カイン ヨブ

カインは主に言った。

「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」

種はカインに言われた。

「いや、それゆえカインを殺すものは、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」

主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。

・・・

カインは「地上をさまよい、さすらう者」であるが、殺されないしるしを帯びているのだ。

・・・彼は共同体から追放されたのだが、殺されることのない者、死ぬことさえできぬ者、孤独を噛みしめてひとりで生き抜くしかない者、みずからの運命に対してーヨブと同様ー「なぜなのだ?」と問い続けて生きるしかない者なのだ。

 

神と悪魔の契約により、ヨブは彼が持っているすべてのものを奪い取られた。家畜も家族もしもべもすべて取りあげられ、そのうえからだは腫れ物に覆われ、彼は灰の中を転げ回ることになった。

・・・しかし、ヨブは神を呪わなかった。ただ、ヨブは生きる意味がわからなくなった。日々こんなに辛いのに、なぜ生きているのか。それでも、彼は「神よ、なぜなのですか」と問い続けることをやめなかった。自分は生まれなければよかったのだ、というため息も漏らした。だが、彼は神を呪わなかった。

問い続けること、それが彼の生きる意味となった

「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。

 せめて、うまれてすぐに息絶えなかったのか。

 なぜ、膝があってわたしを抱き、

 乳房があって乳を飲ませたのか。

 それさえなければ今は黙して伏し

 憩いを得て眠りについていたであろうに。」

 

他人は存在しない。それは表象に過ぎない。

・・・

僕の周囲には「人間」という名のぼくに似た動物がたくさん生息している。

・・・

他人が存在すると思うから、その存在は僕に重くのしかかるのだ。だが、他人は存在しないかもしれないじゃないか。あたかも存在する「かのような」ものにすぎないかもしれないじゃないか。

・・・

そうだ、ぼくは他人にこだわる必要はないんだ。わかってもらいたい、愛してもらいたい、気づいてもらいたい・・・という要求を持つ必要はないんだ。ぼくのまわりにうごめく人々は、ただぼくに「対している」だけの存在なんだ。

・・・

他人とはぼくにとってこうした「意味の固まり」にすぎないということだ。すなわち「表象」にすぎないということだ。こう完全に悟るや、ぼくは他人の恐怖から逃れることができたんだ。他人は僕に何の危害を加えることもできない。いや、ぼくに指一本触れることはできないんだ。なぜなら彼らはただの意味にすぎないのだから。僕の前で怒り狂っていても、そういう意味としてぼくに対しているだけだ。

・・・

森羅万象は僕の表象に過ぎない。ぼくはこのことを確信した。そしてぼくは誰からも危害を加えられない存在になった。完全に安全になった・・・

僕は自分の安全と引き換えに、他人の存在を、世界の存在を失った。

・・・

なんと味気なく、すべてはスムーズに進むことだろう。他人はあまりにも「気にならない」存在に変貌してしまった。

・・・

こうして世界の光景はさっぱりしたものになった。ぼくは他人を一人残らずそこから追放した。だが、他人から振り回され、他人の攻撃におじけづき、他人の愛に怯えていた僕が、あえぎあえぎ辿り着いたこの地点は、なんと寒々としたものなのであろう。そこは絶対零度の地点である。ぼくはすべての他人を完全に「殺して」しまった。ぼくを苦しめ続けた他人を、完全に抹殺してしまった。世界に存在するものはぼくしかいなくなった。荒涼とした光景だった。いや、ぼくは他人との相関であるのだから、その世界にはぼくさえ存在しないのだ。存在するものは何もなかった。ただの「意味の固まり」が浮遊しているだけだった。

・・・

いっさいの他人を遮断して孤独城を築き上げる技術・・・それはなんと寂しい技術なのだろう。だが、そうしなければぼくは生きてこれなかった。だから、この寂しい技術によってうち建てられた寂しい城に住まうこと、それをぼくの運命として受け入れなければならないのだ。 

 

思考の断片②

思考の断片で書いた親に関すること、一時の感情に任せて書いたら、やはりかなり偏っている。いや、論理的には別に突飛なことを言っているわけではないが、感情が抜け落ちている。感情が戻った現在、何て非人間的なことを考えていたのかと思う。現在、会社は昼までの勤務にしてもらっているのだが、帰りの電車の中で、突如さっきのような非人間的な思考が自分を支配した。世の親がどんな思いで子を育てているのか、育ててきたのか、育て始めようとしているのか、という想像力が全く駆動してない状態で書いた。

 

やはり、結果として悲劇になってしまったとしても、親が子を生んだ時の子を慈しむ気持ちの深さを無視しては駄目だな。親が子をスポイルせざるを得ない、その社会環境をこそ憎むべきかもしれない。

いや、受苦的疎外論の立場に立てば、どんな社会が実現しようが悲劇は起こる。子育てに関しても。ならば、その必然性こそ、憎むべき対象。

いやいや、それが必然であるならば、その必然を受け入れる方向にしか解決はない。親も子も。子育てにおいて発生する、必然的な、場合によっては致命的な誤謬も、社会形態によるその発生確率に差はあれ、必然ならば、その当事者はそれを何とか受け入れるしかない。もちろん、ここは強調しておかなければならないが、こう考えたからと言って、社会形態によってその発生確率は変わるのだから、これを最小限に留めるように努力することを放棄することを意味しない。親子間でも、しつけの域を超えた虐待、子供を生涯にわたって、(ある種の)精神的不具者にしてしまうような行為を絶対に許してはならないのは当たり前だろう。例え、受苦的疎外論が真実であったとしても、である。

