概念の発明

そうか、自分の中で、合理的に考えると馬鹿げている、でも捨てたくないというか信じたい考えがあった。まさにオカルトだからこそ、馬鹿げていると考えていたのだが、でも捨てたくなかった。

 

もうマクロではどうしようもなく見える世界で、人間に何かの突然変異が起きて何とかなるんじゃないか、という思考。こんなのはオカルトだ。でも捨てたくなかった。

でも、突然変異という言葉だからオカルトだったのだ。なんか超能力とか、そういう風な感じ(まー完全にオカルトとも言えないが。例えば、オカルト扱いされやすい「気」とか気功とか狭義の意味での霊力みたいなものは、多分間違いなく本当にある)。

 

でも、これが「概念」だったらどうだろう。

つまり、東浩紀の言う「概念の発明」を突然変異になぞらえる。概念の発明はオカルトじゃないですよね。

フランス革命ではルソーの社会契約論とか一般意思とか自由平等博愛とかの概念の発明がウイルスのように人々に広がり、ある意味人間の脳に突然変異を引き起こし、革命をおこした。

ジョンロックの自然権とか抵抗権とか(概念の発明)が、人々にウイルスのように広がり突然変異を引き起こし、をアメリカ独立戦争に導いた。

 

動物レベルで考えると、突然変異って遺伝子レベル、肉体レベルとかのものと考えられがちだが、ここまで脳が発達した人間の場合、それは「情報レベル」で起こるんじゃないか。

動物の突然変異は物理的。人間の突然変異は情報空間。生命や精神が間断なく危機にさらされ、霊心体に過大なストレスがかかるときなのかな。

 

概念の発明と、そしてそれが人々の脳にインセプトされるという突然変異。

これによって社会が変わるという可能性。実際フランス革命アメリカ独立戦争もこれによって起こったのだから。

 

東が言うように、確かに誰かが「シンプルな」概念を発明し、それがウイルスのように広がっていくのだろう。その時代に自分が生きているかは分からないけど。

 

というか、概念の発明以外にも、様々な種類の突然変異の可能性があるんだろうな。

 

普通の言葉←→普通に体を操作すること(これすら念動力という人もいるくらい。ある意味ではそうですな)

普通の言葉の組み合わせによる概念の発明←→突然変異やオカルト的な覚醒

 

新世界より

www.youtube.com

 

包摂は必ず排除を内包している。

民主主義=メンバーシップは必ずメンバーシップの外側を生み出す。

永遠に包摂の範囲を広げていく仏教

 

IPSと呪力 科学のメタファーが呪力

鬼死機構=道徳や倫理観などの歯止めのメタファー

これの崩壊=集団的な歯止めの崩壊(全体主義=民主主義のポピュリズムから生まれた=理性から生まれた)

戦争=エロス(戦友を守れ!)とタナトス(敵兵を殺せ!)を賦活

→カールシュミットの友敵理論

           ⇓

理性や文明の極地(狂騒)が人間の自然的根源の極地を(異常な大規模で)生み出した例(何しろエロスとタナトスを一気に満たしてしまう)→けど悪例→これを良い方向で生み出すには?

 

 

http://www.anitube.se/video/63537/Shin-Sekai-Yori-01

 

焚書とかWGIP(war guilt information program)とか、大衆洗脳の基本は情報検閲

 

http://www.anitube.se/video/63540/Shin-Sekai-Yori-04

 

受動性のデメリット
例えば、神の見えざる手←市場原理・自然原理に任せきるというのは、受動性の極地でもある。→顕著な格差という結果に
→動物ならうまくいくが、人間ではうまくいかない
→人間でうまくいくのは、市場参入者「全員」が合理的でかつ情報を完全に得ているときだけ(経済人)
but そんな状況はあり得ない

