あらゆる偶然を必然と感じる才能

悩める自分が無意識的に手に取る色んな本には、結構共通性があるような気がする。一言でまとめるなる「客観性の重視」というところか。客観性というところから、「自分を見つめるもう一人の自分」「【妄想】世界における他者」「見る(診る)神」などに繋がっていく。

 

瞑想における自己観察。これも、実際には存在しない他者の目とも言える。

統合失調症における妄想における存在(これは自分を攻撃する存在であることが多いが。苫米地氏によると統合失調症者は逆に「統合」が、ある種のゲシュタルト構築がうますぎる。でも、それを「自分の都合の悪いように」統合していると。だから、「自分の都合の良いように」統合しろと)。

アファメーションも最近は「ユーアファメーション」と言って、目的語を「I」から「You」に変えるほうが効果的とされます。つまり、これもアファメーションを行うのは「自己」ではなく「他者」であるということ。

キリスト教における「見る神」。(「神よ。私が皆を裏切らないように見ていてください」。神が見ているという感覚によって普段は出ない力が出る(例えば利他行為)こと自体が福音である、とするなどという意味で、福音諸派エヴァンジェリカルズ)とは違う意味での見る神)

浄土真宗阿弥陀仏でもいいです。仏さまが見てくれているとかよく聞きますね。お天道様が見ているとかも言う。(これも福音主義的(日本では御利益信仰っていうのかな。例えば大阪なら「えべっさん」とか)に解釈されがちだが、それとは違う意味。)

スピリチュアル界隈では「ハイヤーセルフ」とかありますね。臨死体験により、より高次元のパラレルワールドの自己が見てくれていることに気付く、とか。

幽体離脱により、これまでの自分が周囲の環境への反射反応しかできないオートマタでしかなかったとの認識に至る人もいます。つまり、本体は体から抜け出た方だと。

トランスパーソナル心理学でも、当たり前にこういう存在を想定しているようです。トランスパーソナル心理学にも詳しい諸富祥彦さんは、「セルフカウンセラー」とか言ってた。

 

漫画や映画とかでもよく出てきます。例えば、漫画「ヒメアノ~ル」とか映画「BIG DRIVER」(スティーブンキング原作)とか。前者は悪い統合例で、本人をしばしば破滅に導きますが、後者では窮地を救う存在でした。

坂口恭平の本に出てきた実在の人物も、【妄想】世界を持っており、その世界に多くの友達がいました。てか、坂口恭平自身が、完璧な【妄想】者だ。レイヤーとか。

代々木忠の「オープンハート」では、性被害体験に会いながらも健全に成長した女性と没落していく女性を比較し、前者の女性にはここでいうような【妄想】世界とその住人が存在し、それにより過酷な現実に耐えられたとしています。

強烈なトラウマ体験により多重人格になる人もいますが、これも似た構造でしょう。

そういえば子供はよく人形に話しかけてますね。人形が【妄想】世界の他者。

 

【なりすまし】もそうですね。瞑想的なメタ認知もそうです。

映画鑑賞というものも、映画の主人公に自己を没入させ(感情移入。ここでは、「感情委託」といったほうが適切かもしれない)たうえで、映画鑑賞している自己が「見る神」となって、主人公(没入した自己)を観察するという、複雑なことをやってのけている気もします。そして、カタルシス(感情浄化)が起こる。カタルシスは寓話性(「<世界>は確かにそうなっている!」という感覚)から得られるんだとか。その意味で前回紹介した映画「ミスト」(これもスティーブンキング原作)は強烈なカタルシスをもたらしました。小説でもなんでも、ある種のナラティブにはそんな効果があるのかも。

というか、小説家や映画監督とか、物語を作る人は、【妄想】の達人ではないか。

学者、特に哲学者とかだって、自分で構築した学問体系を少なからず「見る(診る)神」としているのではないか。学問だってある意味【妄想】だもんね。

 

ご先祖様が見守ってくれている、ってのも存在しない他者の想定という意味で【妄想】世界における住人の想定ですね。「おじいちゃんが見守ってくれている」とかの発言もよく聞く。「3歳の時に亡くなった弟がいつも傍にいる。」とか。

漫画や映画の登場人物の存在が、心に生き続けているという人もいる。ノンフィクションならなおさら。

 

『夜と霧』のフランクルの言う「あなたを待っている存在が、時間が、人生がある。」存在、時間、人生という「見る(診る)神」。

そういえば、ニーチェの運命愛だって、「運命」という名の「見る(診る)神」を想定している。

「植物すげえ!」って言ってる友人がいるが、彼にとっては、植物も「見る(診る)神」の一部な気がする。

 

他にもいくらでもあったと思うけど、忘れちゃった。

 

園子温(映画監督)はあるインタビューで「人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる」と言っています。

以下引用

「もう一人の自分と仲良くなれたら本当に幸せです。ひとりで死んでも孤独死ではなく、安らかな死と言えるでしょう。死ぬ間際にも、優しく慰めてくれるに違いありません。『いまあなたは無様に倒れてしまい、看取る人もいないけど私がついていますよ』と。求めず慌てず、自分との関係性を気付いていくことが大切です」

「自分自身と安定的な関係を築くこと。もっといっちゃうと、自分自身と溶け合えるということは、最大の幸福ですよね。」

「家に帰って一人で落ち込むのはなぜかというと、外で他人と一緒にいた時の自分の情けなさや嘆かわしさにもう一人の自分自身が怒っているからです。自分以外に人を責める人間はいないわけですから。人間というのは、必ず一人ではなく、二人いる。だからこそ反省をするし、後悔もする。もう一人の自分にそういうことをさせられちゃってるんですよ。となると、いかにもう一人のじぶんと和解できるか、仲良くなれるかがものすごい重要です。」 

 