ただ、これは受苦的疎外論の勝手な深読みでしかないが、問題は、どんな社会環境が、子育てが、実現すれば悲劇の発生確率を最小限に食い止められるか、という問いへの解は、一見はっきりしているように見えても、かなり未知数であることだろう。ここで、子育てと世直しがリンクする。子育ても世直しも、これこそ子のため、人々のため、と思って為したことが、しばしば悲劇を招く。

これは、人間があらゆる意味で、他の動物と比べて「過剰」である、別言すれば、本能が壊れている、ことから起こるのだろう。「本能」の部分の解読やその御し方にはまだ解が何とか見つかりやすいかもしれないが、「過剰」の部分の解読や御し方はあまりに複雑怪奇な気がする。しかし、世の中には異様に感度が鋭い、アンテナがビンビンの人がいて、こういう人たちは「過剰」にも対応しうる。過剰に過剰で対応しているのかな。そして、場合によっては対応法を伝授し得る。しかし、これを最も汎用的な伝達ツール(現代では特に)である言語によって伝えようとすれば、これは言語レベルを超えたものを言語で説明しようとするので、しばしば難解、もしくは奇妙奇天烈に見えるものになると思う。それ以外の方法として、瞑想や自然に還るなど、様々な知を人間は蓄積してきた。しかし、これは発信者も受信者もマイノリティにならざるを得ないと直感する。過剰や未規定性がどんどん排除されていく現代においては特に、人々はそれらから目を背けてしまうし、背けるように仕向けられる。

 

とにかく悲劇に関してはパターンは2種類あるように思う。

①以前の悲劇に比べれば圧倒的にマシであるにもかかわらず、その悲劇の記憶が薄れていくにつれて、マシであることを忘れてしまうという、(自分のような)愚かな健忘症が原因である場合

②①のような人為的ミスではなく、根本的に解決できない世界や人間の未規定性に対して、人類の知が圧倒的に及ばない場合。場合というか、これはデフォルトの真実だ。

 

何かの格言であった「変えられるものを変える知恵を。変えられないものを受け入れる勇気を」みたいな。

①を克服する知恵を。②を受け入れる勇気を。でも、②も克服、というか共存できるなら、その知恵を与えたまえ。

 

***

 

正気である間に、狂気に陥る前に、しっかりと狂気について考えておかねばならない。

生に加護を受けている間に、死に憑りつかれる前に、しっかりと死を見つめなければならない。

これらは強迫観念だろうか。

 

***

 

僕は19くらいからたまに一人酒をしているが、最近酒に酔うのが嫌いになってきた。一時凌ぎの安楽であるという事実が最近身に迫ってくる。年をとったからだろうか。

最近、死ぬまでホントにあっという間かもしれない、と思う。一方で、まだまだ長いような気もする。実際いつ死ぬか分からないのだから、これで良しとする。

 

***

 

ある人は言う。人間は自然から生まれた。人間も自然の一部。自然に還ろう。人間の生は宇宙の塵のようなもの。 近現代に異常に膨張してしまった自我を、妄想を、自己幻想を薄めていこう。

ある人は言う。文明は人間の過剰さの要請として膨張してきた。これを否定するは人間を否定するに同じ。

ある人は言う。だからと言ってそれが非人間性を生み出すならば制御しなければならない。

ある人は言う。非人間的な環境によって痛めつけられた自我、いや、自我がなかったとしてもそこで生じる痛みが、人間を覚醒させる可能性がある。文明による非人間性が原始的なレベルを超越した人間性を覚醒させる可能性。

 

僕は最初の人の意見は堅牢、中二人の意見は凡庸、最後の人の意見は未規定だと思う。

最後の人の意見。これは何か。当たり前の話だけど、恐らく人類も地球も、今、前代未聞の極地にいる。もうこれはあらゆる意味で。

そこから非人間性が生まれたとしても、これは人類の歴史の中で一度も起こっていないことなのだ。この、中世以前と比べ異様で歪な世界が、人間に何らかの突然変異を起こさないと、誰が断言できるだろうか。

寄る辺を失い絶望する自我、霊心体に限界を超えたストレスがかかったとき、何かのストッパーが外れる可能性がある。過去への回帰ではなく未知への突入という道が無いとも言い切れない。

 

はっきり言って、現代のこの異常な状況に対して、基本的に打つ手はないのではないかと直感している。特にマクロでは。では、文明に極度に適応した者や、文明から何とか避難できたものだけが生き残るのだろうか。そうとも限らない。人間とは、葦のように脆い存在でありながら、異様な未規定性を秘めてもいる。適応も避難もできず、ちゅうぶらりんで境界線を行くものが、どういう進化を辿るか分からない。突如、眠っていた潜在的な未規定な力が人々の中で目覚め始めるかもしれない。それが邪悪なものであったとしても、興味深い。

 

 内田樹の日本霊性論も、そういう未規定な力に注視しているように思う。めちゃくちゃ面白い本だ。黄泉の犬もそう。しかし、一方でその新鮮さは、過去を再発見する新鮮さだ。歴史的に考察された未規定性。

過去に学べ。何千年・何万年と積み上げられた人類・自然の叡知に学べ。人間の根源的本能に学べ。

大いに賛成。だが果たしてそれだけか?