***


自己愛 こだわり→仏教では駄目→でも、例えば、これのおかげで食文化で食のグローバル化妨げ、自給率を高く保て、緊急時に備えられる
→自己愛やこだわりが有効に働くことも
仏教も「完全情報」ではない(この世には完全情報はなく、部分情報しかない)。
→ただ、仏教の特殊性は、完全情報は存在しないと主張する部分情報である、という数少ない体系であること
→自らの論理体系をその都度脱臼させる→デリダ脱構築
→納得させてくれない(という良さ)

***

電子マネー ←→ 兌換性のないドル(千九百何年かに米からスイスに金(きん)移動)
googleビットコイン(厳密にはベチユニットのみ) ←→ ヨーロッパ伝統貴族(ハプスブルクなど)や薩長勢力などの支配勢力

⇒預貯金を金(きん)にすべきか→こういったことが下記②

***
 

①生き残ろうとしないこと(仏教的)

②サバイバル技術(実は日本のこれからは、思ってた以上にヤバい。even if 統失の世界没落体験的な妄想の可能性を捨象)
の二本立て
→矛盾しない
・「絶対的な死」と権力や格差などによる「外的要因に基づく死」
※ちなみに統失の世界没落体験的な妄想に一番おおわれているのはヨーロッパ伝統貴族(ハプスブルクなど)や薩長勢力などの支配勢力(自分達がカジ取りしないとやばい、と。実際「本当の支配者」である彼らは「良い人」が多いらしい)
→それに振り回される私達→妄想やめろ→仏教

a)絶対的な死は逃れられない→①
b)外的要因に基づく死は具体的対処策がある→②
→a)とb)も矛盾しない
 bc ①②が実は完全に区別できないから(あたかも結果の平等と機会の平等が完全に区別できないように)。
→①②の振り分けの割合は人それぞれ
→自分は①が強く②が弱い but その時々で変わる so その時々で①②の割合を変える
→タイムラグが生じる
→タイムラグに対しても①②の割合を変えることで対処
→それでもタイムラグが・・・①②で対処・・・繰り返し
→繰り返しの中でタイムラグが小さくなっていく(プランク時間(刹那瞬)に近づけていく→ヴィパッサナ?)


これらすべてを考慮しても①が優勢
→①は「絶対的」だから(かつ精神衛生にも良い)

①②(ab)の並列(A)だけでは説明できないが、①(a)を土台として②(b)が建っている(B)という説明だけでも足りない。
→Bを土台としたAという概念

***

②は暑苦しい。②ばかりを考えると、しんどい。
→どうせ死ぬのだから②ばかり考えても仕方ない面も→あきらめも必要
・②を極めても逃れられないが①を極めると逃れられる可能性

「与えられて手もとにあれば自然な態度を持って用い、 なければ強いて求めない」

アンティゴネ(享楽的は時に禁欲的)
 
青い鳥対象a的欲望は求めても得られない。手放してこそ得られたり。)

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幸せになるためではなく、生き残るためだけに時間が過ぎていく→②を重視しすぎ
→一方、そんな人間は山ほどいた(というより歴史上、ほとんどそう)

それは悪い事?不幸せ? but いい面も→近現代に膨張した自我の崩壊もしくは収縮→むしろ幸せになる可能性があるという逆説(幸せというより生きている実感? 幸せ=生きている実感? ユーストレス欠乏症(仮想)の改善)

危機を見つけるメリット

というかそもそも幸せは「無い」→生き残るための技術(坂口)が重要
生き残ることが人生?幸せになるための人生?
→普遍的なのは前者。だがこれも完全に区別できない。



時間がそれだけで過ぎていく→別に良い。実は余り時間もあるし

というかあまり求めない。
「与えられて手もとにあれば自然な態度を持って用い、 なければ強いて求めない」

①②でグルグル輪廻、サバイブとハッピネスでもグルグル輪廻。無限回廊
→それを更にメタで
→全方向性メタ無限回廊

自力と他力は同じもの

コネクティングザドット、というかゲシュタルト構築ってのは、ホントにいつの間にか起こってるものだな。
自分の意志で繋げようと思っても、つまりコントロール的にはつなげられない。
非意志的に、受動的に、そして、事後的に、いつの間にか繋がっていて、ある時ふと「あ、いつの間にか繋がってるやん」と気づく。
しかも、かなりシンプル。
でもそのシンプルな論理に辿り着くのには大量のインプットが必要だったように思う。