内面化された他者という言葉が思い浮かびますね。

別に特別異常な経験を持たない人でも、【妄想】世界における他者の存在を、常に既に想定しているということか。どうせなら、それを力強い味方にしたいものです。ジョジョのスタンドみたいに(笑)

インタビュアー(宮台)はここで、園子温の映画『紀子の食卓』の「あなたはあなたの関係者ですか」というセリフや、黒沢清監督『CURE』の「あんた誰だ」「○○署の刑事だ」「○○署の刑事であるあんたは誰だ」というやり取りを持ち出します。自分の中のもう一人の自分。

 

性風俗界隈のフィールドワークでの宮台の発見。性風俗で働く女性たちは、ネグレクトを受けて育った女性たちが多い。ネグレクトを受けて育った人たちは、社会的に「壊れた存在」になりやすいのだそう。「自分は誰からも見られていない」という認識が、彼女たちを、人間的な感情の働かない存在にしてしまう。

「見る存在」の重要性。残念ながらその存在に恵まれず、その状態が人間が人間であることにとって重大な危機であると、本能的に察知した人々が【妄想】を始める。

これに対して、宮台と対談していたカトリックの晴佐久神父は、(こんな言い方したら失礼かもしれないが)精密に計算された「見る(診る)神」を提供する、キリスト教を推奨する。宮台もカトリックである。

 

精神科医斎藤環氏(「ひきこもり」という言葉を生み出したその人)の本を読んでいて、「そう!その感覚なんだよなあ。」という部分があった。

大学時代の私は いまでいう「コミュ障」だった。

・・・

いまの私が診察したら、「ちょっとアスペルガー症候群の可能性が否定できない」くらいは考えたかもしれない。

・・・

ひきこもりの青年を見ていていつも思うのは、一歩間違えれば自分も同じ境遇だったという確信だ。彼らの悩みは、とうてい他人事には思えない。私の書いたひきこもり関連本がそれなりに評価されているとすれば、それはこうした「当事者への過剰な思い入れ」ゆえだろう、と勝手に考えている。

ただ、私とひきこもりとで決定的に違う点がある。われながらあきれるのだが、私自身は、決して自分自身に愛想を尽かすということがなかったということだ。当時の私は、並外れて自己愛が強かったのである。自己中心的という意味ではない。謙遜や他人への気遣いも、つねに「それが自分自身の利益になるから」ということを意識しているような、こすっからい若者だったのである。・・・対人恐怖の感情の基礎には、こうした強い自己愛がしばしば潜んでいる。私もそうした意味で、自己愛の強い若者だった。

・・・

こういうことを書きながら、私はべつに特別な自己開示をしているつもりはない。それというのも、私は自己愛が強いわりには、いつも自分自身を外側から見ていたからだ。「この一風変わった人間が、このシビアな状況に置かれたら、どんな反応を示すだろうか」、これが私の自己愛のかたちだ。つまるところ私の自己愛は、私というよく分からない存在がどういう変化を遂げていくかということに対する”好奇心”なのである。

・・・「好奇心」や「自己愛」も重要ではないかということだ。厳しい状況に置かれて「失敗したらどうしよう」と自分で不安を煽りたててもしようがない。むしろ一歩離れた視点から、「さあたいへんだ。いったいどうなる?」と無責任に事態を眺める「見物人」の立場くらいでちょうどいい。

 

彼も「見る(診る)神」、【妄想】の中の他者を持つことによって、生き抜いてきたのだ。

 

更に氏の考える幸福感に一番重要な要素が、自分の考えとぴったり合致する。

それは、本(『人間にとって健康とは何か』)に挙げられた六つの要素「意味と目的」「関係性と利他性」「平凡性と反快楽」「過程性」「いまここ・あるがままの肯定」「末梢性」のどれにも属さない要素だ。

氏曰く、それは、「あらゆる偶然を必然と感ずる才能」(ある友人も言ってた)だ。これ、ほとんど才能のない自分が少しは恵まれている才能だと思うし、これから増強していきたいと思っていた才能だ。これは、あらゆる現象をサイン(神の意志の表れ)と見做す、教義を徹底的に内面化した宗教者の感覚とは、異質なもののように思われる。

私は「あらゆる偶然を必然と感ずる才能」こそが幸福の才能であると考えている。すなわち、自分にはこうしか生きられなかったし、いままでに経験した失敗や挫折はすべて、いまの自分に到達するために必要なことだった。

・・・

私の仮説と合わせると、幸福とは、「全てが奇跡であるかのように生き、その過程がことごとく必然だったと思えること」ということになろうか。奇跡は感謝につながるし、必然は自己肯定感をもたらす。努力して得られる境地ではないが、そこをめざすことは不可能ではないはずだ。

 

これも、「必然」という名の「見る(診る)神」、【妄想】の中の他者だ。

これは、ニーチェ永劫回帰や運命愛や超人思想に非常に通ずるものであると思う。

なぜ宗教者のサインの感覚と違うかというと、この感覚は、単に認識を深めていけばきづく感覚だからだ。

よくよく考えてみれば、これまでの人生において、どれほど多くの別れ道があっただろうか。そこにはとんでもなく壮大な樹形図が展開しているはずである。しかし、現時点での自分は、その中のただ一つの場所にいるのだ。しかも、この先も樹形図はどんどん大きくなり、これからも自分はその中の一つでしかないのだ。

そして、その壮大な樹形図がこれまで生きてきた人間の数だけあり、いや生命の数だけあり、さらに時間的なスケールで考えても、宇宙誕生から120億年この営みが続いており、これからも無限に続いていく。にもかかわらず、宇宙の現在の形は「この形でしかあり得ない」のだ。しかも、これは宗教的な考え方でもなんでもなく、「単なる事実」なのだ。