過去に学んで、現代の狂騒を鎮めるだけが道なのか。

文明が狂騒を究め、霊心体が死ぬほどになったときに開花する何かがあるのではないか。そんなことも考える。狂ってズタボロになってしまえばいいのではないか。体までもが生きるのを諦める瞬間に、突如活発に動き出す何か、というイメージ。タナトスに圧倒的に支配された時に、生まれてくる、全く新しい生の根源。

 

まーオカルトですね(笑)でも、道がないならそれを信じればいいのではないかな。可能性は低いかもしれないが、逃げ場がないなら、所詮一回の生、賭け事に使ってみてもよいのではないかな。

 

僕は過去の賢人に学びつつも、一方で文明に絡めとられることも否定はしない。勝手に体が動くほどの何かが僕を突き動かし、歴史の賢人たちに連なるように生きる・・・ということが現在はない。

僕はほとんどいつでも、事後的、受動的です。結果として動いていないのなら、結局その程度なのだ、というのが僕の考えです。

そして、この考えをすると、あらゆることを「頑張らなく」なる。そして、その分、世間の常識として手に入るものが手に入らなくなって行ったりもする。世間から静かに密かに逸脱していく。でも動かないのだから、文明からは逃れられず、引き裂かれる。ちゅうぶらりんの境界線上の孤独な道。霊心体にかかる多大なストレス。

でも僕は、それが事後的な結果ならば受動的にそれを受け入れるというスタンスです。だって、ホントに限界なら否応なく人間は動くか覚醒するのだから。出なければ死ぬが、世界がそれを選びとったのならそれが「答え」だ。

 

最近思うのだが、やはり僕は異端者なのだと思う。普通に会社通ってても、根源的に異端者。

 

 

全てをおまかせする。自然・文明という二項対立ではなく、その両方に引き裂かれる自分を恐怖しつつ、興味深く観察している、というマゾヒスティックな状況です。

自然も文明も社会も世界も自分も時間も非時間も全部ひっくるめて宇宙と呼ぶとするならば、僕は宇宙に身を委ねようとしているということになるんだろうか。

 

全てをおまかせする。

全てをおまかせできない自分もおまかせする。

メタのメタのメタの更にメタまでずーっとおまかせする。

結局、こういう生き方しかできない。いや、これはただそう認識するだけという話でもある。

現代がコンクリジャングル的な文明砂漠のような地獄でも、それはそれで趣がある。狂っていても趣がある。無意味・非意味も趣がある。不幸も悲劇も絶望も趣がある。

「柳は緑、花は紅」

もうここまで来てしまった。しかも体はそこから逃れようとしない。

「あっそう。おまかせします」

 

***

 

楽天性と学習性無力感の表裏一体性。



デラシネ 根なし草

 

思考の断片

変顔は自我崩壊の喜び

 

タイタニック号に乗り合わせた死刑囚

 

主体不在の性は女性の専売特許(やおい腐女子)、かつ、男性は主体を立てないと性にコミットできないと思いきや、マルホランドドライブを見るとそうでもない。レズシーンが良かった。

 

やはり、一人だけを愛すって無理がある気がする。一夫一婦制って不自然。

①まず、愛する能力、愛の量に個人差がありすぎる

②愛する能力、愛の量が少ない人にとっても、一夫一婦制じゃないほうが有利(よく、愛人ではいたいけど妻にはなりたくない。めんどうだから。という声を聞きますね。まあ逆もあるんだけど)


人間には二種類いる。

自分が死ぬことを意識できている人間と、意識できていない人間。


世の中ってのはどうしようもないんだな。例えば、こんな絶望的な時代に、よっぽど財力があったり、子供を立派に育てられるだけの人格があったりしないかぎり、親にはならない、という懸命な選択をする人が増えれば、搾取される者も減り、マシな世の中になるという考えが、僕には昔あった。でも、親も自分にはできる、と思って生む場合がほとんどだ。しかし、この腐った世の中ではそうはいかない。でも、ここで親の認識力不足を攻めてもせんない。今の若い世代はだいぶ現実的になったとはいえ、これからも認識力不足の親が子供を生み、悲劇は再生産されるだろう。認識力をもって搾取される子供を生まないという懸命な判断ができる人間が増えれば、搾取の主体も困るな。でも、とりわけ人生万事滞りなく運び、平和ボケして認識力を失った人たちは、自分には愛がたっぷりある、ちゃんと育てられると勘違いして、最後には子供から自らの愛の不足、愛と見えたものが実は醜いエゴだったことを突きつけられ、自暴自棄に陥るか、ズルく目を背けて逃げようとするだろう。だが、逃げられやしない。産まれさせられてしまったと感じてしまう子の恨みは深い。ちゃんと清算されるまで、絶対に逃がさないだろう。清算するには地獄の苦しみが伴う。耐えられず大抵の親は自己弁護に走る。所詮親の愛ってその程度のもの。大体、自分の子供だけ愛するって時点で、エゴ満載だし、そんなのが本当の愛なわけないし、そんな程度のやせこけた愛で子供を育て上げられるという勘違いも自己中心的で自分に対して甘い。

歴史的、世界的に見ても、母性とか親の愛ってのは、幻想だと思う。一部の素晴らしい人を除いては。子供の幸せに全責任を負う覚悟のない人が子供を生むべきではない。言っちゃ悪いが、バカが子供を生んじゃいけない。でも実際はバカだからこそ、認識力が低い人間こそ、子供を生む。認識力が高く、内省力があり、謙虚な人間は子供を生むことに慎重になるはずだ。ホントに自分にその覚悟はあるのか?と。