今日ふと気づいた。大したことではない。
何に気づいたかというと、自力と他力が本質的に同じものだということ。身体レベルでも、精神レベルでも、観念のレベルでも。

自力は例えば初期仏教。例えばヴィパッサナ瞑想。コントロールせず、自分のなかの善にも悪にもただ単にありのままに気づいていく。
他力は例えば浄土真宗南無阿弥陀仏。すべてお任せする。自分のなかの善も悪も全ておまかせする。

結局同じ。
自己の内外のあらゆる善も悪も苦楽も、ただ気付き、ただ自己と世界にお任せする。未分自他に対してお任せする。
最初はそれを見つめる、点にまで抽象化された自分(という目)がある。
多分、その後、その点すらも霧消する。

そして、あくまでその副次的効果として、心が穏やかになる。最初はそれはメタレベルでの穏やかさだけど、その後自然に抽象度の低いレベルでも、つまり周りからも見える形で、その「浄化」が起こる。まーこれは方向性の話で、かつ程度問題だけどね。

自分の中で、自力と他力の対立が、長らく悩ましい問題だった。でも、根元的にというか、ひとつ上の抽象度では、同じものと気づけた。一般的に見ると他力なんだろうけど。
映画ミストの記事で、「何かつながってるような気もするんよねえ」と書いたが、やっばり繋がってた。


この気付きは自分のなかでは大きい。かなり心強い羅針盤を手に入れたかも。羅針盤は手に入った(と思う)。あくまで、かなり大雑把な精度の羅針盤だけど、大雑把な方が良い。柔軟性があって。かなりグルグルグルグル回るんだけど、かなりブレながらも最終的には大体の方向を示す羅針盤。んー、ちょっと違うけど今できる一番近い表現はこれかな。

柔軟性はあるけど、大まかな方向は示してくれる。メタレベルでの方向性。
あとは、「死ぬまで生きる」だけ。どこまで行けるか、どこに辿り着くかは関係ない。

カイン ヨブ

カインは主に言った。

「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」

種はカインに言われた。

「いや、それゆえカインを殺すものは、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

・・・

カインは「地上をさまよい、さすらう者」であるが、殺されないしるしを帯びているのだ。

・・・彼は共同体から追放されたのだが、殺されることのない者、死ぬことさえできぬ者、孤独を噛みしめてひとりで生き抜くしかない者、みずからの運命に対してーヨブと同様ー「なぜなのだ?」と問い続けて生きるしかない者なのだ。

 

神と悪魔の契約により、ヨブは彼が持っているすべてのものを奪い取られた。家畜も家族もしもべもすべて取りあげられ、そのうえからだは腫れ物に覆われ、彼は灰の中を転げ回ることになった。

・・・しかし、ヨブは神を呪わなかった。ただ、ヨブは生きる意味がわからなくなった。日々こんなに辛いのに、なぜ生きているのか。それでも、彼は「神よ、なぜなのですか」と問い続けることをやめなかった。自分は生まれなければよかったのだ、というため息も漏らした。だが、彼は神を呪わなかった。

問い続けること、それが彼の生きる意味となった

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。

 せめて、うまれてすぐに息絶えなかったのか。

 なぜ、膝があってわたしを抱き、

 乳房があって乳を飲ませたのか。

 それさえなければ今は黙して伏し

 憩いを得て眠りについていたであろうに。」

 

他人は存在しない。それは表象に過ぎない。

・・・

僕の周囲には「人間」という名のぼくに似た動物がたくさん生息している。

・・・

他人が存在すると思うから、その存在は僕に重くのしかかるのだ。だが、他人は存在しないかもしれないじゃないか。あたかも存在する「かのような」ものにすぎないかもしれないじゃないか。