この<世界>の「ゴロっとした存在感」。ただ単にこういう形をしているだけ、という単純「すぎる」事実が、単純「すぎる」からこそ、逆に圧倒的な意味性を帯びてしまい、「異様な必然」に見えてくる、という逆説的な感覚が、たまに自分にも訪れることがある。

どれほど苛烈残酷な人生であったとしても、逆に平平凡凡な人生であったとしても、この事実を目にすれば、人生の黒々とした根っこが浮かび上がってくるような気がするのだ。

 

そういえば、先日観た映画『ミスト』でも、選択肢の分岐がいくつもあった。「あと5分待っていれば・・・」「あそこで無理して銃を拾わなければ・・・」

主人公の樹形図の先は、筆舌に尽くしがたい悲劇だった。でも、この壮大な樹形図の中の「たった一本」に現に自分がいることを自覚したら、主人公も上記のような感覚を持つんじゃないかなあ。しかも、よりにもよってその一本が途轍もない悲劇だからこそ余計に。

そして、自分の壮絶な苦難の前に、必ず「必然」を感じる。少なくとも、鑑賞して主人公に没入した自分はそう感じた。悲劇を経験した人の少なからずが「必然」を感じると聞く。東日本大震災しかり、強制収容所然り。でも、よくよく見てみれば誰の人生も異様な必然性を帯びているのではないか。認識を広げさえすれば。

 

必然と言えば、今読んでいる漫画『火の鳥』もすごく必然に通ずる気がする。彼は必然を描くのが得意かも。立ったキャラよりナラティブで見せる漫画家(今はあんまいないとのこと)。『ミスト』もまさにコレ。立ったキャラなんか一人も出てこない。にもかかわらず圧倒的な寓話性を帯び、カタルシスをもたらす。

そういえば、友人が書いていたショートショートも、ナラティブだけだなあ。そこに立ったキャラは出てこない。星新一もそうだなあ。ナラティブで魅せることができるのはすごいと思う。

映画『ミスト』

をしばらく前に観た。

 

結構スゴイ映画だった。一部巷ではかなりの鬱映画として知られているらしい。

 

内容はSFというか、怖いモンスターとかがでてきて、現実にはあり得ない感じだけど、色んなテーマが詰まってる濃い~い映画だった。

主題を一言で言うと、「人間の理性(前頭前野)の限界(人間の弱さ)と、それに対比して色濃く浮かび上がる<世界>のデタラメさ(偶発性)」って感じかと。でも、僕がもひとつ注目したいテーマは【妄想】者の「変な強さ」とその副作用(弱点)だ。

 

ストーリーはwikipediaより↓

ミスト (映画) - Wikipedia

 

まず、狂信者ミセス・カモーディの修羅場での「変な強さ」と、過酷な状況の中で次第に彼女に従属していく弱き者達の姿。

記事で数回取り上げた、【妄想】モチーフに通ずる。カモーディの日常での姿は映されていないが、結構最初の方のちょっとしたシーンから、周囲から異端視されていることが伺える。少し精神に異常があり(トラウマもあったかもしれない)、社会を生きることが難しく、それ故に現実にないもの(ここでは神)に縋って生きてきた女性だろう。完全に、妄想レベルではなく、【妄想】レベルだ。

 

主人公グループは、「理性の力」によって、困難を乗り越えていこうとするタイプ。しかし、この理性の力も、ある程度日常(言語的に構成された虚構)におけるルールや常識など(これも虚構)を信頼しているからこそのものであり、日常が崩れる度合いに比例して限界が露呈していく。それはラストに近づくにつれ明らかになり、ラストで決定的なものになる。

カモーディは、恐らく日常に適応できない異端児だったので、頭の中では非日常を生きていた。だから実際に非日常が訪れた時に変に強かった。彼女の変な強さを、状況依存的な偶然的なものと断じるのは早計だろうと思う。それは、主人公グループの結末やカモーディに次第に感化されていく弱き人達を観れば分かる。変であってもそれが強さに繋がるのなら、参考にしてみる価値はある。

 

彼女の変な強さを表す他の場面としては、侵入したモンスターが、ふっと彼女に止まった時だ。モンスターに噛まれると、毒でひどい死に方をする。それを分かっていても、彼女は「神よ、この命を捧げます」と言って冷静さをギリギリで保ち、難を逃れる。これも「たまたまだろ」と断ずるのは早計だと思う。ミツバチなどの特性を見ても分かるように、こちらが攻撃性を示せば相手も攻撃性を示すというのは、結構生き物に普遍的な法則だと思うからだ(人間でもそうでしょう)。彼女の選択(動かない)は、この場合ベストだった。何よりも、冷静さを保っていたのが大きいだろう。これも「神よ、この命を捧げます」の台詞から分かるように、【妄想】によるものだ。【妄想】によって、なぜか不思議なことに彼女は修羅場を切り抜けるのだ。

一方、このモンスターの侵入シーンでの主人公の行動は非常に西洋理性的なものだった。力と知恵によって敵を征服する。そのために頭と体を使い、対応する。これはこれで、必要な力だろう。

 

しかし、カモーディは結局、やりすぎてしまった。【妄想】によって、生贄が必要だといいだし、その生贄を主人公の息子に指定して、信者達をけしかけた。結果、主人公たちは「理性の力」(ピストル)を行使してのカモーディ射殺を選択するしかなくなる。

これが、【妄想】の副作用とも呼べるものだろう。歯止めが効かない。さながら、極端な空観からポアの思想を生み出し、サリンをばらまいたオウムのようだ。オウムも結局、国家権力によって死刑になった。まーでも、この映画の中のような状況では、つまり常時と非常時を比べれば、非常時の方が【妄想】者は強くなり、相対的に理性的権力は弱くなることが多いだろう。

 