結局、バカ親の不幸な子供のほうが多く再生産される。まーでもそういうのは結局社会の下層に配置される。子供はかわいそうだけど、親と同じ愚かな選択をしたやつは結局同じ。自業自得。

まーでも結局どーしよーもない。愛というより認識力の問題だから。バカは結局バカだから。学ぼうとしない姿勢は罪にすら値する。無知ですまされる問題ではない。かわいそうだけど。

警鐘の意も込めて、あえて過激に発言しました。

短歌

もうすぐ会社に復帰しそうだ。もしかしたら頓挫するかもしれないが、まあその時はその時だ。

 

会社に復帰したら、また時間が無くなる。残業はほぼないので、ドアツードアで往復4時間近くかかるのが主な原因なんだが。会社からの距離が中途半端なので、あとちょっとのところで寮には入れないことになったのが残念。アパート借りようかな。

 

また時間が無くなるので、自分の感情や思ったことや発見などを、短い言葉で表せたらいいな、と思った。で、前の記事で見たように、西行が歌を作っていた(僕が好きな良寛さんも大量の歌を作っていた)ので、僕もやってみようと思う。

短歌なら通勤中にひょいひょいと作ってスマホで打てる。しかも、さっき風呂に入りながらちょっと歌を考えていたのだが、自分の気持ちや洞察などを短歌にすると、それらが驚くほど客観化される事に気付いた。単なる言語化以上だ。寂聴さんの言う通りだな。これはすごい発見。やっぱり何千年も残ってるものは、それだけの意味があるんだなー。

 

ということで、短歌なんか何も知らないど素人が恥ずかしい歌を作ってみる。

 

いたずらに 過ぎゆく日々を 憂えども

 この空虚こそ 生の本性

 

世の人は 我を何とも 言わば言え

 我が人生を 我すら知らず

坂本龍馬の歌のパロディです。

 

何処へと 枯葉を運ぶ 冬風に

 我も何処へ 運ばると尋ぬ

 

生きてるか 死んでるのかも 知らぬ中

 生を選ぶは 何者の仕業

 

感謝して 恨み蔑んだ 我が親も

 今はしわくちゃ 背中も小さく  

 

さながらに 糸の切れたし 凧のやう

 人が求むる 自由とは何か 

 

パソコンに 映画にラジオ 漫画に本

 情報過多で 神経高ぶ 

 

20年 お世話になりし 我が部屋は

 今も飽きずに 我を見下ろす

 

世の波に 乗れずに溺れし 海中は

 我が心と似  魑魅魍魎の巣

 

何か恥ずかしいな。でも面白い。

孤独、客観視、自己観察について

瀬戸内寂聴『孤独を生ききる』より

遁世の閑居の孤独に耐えかねた心情が歌になって昇華されてしまうとき、西行の孤独は既に客観化され、孤独から抜け出しているのです。

西行にとっては、仏道や自然以上に、歌が孤独を慰める何よりの友となっていたわけです。

出ましたね。客観視(見る(診る)神=【妄想】における他者)による感情の昇華。歌を擬人化している。

西行と言えば、哲学者の中島義道の本『孤独について』にも出てきた。

数年前、奥吉野の西行庵を訪れた。桜が散り落ちたころで、それはいかにもひっそりとうずくまるようにあった。完全に世間から隔絶したところである。夜は恐ろしいほどの闇が支配するであろう。私は、そこには住めないと直感した。私の求めている「孤独」はこのようなかたちではない。

西行のように強靭な人は、他人から完全に離れて文字通り独りで生活すればいいと思う。しかし、私のようにそれほど強くない人は、孤独を実現するために、孤独を理解してくれる家族や知人によって幾重にも補強する必要がある。私はそれを三十年にわたって求め続け、今ようやくそれを実現し始めたのである。

と言っても本から垣間見える中島の生活は、かなり孤独なものだけれども。

 

再び『孤独を生ききる』より

私たちが日ごろ孤独をそれほど切実に感じないで、のんきに暮らしていけるのは、孤独が怖いから、つとめてそれを見て見ぬふりをして、ごまかしているからです。 

・・・

嵯峨野で・・・虫の音が次第に数を減らし、ふっと気が付いたら一声もしなくなっているのに気が付きます。

そんな時、この嵯峨野の一隅の庵の中でたった一人いる自分の姿を、幽体離脱者の目で眺める自分の、もう一つの目を感じることがあります。その目から見たら、この私の姿はひどく孤独で寂しそうに見えるだろうなと思います。ところが現実の私は少しも寂しくない。むしろ、私自身は孤独を愉しんで、すがすがしい気分なのです。でも、それはわたしがもう古希の尼だし、そのうえ小説家だからなので、誰にでもすすめられる形ではないのです。

まだ若いあなたは、もっと多くの挫折や蹉跌にぶつかっても、俗世で生き続けてほしいのです。多く愛し、多く悩んだ人は、その分他者の悲しみや苦しみを思いやる力がそなわります。何度も言うように思いやる想像力こそ「愛」なのです。

 またまた出ましたね。幽体離脱者の目=見る(診る)神=【妄想】における他者

ここでは他に面白いことも言ってる。最後の段落ですが、これは、(とここでは言ってますが文脈からしては愛というより慈悲です。まー瀬戸内さんは恋多き人でしたから、その道を究めた結果、愛と慈悲の融合する境地に辿り着いたのかもしれませんが、仏教者ならばここは慈悲という言葉を使うのが正しいと思います。まーでも一般向けにこの言葉を用いたのでしょう)とは認識力である、ということを言っているのだと思う。