・・・

そうだ、ぼくは他人にこだわる必要はないんだ。わかってもらいたい、愛してもらいたい、気づいてもらいたい・・・という要求を持つ必要はないんだ。ぼくのまわりにうごめく人々は、ただぼくに「対している」だけの存在なんだ。

・・・

他人とはぼくにとってこうした「意味の固まり」にすぎないということだ。すなわち「表象」にすぎないということだ。こう完全に悟るや、ぼくは他人の恐怖から逃れることができたんだ。他人は僕に何の危害を加えることもできない。いや、ぼくに指一本触れることはできないんだ。なぜなら彼らはただの意味にすぎないのだから。僕の前で怒り狂っていても、そういう意味としてぼくに対しているだけだ。

・・・

森羅万象は僕の表象に過ぎない。ぼくはこのことを確信した。そしてぼくは誰からも危害を加えられない存在になった。完全に安全になった・・・

僕は自分の安全と引き換えに、他人の存在を、世界の存在を失った。

・・・

なんと味気なく、すべてはスムーズに進むことだろう。他人はあまりにも「気にならない」存在に変貌してしまった。

・・・

こうして世界の光景はさっぱりしたものになった。ぼくは他人を一人残らずそこから追放した。だが、他人から振り回され、他人の攻撃におじけづき、他人の愛に怯えていた僕が、あえぎあえぎ辿り着いたこの地点は、なんと寒々としたものなのであろう。そこは絶対零度の地点である。ぼくはすべての他人を完全に「殺して」しまった。ぼくを苦しめ続けた他人を、完全に抹殺してしまった。世界に存在するものはぼくしかいなくなった。荒涼とした光景だった。いや、ぼくは他人との相関であるのだから、その世界にはぼくさえ存在しないのだ。存在するものは何もなかった。ただの「意味の固まり」が浮遊しているだけだった。

・・・

いっさいの他人を遮断して孤独城を築き上げる技術・・・それはなんと寂しい技術なのだろう。だが、そうしなければぼくは生きてこれなかった。だから、この寂しい技術によってうち建てられた寂しい城に住まうこと、それをぼくの運命として受け入れなければならないのだ。 

 

思考の断片②

思考の断片で書いた親に関すること、一時の感情に任せて書いたら、やはりかなり偏っている。いや、論理的には別に突飛なことを言っているわけではないが、感情が抜け落ちている。感情が戻った現在、何て非人間的なことを考えていたのかと思う。現在、会社は昼までの勤務にしてもらっているのだが、帰りの電車の中で、突如さっきのような非人間的な思考が自分を支配した。世の親がどんな思いで子を育てているのか、育ててきたのか、育て始めようとしているのか、という想像力が全く駆動してない状態で書いた。

 

やはり、結果として悲劇になってしまったとしても、親が子を生んだ時の子を慈しむ気持ちの深さを無視しては駄目だな。親が子をスポイルせざるを得ない、その社会環境をこそ憎むべきかもしれない。

いや、受苦的疎外論の立場に立てば、どんな社会が実現しようが悲劇は起こる。子育てに関しても。ならば、その必然性こそ、憎むべき対象。

いやいや、それが必然であるならば、その必然を受け入れる方向にしか解決はない。親も子も。子育てにおいて発生する、必然的な、場合によっては致命的な誤謬も、社会形態によるその発生確率に差はあれ、必然ならば、その当事者はそれを何とか受け入れるしかない。もちろん、ここは強調しておかなければならないが、こう考えたからと言って、社会形態によってその発生確率は変わるのだから、これを最小限に留めるように努力することを放棄することを意味しない。親子間でも、しつけの域を超えた虐待、子供を生涯にわたって、(ある種の)精神的不具者にしてしまうような行為を絶対に許してはならないのは当たり前だろう。例え、受苦的疎外論が真実であったとしても、である。