カモーディはどこを間違ったのか?恐らく【妄想】を、自分の実体験から構築するのではなく、都合の良い神という外部装置に頼った点だろう。「実際に起こった」非日常的な経験(トラウマなど)を【妄想】の糧としていれば、それは他の非日常体験でも活用可能性が高い。しかし、彼女は安易に「神」を【妄想】の糧にしてしまった。もちろん、何千年も続いてきたキリスト教とか仏教とかの宗教は非常に抽象度の高いもので、キリスト教の神も非常に緻密に計算されたものであるから、緊急時にはかなりの力を発揮するだろう。しかし、彼女は教義を歪めて解釈している(カルト)。もしくは、旧約聖書新約聖書より抽象度が低い)を採用している。でなければ生贄などという発想はでてこないだろう。

結局は、【妄想】が貧弱だったのだ。それでも緊急時にはここまでの力を発揮したのだから、【妄想】の力は侮れない。うまく活用すれば武器になるのだろう。

更に言えば、彼女は【なりすまし】の意識も無い。だから、彼女のように【妄想】を鍛えてこなかった人間や理性的(常時の延長的)な人間の前で、状況を把握し、【なりすます】ことによって、うまく事を運ぶことができなかった。(このあたり、自分もよく分からない点がある。やはり、【なりすまし】ではなく<なりすまし>を目指すべきなのか?という点)

 

カモーディを射殺し、主人公グループはスーパーから飛び出し、霧の外へ脱出するという、いかにも西洋的な意志に基づいた行動を取る。結果、失敗する。

西洋的な意志の力、理性の力の限りを尽くして戦ったという矜持を持って、主人公グループは自殺の道を選ぶ(主導したのは主人公)。残り弾数上、主人公だけは自殺すらできないという最も辛い道を選ぶ。外に飛び出して自分をモンスターに喰わせようとする。霧の中から何かが現れる。モンスターだろうか?違った。そこに表れたのは戦車。

その後次第に霧が晴れ、主人公は状況を把握する。なんと事態は収拾しかかっていたのだ。

すんでのところでメンバーの自殺を主導してしまった主人公は、後悔による錯乱から、泣き叫ぶ。

冒頭に示したように、「人間の理性の限界(人間の弱さ)と、それに対比して色濃く浮かび上がる<世界>のデタラメさ(偶発性)」がテーマの映画だと思う。

「なぜもうちょっと粘らなかったのか」という問いはナンセンスに思われる。主人公グループは既に「もうちょっと粘った後」の精神状況だったと考えるのが自然でしょう。ホントのホントに希望を失って限界。

しかし、結果論で考えると全く様相が違ってくる。この、現実論(とでも呼びましょうか)と結果論のダイナミズムこそがラストシーンで鑑賞者に何とも言えない感覚をもたらす。

ホント、あとちょっとの差だったわけです。主人公は良かれと思って、現実論的にはベストの選択をしたつもりなわけです。でも結果論から見ると、とんでもない選択だった(しかも最初にスーパーを飛び出した、つまり最も非理性的な選択をしたかに思われた女性が生き残っていた)。このダイナミズム。

 

人間の理性の限界を見せつけられた。でも、理性(前頭前野)の力にも期待したい自分は、主人公がこの後、現実論的に考えて、「自分は『あの時あの場における』ベストの選択をした。自分にはそれしかできなかった。悔いはない。結果論で自分を責めるのは馬鹿げている。この経験を、また次に生かせばいい」と立ち直ることを期待したいなあ。超人的な理性ですね。

そして、理性の力で吸い取れない分の後悔は、【妄想】に頼って自分の力にするのも良いだろう。でもなんか、理性側と【妄想】側には通ずるところもある気もするんよね。根を辿っていけば同じところに辿り着くような気が。ただの直感ですが。

ちなみに僕の理解では、上座部仏教とか苫米地とかが「理性の力」の究極で、大乗仏教キリスト教とか宮台とかが【妄想】の力、って感じがあります(ただの感覚的なもの)。でもやっぱり混ざり合ってたりするし、根は一つな感じもするんよねえ。

 

まー、未来を予測できず、現実論的に生きるしかない、一個の弱い人間である僕は、できる限り「結果論的」な視点を持続させたいと思った。つまり、「あともう少しかもしれない。まだ希望があるかもしれない」とギリギリまで希望を捨てない人間。

まあそれすらも踏みにじるからこそ「<世界>はデタラメで偶発的」なんだけど。でも事後にはそれすらも理性の力で・・・ってキリがないな(笑)

こういう再帰性を考えさせられるし、これはメタのメタのメタまで自分を肯定するっていう考えにも関連するし、うん、どこまでメタになれるかの闘いでもある。再帰性がずーっと続くということは、この闘いに終わりがないということ。

終わりが無いということに気付くということも、(また一つ外側の)メタ認知だなあ。

 

理性の力と【妄想】後からも入れ子構造で、互いに戦い続けて(メタの地位を取り合って)洗練されていく気がする。


あと一つ。〈世界〉がデタラメだからこそ救われる、ということもあるんたなあ、と。最初にスーパーを飛び出して生き残った女性が良い例。

LUCY

オカルティックな内容だが、それなりに学べるところも。

 

「どうなるだろう。もし脳の機能の20%にアクセスできたら。この第1ステージは自らの肉体を掌握し意のままに操ること。第二ステージは他者を意のままに支配する事。その次は物質の支配となる。」

「全てを感じる。空間や大気、大地の震動、人々、重力、地球の回転。私の体から出る熱。血管を流れる血。脳も感じる。記憶の最も奥深く・・・

口に広がるママの母乳の味も覚えてる。沢山のキスも。」

「障壁は次々に消え自分の脳を完全支配できる。」

学びには痛みが伴う。骨の成長で痛みを感じるように。骨が成長する音を覚えてる。皮膚の下できしむ音。今は全てが違う。

あらゆる音が音楽のように理解できる。

以前はいつも不安だった。自分は誰で何になりたいのかと。

脳の深淵にアクセスできる今は、人間がどういうものか分かる。

人間は原始的。不安は障壁。分かる?