愛とか慈悲というと、何か内から湧いてくる感情で、能力とは違うものと思われがちだけど、瀬戸内さんは知らず知らずのうちに、そういう認識に疑問符をつけている。

愛情が深いから他者の痛みを認識できるのではなく、認識力があるから愛情が深いということですね。いくら利他性があっても、認識力がないと、その利他行為は頓珍漢なものになりやすいわけで。いや、そもそも認識できないと、そのこと(他者の痛み)に対してコミットすることはできないわけで。

 

 

見る神的な客観性ではなく(これを身体的客観性とでも呼びましょうか)、論理的客観性によって孤独を語る言葉もある。これはまあ孤独に関する格言とかが多い。

格言ではないが、論理的客観性によって孤独を語った苫米地の言葉も興味深い。身体的客観性による孤独解体とはまた趣が違う。

・・・孤独というのは主観的な発想だということです。・・・西洋的個人主義が礎にあるから、自分を中心にして考えられているのです。この世に本当に孤独な人なんているのでしょうか。みんな誰かと関係して生きているはずです。

・・・

六十六億人(2015年当時)も地球上に人がいるのに、なぜ自分が孤独だと思うのでしょうか。つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 

 望むと望まず都に関わらず、みんな誰かと関係して生きている、というのは「縁起」の考えですね。部屋で一人で引きこもっていても、このベッドを作ったのは誰だ、あのオーディオを作ったのは誰だ、と想像力を膨らませれば、一人で生きているとは言えないわけです。

この点については、僕の場合、ある言葉について穿った見方をすることで、近い認識を得たことがある。

誰でも聞いたことがある「人は一人では生きていけない」ってやつですね。これは「だから人と大いに関わって生きていきましょう」という言葉が後続するはずなんですが、僕は違った読み方をします。

つまり、「人は一人では生きていけない」「じゃあ今僕たちは生きているから一人じゃないということですね。」って(笑)。どうでしょう、ちょっと「縁起」の匂いがしませんか。

 

孤独に関する格言でかなり的を射てると思ったのは、正確には覚えていないが、

「孤独自体が怖いのではない。人が孤独を恐れるのは、むしろその条件に対してである」みたいなのがあった。例えば、大学生がぼっち飯を見られたくないから、便所飯をするとか。OLのランチメイト症候群とかもありますね(ランチメイト症候群といえば、ドラマ『カルテット』のすずめちゃんは全くそんなこと気にしてなかったな。女子の方がぼっちを多分気にすると思うけど、その中でこの強さ。すごいな。かわいいし。)

つまり、この格言の「条件」ってのは、常識で構成されてるわけですね。一人で飯食ってるのは恥ずかしい、とか。常識によって視野が狭くなってるだけってこと。苫米地の言う「つまりは視野が狭くなり、自分の作り出した壁を見ているだけなのです。 」って台詞はこういうことを含むんじゃないかな。

 

僕も時に孤独を感じるのですが、やっぱり孤独自体というより、その「条件」に対する恐れって面も確かにありますね。

「こんなに長い事一人でいるって、社会的に見てやばいんじゃないか」とか

「何かすごい損してるんじゃないか」とか。

でもちょつとだけそういう想いは息をひそめていってるな。

なぜそうなっていったかというと、よくよく自己を観察してみると、下記の引用で示されていることに気付くから。

再び、中島義道の『孤独について』より

それまでの自分の行動を点検してみるがよい。いかに自分はこの状況をつくることに加担してきたかが分かってこよう。

そうなんです。僕もやりがちなのですが、「あー孤独だ。俺は独りぼっちだ―。」とか思うのですが、いざ友達とかと会うとなると、結構憂鬱になったりするわけですね。会うのが憂鬱にならない友人というのは、限られてる。

で、わがままだから自分に合う他者以外には会わなくなっていく。でも、その自分に合う他者が、同じように自分を合うと思ってくれるかというと、そうじゃないことも多い。ここらへんが人間の哀しい所ですね。

こうなると、かなり孤独になってくるわけです。

 でも、これは結局他者に対する許容力の欠如が招いた結果。つまり「いかに自分はこの状況をつくることに加担してきたかが分かって」くれば、自業自得だと分かるわけです。でも、その孤独を引き受けられるなら、別にわがままのままでいいですよね。僕はまだそんなに強くないけど。

 

で、僕は結構孤独な人間だと思うんだが、孤独の何がいいかっていうと、「自由だから」とか、そんな単純な理由ばかりじゃない。むしろ、辛いからこそいいのだ、と思うことがある。

やっぱりね、多くの人といる時は集団同調バイアスみたいなのがかかってね、まー人々の共同幻想に強制参加させられるわけです。で、どーでもいいことを語らなきゃならなくなる。まーこういうのも息抜きには良いし楽しいんですが。基本僕の興味は「死」とか「<世界>」とか「現実界」的なものとか、まー人生の本質とされるようなものが多いわけで、やっぱそういう課題が浮かび上がってくるのは一人の時やそういう話ができる仲間といる時であって、そういう時間こそ本質的かも。こういう仲間は本当に大事ですね。

 

そういう仲間といないときは、一人で考えることになるわけですが、まー孤独で辛い様な気がする時もある。でも、この時の対話相手は、同じことを考えている著者の本であったり、あるいは自分自身であったりして、一人ではないわけですね。それこそ、【妄想】の他者です。

 