ただ、これは受苦的疎外論の勝手な深読みでしかないが、問題は、どんな社会環境が、子育てが、実現すれば悲劇の発生確率を最小限に食い止められるか、という問いへの解は、一見はっきりしているように見えても、かなり未知数であることだろう。ここで、子育てと世直しがリンクする。子育ても世直しも、これこそ子のため、人々のため、と思って為したことが、しばしば悲劇を招く。

これは、人間があらゆる意味で、他の動物と比べて「過剰」である、別言すれば、本能が壊れている、ことから起こるのだろう。「本能」の部分の解読やその御し方にはまだ解が何とか見つかりやすいかもしれないが、「過剰」の部分の解読や御し方はあまりに複雑怪奇な気がする。しかし、世の中には異様に感度が鋭い、アンテナがビンビンの人がいて、こういう人たちは「過剰」にも対応しうる。過剰に過剰で対応しているのかな。そして、場合によっては対応法を伝授し得る。しかし、これを最も汎用的な伝達ツール(現代では特に)である言語によって伝えようとすれば、これは言語レベルを超えたものを言語で説明しようとするので、しばしば難解、もしくは奇妙奇天烈に見えるものになると思う。それ以外の方法として、瞑想や自然に還るなど、様々な知を人間は蓄積してきた。しかし、これは発信者も受信者もマイノリティにならざるを得ないと直感する。過剰や未規定性がどんどん排除されていく現代においては特に、人々はそれらから目を背けてしまうし、背けるように仕向けられる。

 

とにかく悲劇に関してはパターンは2種類あるように思う。

①以前の悲劇に比べれば圧倒的にマシであるにもかかわらず、その悲劇の記憶が薄れていくにつれて、マシであることを忘れてしまうという、(自分のような)愚かな健忘症が原因である場合

②①のような人為的ミスではなく、根本的に解決できない世界や人間の未規定性に対して、人類の知が圧倒的に及ばない場合。場合というか、これはデフォルトの真実だ。

 

何かの格言であった「変えられるものを変える知恵を。変えられないものを受け入れる勇気を」みたいな。

①を克服する知恵を。②を受け入れる勇気を。でも、②も克服、というか共存できるなら、その知恵を与えたまえ。

 

***

 

正気である間に、狂気に陥る前に、しっかりと狂気について考えておかねばならない。

生に加護を受けている間に、死に憑りつかれる前に、しっかりと死を見つめなければならない。

これらは強迫観念だろうか。

 

***

 

僕は19くらいからたまに一人酒をしているが、最近酒に酔うのが嫌いになってきた。一時凌ぎの安楽であるという事実が最近身に迫ってくる。年をとったからだろうか。

最近、死ぬまでホントにあっという間かもしれない、と思う。一方で、まだまだ長いような気もする。実際いつ死ぬか分からないのだから、これで良しとする。

 

***

 

ある人は言う。人間は自然から生まれた。人間も自然の一部。自然に還ろう。人間の生は宇宙の塵のようなもの。 近現代に異常に膨張してしまった自我を、妄想を、自己幻想を薄めていこう。

ある人は言う。文明は人間の過剰さの要請として膨張してきた。これを否定するは人間を否定するに同じ。

ある人は言う。だからと言ってそれが非人間性を生み出すならば制御しなければならない。

ある人は言う。非人間的な環境によって痛めつけられた自我、いや、自我がなかったとしてもそこで生じる痛みが、人間を覚醒させる可能性がある。文明による非人間性が原始的なレベルを超越した人間性を覚醒させる可能性。

 

僕は最初の人の意見は堅牢、中二人の意見は凡庸、最後の人の意見は未規定だと思う。

最後の人の意見。これは何か。当たり前の話だけど、恐らく人類も地球も、今、前代未聞の極地にいる。もうこれはあらゆる意味で。

そこから非人間性が生まれたとしても、これは人類の歴史の中で一度も起こっていないことなのだ。この、中世以前と比べ異様で歪な世界が、人間に何らかの突然変異を起こさないと、誰が断言できるだろうか。