あなたの痛みと同じ。不安が理解の邪魔をする。あなたは今痛みしか感じてない。

痛みは感じない。恐怖も欲望も。人間的な感情が消えていく。人間らしさが薄れていくにつれて、ありとあらゆる知識が増える。

「環境が生育に適していない場合、細胞は不死を選ぶ。つまり自己完結して生き続ける。」

「人間は自らの独自性を存在論の根拠としている。

単位の基準は1。だが違う。社会システムは全て表層的。1+1=2と習う。でも1+1=2ではない。実際には数字も文字もない。人間は理解しやすいよう存在や情報を単純化する。楽な尺度で物事を考え、無限の深淵を忘れるため。

「独自性が根拠ではなく、数学的法則に支配されていないなら、何が支配する?」

「走る車を撮影し、速度を上げていくと、車は消える。車の存在を示す根拠は?時が存在の証となる。時だけが真実の尺度。時が物質の存在を明かす。時なくして、何ものも存在しない。」

 

「彼女はどこに?」

(私は至る所にいる。)

 

単純に全部オカルトとは言えなさそう。ほとんどオカルトだけど、哲学とか思想とか、頭の中だけのものを突き詰めていくとこういう結論になるのかな~という気はする(根拠なし)。あ、でも時が存在の根拠みたいな話は全然分からない。

 

脳が覚醒した主人公が唯一分からなかったものが、生きる目的だった。

それはそうだろう。どんなに能力が覚醒しても、目的が無ければどう行動すればよいか分からない(生き残るという最低限のことは自動的に行うだろうが、それは目的とは違う)。

教授にそれを尋ね、「知識を伝えることではなかろうか」と言われ、それに従う。

 

ここんとこは、う~んという感じ。

安易な目的設定ではなかろうか。目的なんか無いよって言われた方がしっくりくる。というか、絶対的な目的などない。そんなもの自分で決めろよ、という回答の方が。

 

まー目的がないってのは結構怖い。何でもありで自由なんだけど、ホント、何をすれば良いのか分からなくなる。本当に物事の本質を、頭だけでなく体の底から知ってしまって、目的などないって実感できちゃったら、せせこましい他者との比較とかも完全になくなって、ホームレスでもなんでも、最低限生きていればそれでいいってことになって、最低限の生存を確保すること以外何のやる気もおきなさそう。

てか、日本ではかなり逸脱しても餓死することはないので、マジで何もしなさそう。

それか、釈迦のように、悟った後に人々を救う道を(メサイアコンプレックスとは違う形で)選ぶんだろうか。

 

マズローの欲求の段階でいろいろあるけど、日本ではほとんどの場合、第一(生理的欲求)、第二(安全欲求)の最低限満たされてるし、だから今日本で重要視されるのは承認欲求なんでしょう。

まさにうえの台詞の「以前はいつも不安だった。自分は誰で何になりたいのかと。」っていうのは第三(社会的欲求)第四(承認欲求)第五(自己実現欲求)とかに関連する、先進国民に顕著のもので、共感できる人も多いのではないでしょうか。

何かこのLUCYの主人公は、悟りを開いた人みたいな感じに僕には見えるんですが、社会的欲求とか承認欲求とかを超越したその姿にやはり僕は憧れを覚えますし、僕が仏教とかにコミットする理由は、人一倍こうした欲求が強いことを表しているのでしょう。

 

でも、悟りなんてほとんど開けないもの。苫米地氏も、空観の習得なんて、まーできないと言ってる。だから、僕のような凡夫はもがき続けるしかないし、あらゆる哲学や思想で武装しないと、立っていることもままならない。

 

じゃあ直截に第三第四の欲求を満たすべく、他者にもたれかかれば良いのかというと、中々うまくいかない。まあ、それができる人はすればいいと思うけど、相手だって誰かにもたれかかりたい。だから、互いにもたれ合うというのは、人間が心の安全を確保する上で重要な知恵なんだろう。

 

まーでも相手が人間だけに、そう簡単にはいかないわけです。だから喧嘩して仲直りしてをくりかえして、くっついたり離れたりするわけで、それが嫌なら第三第四の欲求を超越しなければならないんだろう。もちろん、その二つの間があってもいい。

何か自分は、欲求が強い分そういうアンコントローラブルでドロドロした関係になりやすいし、そのくせしてそういう関係からすぐ逃げ出したくなるので、超越の方を志向する傾向がある。

才能ないのにその方向を志向するというパラドックス。自分にないものに憧れる傾向。でも、こういう人は存外多いだろう。それに、苦手分野でも、自分が「これ!」と思った分野ならば、少しずつ克服しているような気がする時は、生き甲斐があるってもんで。

 

何というか、何の生きる目的もない、虚無の状況に打ち勝つことが、まさに生きる目的になってるという感じはある。まーとんでもないきつい状況でそれでも自己を肯定し続けた人は少数ながらいるわけで。強制収容所とか。第三第四どころか第一第二の欲求すら満たされない中で、(メタ的に)超然としていたり。(メタ的にといったのは、実際には取り乱したりしていても、メタレベルの自己はそんな自分を優しく見守っている、というような感覚。もちろん、そんなもの関係なく超然としている、まさしく超人のような人も奇跡的な確立で存在するかもしれない。)