そもそも、孤独に対して悲観的な見方が多すぎないか。カウンターパートとして以下を引用。

人間が独りでいる時にその人の内面で進行することは、他の人との相互関係で起こることと同じぐらい重要である、と私には思われる。

現代においては、親密な関係が個人的な充足感に不可欠であるという思い込みがある。そのために我々はそれ程親密でない関係の重要性を無視してしまいがちである。当然のことに、分裂的な行動を取る人やそのほかの多かれ少なかれ孤立している人は病的とみなされてしまう。多くの人が格別密接とは言えない関係で何とかやっているのが実状であり、こういう人が必ずしも病的ではないし、とりわけ不幸でもない。

・・・

ぼくは日本でまったくひとりで生活しているのだが、真っ暗な家に帰るのが大好きだ。・・・ドアを開けて何も反応がない事、それはすばらしい。朝目覚めて家中に誰もいないこと、これも心がうきうき弾むほどすばらしい。

・・・

マジョリティ=善良な市民は、想像力が恐ろしく欠如している。こういう人間が生きていることを否定しようとする。

 

 

そういえば、見る神や【妄想】他者的な表現を他にも見つけた。

・・・景色の中には自分も含まれているんですね。景色を見る時は、景色の中の自分も見ます。つまり景色の中にいる自分とは別に、それを眺める<自分>がいる。自分が景色の中を旅する車だとすると、それとは別に車を運転する<自分>がいる。

・・・

自分を乗りにくい車に喩えるんです。その上で、運転される自分と運転する<自分>を分けてみます。そして、運転する<自分>だけを、本体だと見做すんです。つまり、自分を<自分>へと縮小して抽象化するんです。

すると、<自分>は自意識から離れ、自意識が「運転される自分」になります。そうして、世界と自分を含めたすべての情報空間を、外側に括りだすんです。すると、情報が自分に侵入してきてオーバーフローする事態を、避けられるようになります。

人生が景色だというのは、世界と自分を含めた全情報空間を外側に括り出すことに当たりますよね。外側に括り出した後に残るのは、抽象化されて点にまで縮小した「運転する自分」です。 

 明らかに瞑想的ですねえ。でも、こういう表現に多数触れていて思うのだが、こういうのっての「乖離」「解離」とか「離人症」とかに近い気がする。ここら辺の関連が書かれてる本にはお目にかかっていないな。

これまでの記事に示したように多数の例があるので、おこがましくも、もうほとんど確信しているのだが、人生の奥義というのは、やはりこのような感覚にあると思う。

 

何か今日はすごく引用ばかりしたくなる日だったな。

映画『フィアレス』

フィアレス (映画) - Wikipedia

 

打ちのめされた。なかなかこんな映画体験はない(あったかもしれないが少なくとも覚えていない)。トラウマを描いた映画とも言えるが、映画自体がトラウマという感じの映画。でも、救済される。

 

極限状況に置いてなお、自己を顧みず人々に尽くす映画はそれなりに多く見てきた気がする。キリストの受難を描いた『パッション』、ヒトラーに反旗を翻し断頭台に送られた『白バラの祈り』(実話)、同じくヒトラーへ反逆した将校達が銃殺刑にさらされる『ワルキューレ』(確か実話)など。

これらの映画も主人公たちの恐怖と、それでも自分の信念を貫き通す勇気に涙せずにはいられない、傑作だった。

 

だが、この『フィアレス』に当初感じた異様な恐怖は何なのだろう。普通に考えればホラー映画ではない。サイコパスの話でもない。しかし、ナラティブとしてのホラーや人間存在としてのサイコパスよりも、何倍も怖い得体の知れない恐怖を感じた(これは僕独特の感性かもしれませんが)。それは、サイコパスと180度真逆の人間が、その聖性故に静かな狂気をはらむという恐怖だ。その人自身ではなく、そのようなことが起こるこの世界やプロセス、心理が怖い。

 

先に上げたいくつかの映画達と何が違うのか。

一つには、上記の映画達の主人公達は、確信犯的に権力に歯向かっていた。既にある程度、非日常・(ラカンの言う)現実界・「死」を意識していた。主人公に同一化した鑑賞者は、徐々に増していく恐怖感に圧倒される。

 

対してこの『フィアレス』は、まず、主人公(マックス)の飛行機事故の恐怖体験の記憶が欠落している。冒頭に描かれる僅かな事故のシーンによって、かなりのトラウマ体験であったことが予想はされるのだが、詳しくは描かれない。

だから、鑑賞者はまずマックスに同一化できない。いや、同一化できたとしても同一化した自分(マックス)の異様な冷静さに違和感を覚える。なぜなら、彼自身が自分のトラウマ体験に蓋をし、記憶が欠落しているからだ。この時点で既に、ある種の不協和音を感じる。

 

映画が進むにつれて、更にマックスの異常さが露わになっていく。「この人は決して無傷で生還したわけではない」ということがあからさまになっていく。むしろ恐らく、事故生還者の誰よりも、そう、自分の子供を失った母(カーラ)よりも、更に深い傷を負ってしまったのだという不吉な予感がどんどん膨らんでいく。途中からはそれは確信に変わっている。

 

飛行機事故の様子が断片的に映画の途中で挟まれるのだが、マックスは誰よりも繊細で、誰よりも早く機の様子がおかしいことに気付いていた。危機の予兆への鋭敏な嗅覚。現実界への鋭い感受性。これは主人公が父の死というトラウマを抱えていたからかもしれない。

誰よりも繊細である種の弱さを抱えているにもかかわらず、優しすぎる人間。激烈な非常時においてこのダブルバインドが彼をいかなる精神状況に追い込んだかという謎は、ラストで描かれる。