寄る辺を失い絶望する自我、霊心体に限界を超えたストレスがかかったとき、何かのストッパーが外れる可能性がある。過去への回帰ではなく未知への突入という道が無いとも言い切れない。

 

はっきり言って、現代のこの異常な状況に対して、基本的に打つ手はないのではないかと直感している。特にマクロでは。では、文明に極度に適応した者や、文明から何とか避難できたものだけが生き残るのだろうか。そうとも限らない。人間とは、葦のように脆い存在でありながら、異様な未規定性を秘めてもいる。適応も避難もできず、ちゅうぶらりんで境界線を行くものが、どういう進化を辿るか分からない。突如、眠っていた潜在的な未規定な力が人々の中で目覚め始めるかもしれない。それが邪悪なものであったとしても、興味深い。

 

 内田樹の日本霊性論も、そういう未規定な力に注視しているように思う。めちゃくちゃ面白い本だ。黄泉の犬もそう。しかし、一方でその新鮮さは、過去を再発見する新鮮さだ。歴史的に考察された未規定性。

過去に学べ。何千年・何万年と積み上げられた人類・自然の叡知に学べ。人間の根源的本能に学べ。

大いに賛成。だが果たしてそれだけか?

過去に学んで、現代の狂騒を鎮めるだけが道なのか。

文明が狂騒を究め、霊心体が死ぬほどになったときに開花する何かがあるのではないか。そんなことも考える。狂ってズタボロになってしまえばいいのではないか。体までもが生きるのを諦める瞬間に、突如活発に動き出す何か、というイメージ。タナトスに圧倒的に支配された時に、生まれてくる、全く新しい生の根源。

 

まーオカルトですね(笑)でも、道がないならそれを信じればいいのではないかな。可能性は低いかもしれないが、逃げ場がないなら、所詮一回の生、賭け事に使ってみてもよいのではないかな。

 

僕は過去の賢人に学びつつも、一方で文明に絡めとられることも否定はしない。勝手に体が動くほどの何かが僕を突き動かし、歴史の賢人たちに連なるように生きる・・・ということが現在はない。

僕はほとんどいつでも、事後的、受動的です。結果として動いていないのなら、結局その程度なのだ、というのが僕の考えです。

そして、この考えをすると、あらゆることを「頑張らなく」なる。そして、その分、世間の常識として手に入るものが手に入らなくなって行ったりもする。世間から静かに密かに逸脱していく。でも動かないのだから、文明からは逃れられず、引き裂かれる。ちゅうぶらりんの境界線上の孤独な道。霊心体にかかる多大なストレス。

でも僕は、それが事後的な結果ならば受動的にそれを受け入れるというスタンスです。だって、ホントに限界なら否応なく人間は動くか覚醒するのだから。出なければ死ぬが、世界がそれを選びとったのならそれが「答え」だ。

 

最近思うのだが、やはり僕は異端者なのだと思う。普通に会社通ってても、根源的に異端者。

 

 

全てをおまかせする。自然・文明という二項対立ではなく、その両方に引き裂かれる自分を恐怖しつつ、興味深く観察している、というマゾヒスティックな状況です。

自然も文明も社会も世界も自分も時間も非時間も全部ひっくるめて宇宙と呼ぶとするならば、僕は宇宙に身を委ねようとしているということになるんだろうか。

 

全てをおまかせする。

全てをおまかせできない自分もおまかせする。

メタのメタのメタの更にメタまでずーっとおまかせする。

結局、こういう生き方しかできない。いや、これはただそう認識するだけという話でもある。

現代がコンクリジャングル的な文明砂漠のような地獄でも、それはそれで趣がある。狂っていても趣がある。無意味・非意味も趣がある。不幸も悲劇も絶望も趣がある。

「柳は緑、花は紅」

もうここまで来てしまった。しかも体はそこから逃れようとしない。

「あっそう。おまかせします」

 

***

 

楽天性と学習性無力感の表裏一体性。



デラシネ 根なし草