精神科医斎藤環さんが言ってた「承認抜きで自己を全肯定せよ」って憧れちゃうなあ。もちろん、これは言外に「『承認抜きで自己を全肯定できない自分』も含めて、全肯定せよ」ってことも言ってるんでしょう。メタのメタのメタの更にメタまで自分を肯定する。そこまで行ったら、善悪も超えて、自己も他者も承認してあげる側に回ることもできるのかもしれない。遠い遠い。

 

とにかくこの映画を観て、どんな状況でも、まだまだ自分の中から掘り起こせる可能性はあるような気がした。「もう限界だ~。助けてくれー」とかいうには早すぎですな。いや、まあ言っても良いし言ってるんだけど、そこからまた戻って来いよという自分への戒め。

結局後から考えてみたら、そういうのって視野狭窄に陥っているだけだったりするから。ちょっと発想やモノの見方が変わったら、何てことなかったりするわけで。不安が理解の邪魔をするって台詞はホントいいな。

【なりすます】ために、自分や周囲の感情・感覚・状況を把握しようとする意識が働く。

 

ひとりでに瞑想に近いことができる。普通の生活において。

 

まー、ぼーっとする時間もあるんだろうが。

なぜ、【なりすまし】をしても大丈夫なのか?

換言すれば、【なりすまし】は虚しさを惹起しそうだが、なぜそうではないのか?

 

簡単である。そもそも虚しくない人生などないからである。この世の雑事は、言語的に構成された偽物であり、空虚だ(言語ゲーム)。その事実に気付いていないことこそ最も虚しいからである。

 

人間は一秒一秒死に向かって歩んでいる。これを止める術は全く無い。

パスカルが言うように、人間は死という壁の前に黒いカーテンをかけて死を見えなくし、黒いカーテンに向かって突進しているようなものなのだ。黒いカーテンの役割を果たすのは、表面的な人間関係・娯楽・仕事など様々な雑事だ。しかし、この黒いカーテン(雑事)の奥に「死」という壁があることを忘れてはならない。それは決して越えられない壁であることを忘れてはならない。カーテンの裏側を忘れてしまった者は、雑事(黒いカーテン)をマジガチで生きてしまう。

 

強烈なトラウマ体験は、「死」へと肉薄する経験だ。いや、実はカーテンの裏には、「死」だけでなく、「死」を含むあらゆる不吉が控えているのだ。強烈なトラウマ体験とは、それらを「見てしまった」体験だ。まあ、肉薄ぶりは人それぞれだろうが。黒いカーテンの奥にあるものを忘れたくても忘れられない呪いをかけられるのである。

 

かと言って、黒いカーテンを完全に、かつ恒常的に取っ払ってしまうと、いくら何でも発狂してしまう。バランスをとるための【なりすまし】なのだ。

 

黒いカーテン(雑事)は言語的に構成された虚しい疑似創作物。

その裏側の非言語の世界。カオス、呪われた部分(ジョルジュ・バタイユ

 

以前、空観に寄りすぎても仮観に寄りすぎても破滅に近づく、という話をした。

【なりすまし】は中観なのだ。真実を見つつ(空観)も、それに見入りすぎて発狂したり虚無主義に陥ったりしない。かといって黒いカーテン(仮観)で全て忘れ去ってしまい、真実から遠ざかるようなこともしない。

 

カーテンの裏を知っているからこそ、ベタにマジガチにこの社会を生きることもない。しかし、真実はカーテンの裏だと分かっているのだ。だからこそ、黒いカーテン(雑事)はマジガチに受け取らず、適当にいなせる、受け流せるのだ。これが、【なりすまし】だ。

虚の中に実を見、実の中に虚を見る。も大事だけど。

 

トラウマ体験だけでなく、悟りに近づくことによってカーテンの裏側に気付くこともできよう。何というか、前者が陰の道、後者が陽の道、という感じか。他にも方法はいろいろあるだろう。だが、辿り着く場所は同じカーテンの裏側だ。

 

まー、自分はもともと陰の道に近いが、陽の道も取り入れてバランスを取ろう。

 

【なりすまし】た欲望ではない、カーテンの裏の欲望に興味がある。

 

「自覚がなくとも、魂というものは本能的に愉悦を追い求める。喩えれば血の匂いを辿る獣のように、な。そういう心の動きは、興味、関心として表に表れる。

故に綺礼。お前が見聞きし理解した事柄を、お前の口から語らせたことには、既に充分な意味があるのだ。もっとも多くの言葉を尽くして語った部分が、つまりはお前の『興味』を惹きつけた出来事に他ならぬ。

とりわけ『愉悦』の源泉を探るとなれば、ヒトについて語らせるのが一番だ。人間という玩具、人生という物語・・・これに勝る娯楽はないからな」

・・・

「まず、お前が意図的に言葉を伏せた事柄については除外しよう。自覚のある関心は、ただの執着でしかない。お前の場合は、もっと無自覚な興味にこそ注目するべきだ。さてそうなると、残る四人のマスターのうち、お前が最も熱を込めて語った一人は誰だったか・・・?

fate/zero、英雄王の台詞(小説のほう))

 

うーむ、面白い。

【なりすまし】の受動性について、も少し詳しく。

 

「役柄」レベルでの【なりすまし】。

「感情」レベルでの【なりすまし】。

様々なレベルでの【なりすまし】があることには、前回少し触れた(なりすましの多重性)。

 

後者の場合で例をとる。

単純に、やる気を見せなければならない場面なのに、気後れしてやる気が出ないという「感情」を例にとる。

 

<なりすまし>は字義通り、自分の感情は他にあるとしてそれについては手放さずとも、やる気がある態度に<なりすます>。コントロール的である。

【なりすまし】は、「やる気を見せなければならないという状況」と「実際にはやる気がないという感情」を総合した結果として現に生み出されてしまった「行動や感覚や感情という結果(人それぞれ)」に準ずる。