 

ラストまではその謎が分からないまま映画は進むが、とにかく彼が「壊れていた」ことだけは分かる。冒頭の僅かの事故シーンで異様な冷静さで救出に励んだ時からすでに。

日常生活に戻った後も、苦しい人生を送っている人をこれ以上ないほど優しく包み込んだり。あるいは同じ事故の生存者の傷を癒すために平気で命を投げ出したり。後者の点で見ても、彼の行動は常軌を逸している。実利とリスクのつりあいが完全に破綻している、破滅的な行動原理と異様なまでの利他性。

だからこそ、その同じ人間が子供を失った母の祈りを鼻で笑い、その同じ人間の口から「神などいない」「人は本当のところ神など大して信じていないんだ。生や死に理由はない。人の生死は偶然の産物だから何をしても無意味さ。」という言葉が発されるとき、僕はやはり異様な不気味さを感じた。想像を絶するニヒリズムが彼を覆っている、と(あの大聖人のマザー・テレサが死の間際に「私には神が見えない」と言ったらしいが、その話を知った時の不気味さと通ずる)。極度の惨事を経験しながらある種の正気を保っているにも関わらず、神を信じず何にも縋らないとすれば、彼の中身はどれだけ空虚なのだろうかと。その空っぽさに戦慄したのだ。

 

ネタバレをすると、先程述べたダブルバインドの結果、マックスは完全に「自己」というものを吹き飛ばしてしまったのだ。

弱く優しいマックス。誰よりも事態に恐怖している。でもあそこに助けるべきより弱い存在がいる。この時、彼は自己を捨て、一種の健忘症になり、「無敵の自分」に変身するしかなかった。そして、それが事故後も続いた(「僕といれば絶対に死なない」という台詞など)。

その結果としての、死に関連する感情への圧倒的な洞察力と異常な利他性。変身の欠陥の僅かな片鱗として垣間見えるニヒリズム。そして、「僕は死んでいる。生きていない。幽霊だ」という台詞。死への異常なまでの鈍感さと、死の超克への異様なまでの執着の併存。タナトスに憑りつかれていると同時に現実界、<世界>の住人となってしまったのだと感じた。誰よりも生きているように見えて、しかしその中身はどこまでも空虚で死んでいる。

 

「見てごらん人々を。死が何かを知らない。でも僕らは知ってる。」事故当事者同士(子供を亡くした母カーラと主人公マックス)の連帯感。事故を経験していない妻は主人公から疎外される。強烈な恐怖体験をした主人公にとっては、もう妻は「別の世界の存在」になってしまった。カーラにとっての夫も同様。

だが、カーラとマックスは男女の仲にはならない。そんなレベルではないのだ。特にマックスの方が。精神分析的に言うと、タナトスの支配が強すぎて、エロスが退場してしまった状態というか(もちろん戦争など、死が色濃ければ、種を残そうとして生(性)も強くなるということもあるのだが。兵によるレイプが絶えないのはこのため。慰安所の設置は細心の注意を払わなければならないとはいえ、一定の合理性があるのだ。生と死が深い関係にあるように、エロスとタナトスも深い関係にある)。

 

マックスは「あの墜落の瞬間こそ最高の瞬間だ」と述べるに至る。大切な経験だ、と。タナトスの前で無残に砕け散る夫婦愛や親子愛。愛への恐怖。

妻の矛盾の指摘に対して「そう、矛盾だ。道理なんか関係ない」。彼が象徴界を通り越し現実界に濃厚に接触してしまったことが分かる。

妻とは事故経験を共有できないが、同じ経験をしたカーラとは共有できる。同僚の首がもげたことなどを平然と喋る。「何も怖くなんかない」と言いながら。恐怖心の麻痺。

 

カーラとの買い物の場面で彼のポジティブさは頂点に達する。カーラもつられてポジティブになるが、彼女はまだ傷の浅い方だったので、その後にPTSD的なバックラッシュが起こる。必死で祈る彼女の姿に、マックスもつられそうになる。「やめろ!涙や祈りはたくさんだ!」

彼は命を顧みず、またもとの世界、つまり「死の世界」に戻る。カーラだけをその世界から脱出させて。息子を失った痛み以外感じられなかったカーラが、感情を取り戻した。そして、マックスだけは救われない。その後カーラはマックスの妻に「マックスは人間よ。天使じゃない。空では生きられない。」と釘をさされる(すごい妻だ)。

 

一人死の世界に取り残されたマックスに対して、彼のおかげでそこから脱出したカーラが語り掛ける。

「家に帰ってマックス。もう一度生きて。幽霊は卒業よ。」

「帰れないよ。嫌なんだ。」と明るく答えるマックス。

マックス「二人で消えよう。」

カーラ「アタシはもうだめ。地上に戻ったの。しばらくは地上で生きてみるわ。マックス、皆を助けるのは無理よ。もっと自分の心配をして。」

カーラの愛が伝わるシーン。同じく深い傷を負ったがまだ傷が浅くて、抜け出せたカーラが、あえてマックスを突き放す。妻のもとへ、<社会>へ、象徴界へ戻るように促した。

マックスが残した絵画(明らかに現実界のカオスを描いたもの)を発見した妻は、彼の闇の深さを知り、彼を迎えに行く。

「僕を救ってくれ」ついにマックスの本音が出る。

 

