映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』

を観た。

 

久々に感情を揺さぶられた映画。

登場人物それぞれが色濃い個性を見せている。

 

まず、綾野剛演じる安室。

「誰かにもたれかかりたいとか、心が満たされないとか・・・気を付けた方がいいですよ」というセリフ。

どこまでも計算高く、人を陥れ、全てを割り切ることができる、果てしなくドライに見える男。本当にドライな人間は、変にドライに徹しようとしない。人を陥れる癖に、良心もある(子供たちと遊んだり)。だからこそ、逆に究極的にドライな人物が描き出されている。

かと思ったら、その彼がラストシーン手前で、反転する。素っ裸になって取り乱す。鑑賞者としては、驚かざるを得ない。どんな人間も、どんなに自分の中の人間性をうまく操っているつもりでも、それはある時、噴出する、ということだろうか。しかし、それが爽快である。

 

黒木華演じる主人公、皆川七海。どこまでも凡人。どこまでも受動的、依存的、安定志向。でもこれらの特徴が異常なまでに強い。その意味で、異常なくらい凡人という意味で、非凡人。しかし一方で、今の時代に最も多いであろうタイプ(かな?)と思うので、その意味で凡人。という絶妙な描かれ方をしているように思う。そしてその特性ゆえに、彼女はどんどんカオスに巻き込まれる。依存が更なる依存を呼び、いつの間にか泥沼にいる。

彼女の特性は、境遇や発育環境によるところが大きいと思われる。結婚式の際に彼女の両親が登場するが、異様に見えて、ある意味典型的な親だった。本人たちに悪気はないのだが、だからこそ子供は余計に束縛される。巣立った後も、その呪いはなかなか消えない。

 

しかし、七海は、とことんどん底まで堕ちることで変わっていく。そしてcocco演じる里中真白との出会いを通して、更に変化に拍車がかかる。真白は凡人と全く感覚が違う。そして、普通は見えない世界が見え、普通は見えない人の良心が見え、普通は聞こえない<世界>の音を聞く。世界やお金に対する彼女の考え方の反転は、普通は全く発想できない。鑑賞者はそれらに癒される。

しかし、否応なく、そのような人物は「安定」とは縁遠い存在になる。

 

映画の初めから、嘘の塊のような世界が描かれる。最もそれが顕著に表れるのは、結婚式のシーンだろう。そして、安室によって仕掛けらる罠。嘘に嘘が重ねられ、カオス。七海は自分の依拠する精神的なよりどころを加速度的に失っていく。帰る場所がなくなる。自分がどこにいるのかさえ、何者なのかさえ分からなくなる。人工的に作り上げたアイデンティティに、小指一本で何とかしがみついていたのに、その指すら外される。

そんな中でも人は立ち上がっていく。そして、真白との出会い。真白にとっては、世界に嘘も本当もないように見える。ただただ、自分の感覚に正直。その「存在自体」に癒される。影響を受け、生き方を変えられてしまう。安室すら、真白の影響から逃れられず、最後の取り乱しに至る。

 

真白の母親。血も涙もなく、人として完全に堕落してしまったかのような、人として絶望的に見える母親。彼女がラスト近くで取る行動は衝撃的だ。抑え込んでいたものが噴出してくる様子は圧巻だ。その様子に感染して、安室も抑えきれなくなる。最も凡庸だった七海は、真白から最も多くのものを受けとった者として、最も毅然と十全にその場を堪能し、安室や真白の母親とは違った次元で、その場に佇んでいるように見えた。

カオスや自己崩壊を経て真白に出会い、<世界>の溢れるばかりの「何か」に出会った七海は、全く違った存在として生まれ変わった。

 

人生において、このように自分を変えてしまうような出来事が起こるのだろうか。それを確かめるために生きているという面もある。まー何もなければ、「そんなものか」だし、何かあれば、言葉は要らず、その存在自体が変わるんだろう。あるいは、それは本当はもう既に起こっているのかもしれない。

もしくは、ただ生きているだけでも、日々の積み重ねで否応なく、生きることに対するそれなりの悟性は得られるものなのかもしれない。

東北食べる通信

友人に誘われて、掲題の講演を見に行ってきた。

前知識を敢えて入れずに行ったので、どんな話をするんだろうと思って臨んだ。

結論から言えば、行ってすごく良かったと思う。

 

まず、講演の内容が良かった。最近の僕の問題意識と完全に合致する。自分の身体性をどんどんと忘れていき(この間山で熱中症にかかったのも、これが原因の一部である気がする)、生ける屍のようになってきていること。僕だけでなく、全体的にそういう傾向であること。「生きている実感」が乏しい事。

