考えられがちだが、ここまで脳が発達した人間の場合、それは「情報レベル」で起こるんじゃないか。

動物の突然変異は物理的。人間の突然変異は情報空間。生命や精神が間断なく危機にさらされ、霊心体に過大なストレスがかかるときなのかな。

 

概念の発明と、そしてそれが人々の脳にインセプトされるという突然変異。

これによって社会が変わるという可能性。実際フランス革命アメリカ独立戦争もこれによって起こったのだから。

 

東が言うように、確かに誰かが「シンプルな」概念を発明し、それがウイルスのように広がっていくのだろう。その時代に自分が生きているかは分からないけど。

 

というか、概念の発明以外にも、様々な種類の突然変異の可能性があるんだろうな。

 

普通の言葉←→普通に体を操作すること(これすら念動力という人もいるくらい。ある意味ではそうですな)

普通の言葉の組み合わせによる概念の発明←→突然変異やオカルト的な覚醒

 

新世界より

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包摂は必ず排除を内包している。

民主主義=メンバーシップは必ずメンバーシップの外側を生み出す。

永遠に包摂の範囲を広げていく仏教

 

IPSと呪力 科学のメタファーが呪力

鬼死機構=道徳や倫理観などの歯止めのメタファー

これの崩壊=集団的な歯止めの崩壊(全体主義=民主主義のポピュリズムから生まれた=理性から生まれた)

戦争=エロス(戦友を守れ!)とタナトス(敵兵を殺せ!)を賦活

→カールシュミットの友敵理論

           ⇓

理性や文明の極地(狂騒)が人間の自然的根源の極地を(異常な大規模で)生み出した例(何しろエロスとタナトスを一気に満たしてしまう)→けど悪例→これを良い方向で生み出すには?

 

 

http://www.anitube.se/video/63537/Shin-Sekai-Yori-01

 

焚書とかWGIP(war guilt information program)とか、大衆洗脳の基本は情報検閲

 

http://www.anitube.se/video/63540/Shin-Sekai-Yori-04

 

受動性のデメリット
例えば、神の見えざる手←市場原理・自然原理に任せきるというのは、受動性の極地でもある。→顕著な格差という結果に
→動物ならうまくいくが、人間ではうまくいかない
→人間でうまくいくのは、市場参入者「全員」が合理的でかつ情報を完全に得ているときだけ(経済人)
but そんな状況はあり得ない

***


自己愛 こだわり→仏教では駄目→でも、例えば、これのおかげで食文化で食のグローバル化妨げ、自給率を高く保て、緊急時に備えられる
→自己愛やこだわりが有効に働くことも
仏教も「完全情報」ではない(この世には完全情報はなく、部分情報しかない)。
→ただ、仏教の特殊性は、完全情報は存在しないと主張する部分情報である、という数少ない体系であること
→自らの論理体系をその都度脱臼させる→デリダ脱構築
→納得させてくれない(という良さ)

***

電子マネー ←→ 兌換性のないドル(千九百何年かに米からスイスに金(きん)移動)
googleビットコイン(厳密にはベチユニットのみ) ←→ ヨーロッパ伝統貴族(ハプスブルクなど)や薩長勢力などの支配勢力

⇒預貯金を金(きん)にすべきか→こういったことが下記②

***
 

①生き残ろうとしないこと(仏教的)

②サバイバル技術(実は日本のこれからは、思ってた以上にヤバい。even if 統失の世界没落体験的な妄想の可能性を捨象)
の二本立て
→矛盾しない
・「絶対的な死」と権力や格差などによる「外的要因に基づく死」
※ちなみに統失の世界没落体験的な妄想に一番おおわれているのはヨーロッパ伝統貴族(ハプスブルクなど)や薩長勢力などの支配勢力(自分達がカジ取りしないとやばい、と。実際「本当の支配者」である彼らは「良い人」が多いらしい)
→それに振り回される私達→妄想やめろ→仏教

a)絶対的な死は逃れられない→①
b)外的要因に基づく死は具体的対処策がある→②
→a)とb)も矛盾しない
 bc ①②が実は完全に区別できないから(あたかも結果の平等と機会の平等が完全に区別できないように)。
→①②の振り分けの割合は人それぞれ
→自分は①が強く②が弱い but その時々で変わる so その時々で①②の割合を変える
→タイムラグが生じる
→タイムラグに対しても①②の割合を変えることで対処
→それでもタイムラグが・・・①②で対処・・・繰り返し
→繰り返しの中でタイムラグが小さくなっていく(プランク時間(刹那瞬)に近づけていく→ヴィパッサナ?)


これらすべてを考慮しても①が優勢
→①は「絶対的」だから(かつ精神衛生にも良い)

①②(ab)の並列(A)だけでは説明できないが、①(a)を土台として②(b)が建っている(B)という説明だけでも足りない。
→Bを土台としたAという概念

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②は暑苦しい。②ばかりを考えると、しんどい。
→どうせ死ぬのだから②ばかり考えても仕方ない面も→あきらめも必要
・②を極めても逃れられないが①を極めると逃れられる可能性

「与えられて手もとにあれば自然な態度を持って用い、 なければ強いて求めない」

アンティゴネ(享楽的は時に禁欲的)
 
青い鳥対象a的欲望は求めても得られない。手放してこそ得られたり。)

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幸せになるためではなく、生き残るためだけに時間が過ぎていく→②を重視しすぎ
→一方、そんな人間は山ほどいた(というより歴史上、ほとんどそう)

それは悪い事?不幸せ? but いい面も→近現代に膨張した自我の崩壊もしくは収縮→むしろ幸せになる可能性があるという逆説(幸せというより生きている実感? 幸せ=生きている実感? ユーストレス欠乏症(仮想)の改善)

危機を見つけるメリット

というかそもそも幸せは「無い」→生き残るための技術(坂口)が重要
生き残ることが人生?幸せになるための人生?
→普遍的なのは前者。だがこれも完全に区別できない。



時間がそれだけで過ぎていく→別に良い。実は余り時間もあるし

というかあまり求めない。
「与えられて手もとにあれば自然な態度を持って用い、 なければ強いて求めない」

①②でグルグル輪廻、サバイブとハッピネスでもグルグル輪廻。無限回廊
→それを更にメタで
→全方向性メタ無限回廊