事故後から治まっていたイチゴアレルギーの再発。象徴界へ戻ってきたことを示す。

その後、マックスの飛行機上での記憶が蘇る。

本当は自分が一番怖いのに、恐怖におびえる人々に笑顔を振りまき安心を与えるマックス。しかし無残にもほとんどの乗客が死んだ。サバイバーズギルトもあったのだ。

記憶が蘇った後、彼は我に返り「僕は生きてる!生きてるんだ!」と泣き喜んでエンド。主人公が救われて、本当に良かったと思った。

マックスはゆるされたのだ。「もういいんだよ。よわくていいんだよ。自分のことを考えていいんだよ」と。本当に感動した。

 

***

 

ある人が「本当に深いトラウマは語る事すらできない」と言っていた。この映画を観ると、その通りだと思わされる。マックスの場合は「自覚すらできない」。

恐らく、客観的な悲惨度の強弱だけではない。悲惨度で言えば戦争映画を持ち出すまでもなく、本作のカーラの方が悲惨だ。マックスの場合、繊細さ、ある種の弱さを持つ人間が、しかしその優しさ故に「異常な強さ」を強いられたとき、一気に現実界に吸い込まれてしまったのだ。

 

僕はラストシーンで涙腺崩壊状態だったんだが、それはなぜか。同じようにキツい状況で僕を励ましてくれたり、平静を装って様々な人を助けようとしている人たちも、程度の差はあれ、マックスと同じ場合があるかもしれないと想像したからだ。助けられる側ではなく、助ける側こそがもっとも傷ついているかもしれないという想像。だが、傷ついているからこそあれほどの利他性を発揮できるということもあるのかもしれない。

助けられる側は、自分のことで精一杯。でも、窮地で自分を勇気づけてくれるその人こそが、最も傷つき、本来最も弱く繊細であったとしたら。そんな人間の自己犠牲に、健気さに、空元気に、思わず落涙してしまったわけです。

強制収容所でも、誰もが利己的に生き残ろうとするしかない地獄の中、自分の食糧すらないのに、その最後のひとかけらのパンを人々に与え、骨と皮になりながら、あちらこちらで優しい声をかけて回る天使のような人々が実際にいたらしい。

 

そういうマックス役を演じた俳優の怪演と映画に対してはお見事としか言いようがない。こんな大傑作がamazonのレビュー数から察するに、あまり見られていないとは残念だ。まあ繊細な人ほど見るのがキツい映画ではあると思う。

等身大

それにしても、読書のやり方を考えねば。

 

読書に実利を求めると、途端に読書がしんどくなる気がする。

ここでいう実利とはつまり、「読んだ内容を全部自分の血肉にしたい!」ていうことですね。

 

やっぱ、「ここだけは文章にして残しておきたい」って部分だけピックアップしてブログにしたり(それすらも全然できてないんだけど)して、あとは娯楽として読書するのが自分には向いているな。

あとは純粋に自分から湧き上がってきたアイデアとか。でもこれが書くのがめんどくさいんだよなあ。でもすぐ忘れちゃうんで、残しとかないとなんか損した気分になる。

でもまーそれこそ無意識レベル・象徴界レベルでは残っていると考えよう。で、象徴界が人の行動を決定しているのだから、忘れても残ってて行動に影響して絶対意味があるはずだ。読んだ本も。

逆に「書きたい!」ってなるときもあるし。その時に書けばいい。自発的ではなく内発的に。

 

ちょっとここ2,3日、苫米地のアファメーションとかに感化されて、「上へ!上へ!」みたいになってたけど、やっぱり合わないな。ホント、無理をしたくない。のんびり生きたい。いや、無理のない範囲ならアファメーションもいいんだけど。have to じゃなくてwant toだったらしんどくないんだけど。

 

やっぱり、仏教的な少欲知足が楽です。仏教では喜怒哀楽のうち、楽を一番重視して目指して、最後には楽すらも捨てるのだとか。

やはり、自分を(メタ的に)リラックス・安定させることが一番ですね。

 

「上へ!上へ!」ってゴールを持って進んで、つまり未来ばかり見て、今を生きてないと、虚しさを抱えることになる。かと言って、明日死ぬのかもしれないから今を生きろ!と刹那的になりすぎるのも、最近は違うと思うようになった。当たり前の話だけど、明日生きてるかもしれないわけで。てか、ほぼ生きてるわけで。

 

やっぱり、大量にインプットしてアウトプットして、というのに充実してそうだなーと憧れてたし、そういう上の次元に行きたいと思ってたけど、僕は僕であり僕以上でも以下でもありません、ってやつだな。まー偏りながらもインプットは結構してると思うけど。僕は苫米地にも斎藤環さんにもなれない(セルフコーチング的には、こういうことを言葉にしたら駄目なんだけど)。無理せず等身大の自分で生きていくのがやっぱり大事だな。後は<世界>が偶発的に僕をどこかに運んでいくだろう。やはり、この受動が合ってる。能動はしんどい。どうせだったら(メタ的)受動を極めよう。ジタバタするのは苦手だ。やはり、どちらかというと死を忘れずに、メメントモリの精神で生きていく方があってる気がする。そうすれば、自分以外の誰かになろうとして神経をすり減らすこともないだろう。そういう心理の奥には、結局、得をしたい、損したくないという想いが潜んでいることがほとんどだ。これを追い求めるとしんどくなる。

分かれ道はやっぱりしんどくなりすぎないかどうか。心地よい程度の疲労・心労であるかどうか。

自分を肯定するアファメーションはいいけど、自分を急き立てるアファメーションは自分には合わない。それは<なりすまし>であって、【なりすまし】ではないな。