現代の大量消費社会では、安い、早い、分かりやすい(一言で言え!)ということばかり重視される。そして、マーケットはそのニーズにどんどん答える。甘やかされた消費者は、何でも「思い通り」にならないと気が済まなくなってくる。そして、その思い通りを満たすために、更にマーケットに依存し、マーケットはその期待に更に応え、すると消費者は更に甘やかされ・・・という無限ループ。

これ、僕も感じている。仕事を休めば、自分は回復すると思っていた。しかし、そうではなかった。「生きている実感」が足りないのだ。それを埋め合わせるために、マーケットに依存する。その悪循環は、今、示した通りだ。

僕が特に反応した言葉は、「思い通り」という言葉だ。生きている実感がなく、マーケットに依存する。しかし、マーケットが本当の生きている実感を代替できるわけはないので、どこまでいっても満足がなく、マーケットに求めるものも際限がなくなる。つまり、マーケットに「思い通り」を求める。これが、僕の場合、人生全般に起こってしまっているような気がする。人生の中の思い通りにならない全てのことから、逃げようとしているのだ。そして、逃げようと思って逃げられるわけではなく、仕事を辞めてしばらくの間の万能感のようなものは消え、今は些細な「思い通りにならなさ」への免疫すら失われつつある気がする。

 

人間関係は自然と似て、「思い通り」にならない。僕には今、思い通りにならない、泥臭い人間関係というものが希薄だ。会社を休職してほとんど一人でいて、しばらく天国のような気分だったが、これは、苦しみが取り除かれた時の、名づけるなら「消極的幸福感」であって、自分の力で何かをしたり、人間関係を築き上げたりすることによって得られる「積極的幸福感」とは違う。

消極的幸福感は、薄れるのが早い。そして、会社を休んでしばらく経った今、気づきつつある。「自分には(積極的幸福感が)ほとんど何もない」と。会社にいたときはその「辛さ」によって、会社を休んでしばらくの間は「消極的幸福感」によって、覆い隠されていた「生きている実感、積極的幸福感の乏しさ」が、そろそろその姿を表し始めているように感じる。

積極的幸福感は、「思い通り」の世界とは違う。思い通りにならないことばかりだろう。しかし、今日の講演者(高橋博之さん)は、まさしく、思い通りにならない世界で、積極的幸福感を得ている人だ。彼は、農業とそれに携わる(内発的に、積極的幸福感を満たすような形で携わる)人々たちとの仕事の中で、積極的幸福感を得ている。自分も何らかの形で、この積極的幸福感を得たい。(ちなみに、積極的幸福感は、バブル期の日本を覆っていたような「ふわふわした幸せ感」とは違う。このふわふわした幸せ感はどちらかというと、「思い通り」を追及するものであり、どちらかというと消極的幸福感に近いと思う。)

 

高橋さんは提案していた。「農家になれ!漁師になれ!とは言いません。ただ、都市の中でも自然と接続する回路を持つのが大事です。」都会の便利さの中で失われた自然との回路を復活させることによって、生きている実感を取り戻し、自然という思い通りにならないものを取り戻す。

積極的幸福感を得る方法はこれだけではないが、僕もそうしたいと思った。だから、農業体験や漁師体験をしたいと思った。その前段階として、今日の懇親会には参加しておけばよかったと、今更ながら後悔している。

 

なぜ帰ってしまったのか?やはり、ここにも「思い通り」に慣れた人間の問題がある。思い通りに慣れた人間は、予定調和の世界に生きている。だから、ああいう、「自分で話しかけていかなければならず、しかもそれがうまくいくかも分からないし、どうなるかも分からない」という世界が苦手なのだ。

町起こし隊をしている男の子の話を聞きたかった。しかし、彼と話したり、他の人たちの談笑する中で、「何もない」自分は何を話せばいいのだろう。居場所がなくならないだろうか。そもそも、彼は誰かのために何かをしたいという「利他的内発性」に突き動かされて行動している。高橋さんもそうだ。それに対して自分は、自分一人の生というものに汲汲としている。明らかに、会話のバランスが取れなくなると予想してしまった。

頭の中には、利他性、ある種の積極性、自然、良き人間関係、身体性、などについての知識、またその重要性に関する情報が結構いっぱい詰まっている。しかし、頭の中だけの話であって、全く行動できていない。一言でいえば、行動している人たちを前に「引け目」を感じてしまったのだ。こういう風に感じる人は、基本的にあのような場にいられない。その意味で、あの場に残れるかどうかということが、そのまま、あの場にいてよいかどうかの最低足きりラインになっているように思う。