別にそれに徹しようとするわけではないが、基本的に、仏教的な何も考えない(この「何も考えない」を説明するのが難しい。何というか、何も考えないように「考える」事とも違うので実際には考えてしまっていたりするのだが、別に良いのだ。その意味で「徹しようとするわけではない」のだ。「自分なりの自然体」くらいの言葉が適切か。ニュアンスちょっと違うけど言葉が無い。)態度で全てに臨む。

その結果として生まれた行動や現状や感覚に【なりすます】のだ。つまり、全く自分を縛る気が無い。「やる気見せねば!」と縛ることもないし「縛られてたまるか!」と縛ることもない。状況や感情をコントロールしようとせず、流れに任せ、出た結果に対して【なりすます】。

つまり、「音を操る」(バイオリン、ピアノなど)のではなく「音に乗る」(ドラム)というか。事前ではなく、事後というか。0.1秒前ではなく0.1秒後というか。非コントロール的なのだ。

 

<なりすまし>はコントロール。能動的被駆動性。西洋的意志。

【なりすまし】は非コントロール。受動的主体性。東洋的受動。(荘子

 

そう、瞑想だ。

瞑想においても、自分をコントロールしようとするのが<なりすまし>。

一方、あらゆる環境の結果「自然に(「無理に(不自然に)自然にする」ことではない。上記の「何も考えない」と似た構造)」生み出された身体・感情・感覚の反応を「コントロールしようとせず」「ただ観察する」のが本当の瞑想(空観)。更にもうひと手間加えて、その反応に「敢えて」【なりすます】のが【なりすまし】(中観)。「自然に」生み出されたものであるから、【なりすまし】ても負担はない。しかし、「敢えて」それに【なりすます】、つまりその演技を自覚するというのか・・・これが「主体性」に繋がる。

ちなみに、【なりすまし】が無いのが、現実世界をマジガチで生きてしまうことだ。(仮観をマジガチだと思ってしまうこと)

 

自分を使って実験し、<なりすまし>は負担を強いることは実証済みだ。一方【なりすまし】の実験期間に入っているが、既に効果はある。

効果はある、つまり、【なりすまし】は(メタ的な意味で)楽しいし(主体性は楽しいのだ)、また、(メタ的な意味で)生き抜けるのだ。

メタ的なので別に見た目てきに楽しそうだったり、生き抜けているように見えるわけではない。

むしろ、顔をしかめて苦しんでいても、失敗失態まみれの人生でも、その自分に【なりすまし】て自分に酔ってる人っているでしょ。あれに近い。

感情などというものは、ある意味所詮娯楽である。【なりすまし】て楽しむものなのだ。だから、人はわざわざ金を払って映画館に足を運び涙を流してすっきりしたりしているではないか。あれに近い。

 

だから、病人は病人に【なりすま】せばいい。ひきこもりはひきこもりに、犯罪者は犯罪者に【なりすま】せばいい。

その方がスッと抜け出すのだ。まーこの時にはもう抜け出す必要もあまり無くなっているのだが。

金持ちなら金持ちに、リア充ならリア充に【なりすま】せば良い。

そうすると傲りが原因で落ちぶれるということが起こりにくいのだ。まーこの時にはもう落ちぶれるのを避ける理由もあまり無くなっているのだが。

 

まー【なりすまし】の境地はグラデーションだ。大体の方向性は分かっているのだから、あとはのんびりやればいいのだ。

【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】。これはトラウマティックな体験を基盤とする。「過去」のトラウマ体験と「現在」の認知の歪み、その認知の歪みによって現出する地獄は、地続きである。

トラウマティックな体験の有無。悲惨さの強弱。

 

【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】は、トラウマ体験がない、もしくは体験の悲惨度が弱い一般人には持ちえないものである。

この悲惨なトラウマ体験ゆえの社会に対する妄想的な眼差しは、現実社会で生きていく上で障害にしかならないものなのか。そうではない状況が現出しつつある。つまり、社会も人々も錯乱を始めた時代においては、これを持っている者も(者こそ?)生き抜けると言えよう。いや、いつの時代もこの種の人間は、このように生き抜いてきたのではないか。

 

錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が生き残る、という逆説。

錯乱した社会では、もともと錯乱している人間が唯一まともさを保ち得るという逆説。

まあ、あくまで可能性。

 

このような人間はどのように生き抜くか?<なりすまし>である。なりすますことによってである。

<なりすまし>(宮台真司)≒<仮観>(苫米地英人)≒<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)≒運命愛(ニーチェ

これら四つは、例えばその規模や次元において異なるが、その構造はほぼ同一である。例えば、細胞の構造を人体の構造として見做すことができたり、宇宙の構造として見做すことができたり、逆に極小世界としての素粒子の世界の構造として見做すことができるのと同様にである。

 

宮台真司の<なりすまし>は誤解を呼ぶ。その本質が能動的であるかのような勘違いを惹起する。本来、その本質は受動性である。更に、<なりすまし>は「俗に言う」通過儀礼によって得られるものなので、それを経験できない人間はその恩恵に預かることができない。宮台の誤謬を補填する、もしくは宮台の誤謬を中和するカウンターパートとして働くのが、<仏から与えられた役柄>(ひろさちや)である。

ここでいう受動性とは何か。<なりすまし>の役柄を自ら選ぶことをしないということである。更に、<なりすまし>の役柄を自ら選ぶという能動性すら、受動性であると見切ることである。いや、これはそもそも事実ですらある。

<仏から与えられた役柄>は、その名の通り、受動的なものである。

この意味での【なりすまし】(自分)を実践すれば、神経症ラカン)が治まる。

思想的な実践は今この瞬間から可能であり、その実践の瞬間から実践(実験)結果が得られる。【なりすまし】が効果的なのは実証済みだ。<なりすまし>(宮台)は、強者の論理であって、トラウマ経験者などの弱者には実践可能性が低いことが多い。

 

①【なりすまし】を支えるのは【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】であり、②【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を支えるのは、悲惨なトラウマ体験である。

ここからは、【周囲から肯定されない、社会に対する妄想的な眼差し(認知の歪み)】を【妄想】と呼ぶ。

 

②に関して、なぜ悲惨なトラウマ体験が【妄想】を支えるのか。これは、問いを対偶にすると分かりやすい。つまり、なぜ悲惨なトラウマ体験がないと【妄想】が生まれないのか。

簡単である。悲惨なトラウマ体験がなければ、強迫的に妄想する理由がなく、妄想が強固なものになる(そして、妄想が【妄想】になる)理由がないからである。トラウマティックな現実からの逃避として、あるいは自身のトラウマティックな現実と平和に回っている社会との落差における認知的整合化のために為されるのが妄想である。そして、妄想を繰り返すことによって、磨き上げられたそれは【妄想】へと昇格するのだ。

 

そして、①に関わるが、【妄想】は所詮手段でしかあり得ない。②は①の準備段階である。

①を実践するにも、つまり、【なりすます】にも強固な地盤が必要なのである。他に強力な、揺るがぬ世界観(【妄想】)があるからこそ、【なりすまし】は可能となるのだ。子供たちが、家庭という強固な地盤があるからこそ、学校や諸々の活動での友人関係を築けるように。

【妄想】は各種精神障害と親和性が高い。統合失調症をうまく利用すれば、【妄想】の世界にもう一人の仲間、しかも絶対的な味方を作り出すことができる。(映画『BIG DRIVER』、漫画・映画『ヒメアノ~ル』)

 

以下、認知障害人格障害発達障害精神障害、【なりすまし】・【妄想】モチーフなどに主に関連する(ある種の人間が生き抜くのに利用できるであろう)映画・アニメを列記する。

 

映画

『on the high way』

ノーカントリー』(アントン・シガー)

『アンダーザスキン』

チェンジリング

『BIG DRIVER』

メメント

キャストアウェイ

『CURE』

『甘い鞭』

蛇イチゴ』(明智周治)

『EUREKA』

ハサミ男

『ヒメアノ~ル』(森田正一)

この世界の片隅に』(すずさん)

紀子の食卓

攻殻機動隊 Ghost in the Shell

 

アニメ

fate/zero』(言峰綺礼、英雄王)小説の方も

『バッカーノ』(クレア・スタンフィールド)

darker than black』(黒(ヘイ))

 

漫画

『MONSTER』(天馬賢三、ヨハン・リーベルト、ヴォルフガング・グリマー)

鋼の錬金術師』(ヴァン・ホーエンハイム、キング・ブラッドレイ、ゾルフ・J・キンブリー、傷の男(スカー)、フラスコの中の小人(ホムンクルス))

コジコジ』(コジコジ

『ヒメアノ~ル』(森田正一)

ホムンクルス

 

・『オープンハート』

宮台真司苫米地英人ひろさちや伊田広行坂口恭平中島義道仏教系 などの著書

 

その他

・100de名著 ニーチェツァラトゥストラ道元正法眼蔵カフカ「変身」、サルトル「嘔吐」、「荘子パスカル「パンセ」など

 

まー挙げだしたらキリが無い。

 

 

ところで、一般的に得られる通過儀礼の体験は、トラウマ体験者にとって得難いものだろうか。全く逆なのだ。トラウマ体験者にとっては、一般的な通過儀礼など、子供騙しに過ぎないレベルのものである。悲惨なトラウマは、その体験の濃密さからしても、それが社会的にブラックボックス化・タブー化されてしまうことによって生じる変性意識状態という意味においても、修羅場としてのレベルが違う。

よく、修羅場を「量」で測る人々が存在する。違う。修羅場の物差しは「量」ではなく「質」である。100回の中途半端な修羅場の体験は人生をさほど変えないが、1回の濃密な修羅場の体験は人生を変える。

 

もちろん、トラウマも体験すれば良いというものではない。それをサバイバル力に変えるには、それなりに考えなければならないし、精神や肉体の頑健さも必要かもしれない。本質的な思考を放棄してしまっては、どうにもならない。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

まとめ と 補足

・悲惨なトラウマ体験によって支えられた【妄想】によって支えられた【なりすまし】によって生き抜く、という方法がある。(万人向けではない。ごく少数者向け。)

・【なりすまし】は受動的なものである。あくまでそれは<世界>から与えられた役柄に自己を投影する形となる。その本質は自我の喪失である。それは、能動性ならぬ主体性を帯びる。受動性と相反するように見えて、これが実際に起こる。【妄想】によって支えられた【なりすまし】があれば、大丈夫である。

・もちろん、【なりすまし】は生きる上での一つの杖に過ぎず、他にも様々な杖を人間は使い分けて生きていく。だが、それすらも【なりすまし】と言える。(再帰性。【なりすまし】の次元の多重性。)この記事で述べたような人は、人と比べその杖が大量に必要であるというだけの話だ。杖が多い分歩くには不利だ。しかし、緊急時には杖が多い分強いかもしれない。

・【なりすまし】た世界における細々としたサバイバル技術は、【なりすまし】

ているからこそ、強迫神経症的に捉われずに習得できる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

いま、つとに思うこと、それは、幸せになるための方法論は、人間の本能に根差していないので薄弱なものに堕してしまいやすいということだ。

その思考が強力なものとなるのは、それが「生き残るためのもの」であるときだ。

そうであるとしても、頭の中にあるものを言語化すると、何と陳腐に感じられることだろう。

 

めんどくさいから分かり易さを犠牲にしたら、何て脈絡のない文章なのだろう。まー自分のための備忘録であるから。

 

さて、のんびりと生きていこう。