 

しかし、今になって思う。無理に話そうとする必要などなかったのだ。その場にいて、とにかく話を聞かせてもらうだけでも良かったと思う。カウンセラーの高石宏輔さんは「情報は、上からしか流してはいけない。下から流してはいけない。」と言っていた。この「上」「下」というのは、様々な意味での「レベル」の上下のことだろう。つまり、師匠に対して弟子が喋る必要は、(促されない限り)ない。できるのは、ただ話を聞き、その佇まいやオーラや話すことを吸収することだけだ。下から無理矢理上に流しても、戻ってくるだけだ。

僕も、その場にいて、とにかくいろいろな話を聞いていけばよかったのだ。質問と回答だけでも会話は成り立つ。何もない(「下」の)僕自身のことを話す必要など、ないのだ。

そういうある種の謙虚さを持って臨み、何か「これを話してみようかな」ということが浮かべば、その時初めて話せばいいのだ。多分、それが「良い会話」というものの一つだ。急かされて話すものではない。

 

今度このような場面に遭遇した時は、まず「一度立ち止まる」ことが必要だろうと思う。そしてやはり、このブログで何度も述べたように「観察する」のだ。自分の気持ちや行動を観察し、気づく。それにより、自然に体は最適な行動を起こす(もちろん、時には「えいっ」と飛び込んでみることも必要だろうが)。

 

講演の内容だけでなく、利他的なパワーを持つ人たちを間近に見ることによって出てきたこのような問題意識も、今日得ることができた重要なものだった。

 

*****************

 

ここから、少し上記の自分の書いたことへのカウンターパートを。

実際には、今見た自分の問題は、自分の中の原因だけではない。つまり、今、会社に属している自分であり、24日からもう会社にいくべきかどうか迷っている自分である、という自意識が、様々な行動にブレーキをかけているところもある。休むならば、また手続きも必要であり、農業体験や漁業体験などの遠出が制限されるかもしれない。現に働いている人は、もっとそうなのではないか。(もちろん、これも自分で乗り越えるべき問題であり、それを乗り越えられない自分の心に問題を帰属させることもできるが。)

つまり、僭越ながら食べる通信にお願いしたいのは、もっと「体験」の機会、もしくは情報を提供していただけるとありがたい、ということだ。高橋さんは、「共感と参加」ということを仰っていたが、あの場にいるくらいなのだから、ほとんどの人は共感はしているのではないか。後は、会社で働きながらも土日を使って、パッと体験する場が必要だと思う。

もちろん、これは僕の「甘え」であると言われればそれまでなのだが、正直言って、雑誌を買おうとは思えなかった。それよりも「体験」がしたいのだ。雑誌での「共感」があって「体験」に目が向かうのではなく、強烈な「体験」を通して意識が変わり、「共感」に繋がり、購読に至る、というほうが、人の気持ちの変化としては現実的である気がする。

体験にはコストがかかるからかもしれない。しかし、こちらとしては、雑誌よりも体験にお金を出したいと思った。

ものぐさ精神分析

を読み終わった。友人から借りていたもの。彼がブログで書いていた通り、とてつもなくおもしろかった。

f:id:nobunaga0101:20160807221805p:plain

結構同じテーマを繰り返している部分もあるが、逆にそれが理解を助けてくれた。

繰り返しがあるといっても、テーマは多岐に渡り、その全てを記憶しているわけではないが、一番目から鱗が落ちた内容を短く言葉にしておく。ただし、間違っているところもあると思う。

 

*****

動物は本能が現実に適合している。人間は本能と現実にずれがある。

この違いは、動物は生後間もなく現実に適応するのに対し、人間は現実に適応するまでに時間がかかるからだ。人間は生まれてすぐに現実に放り出されても生きていけない。よって、生まれてからかなり長い間、現実に触れず、母親の胎内にいたときに近い、全知全能の世界を生きる。この全知全能の世界をセットアップするのが、家族、特に母親の役目だ。

しかし、いつまでもそんなことをしているわけにはいかないので、少しずつ現実に直面していく。もしくは、母親が赤ちゃんに、現実への適応を促す。ここで、人間のフラストレーションが生まれる。人間は、全知全能の状態を知っているのに、大人になるともう、それは永久に失われてしまう。それを取り戻そうとして、恋愛や芸術などにその世界の成就を夢見る。しかし、それは幻想なので、ことごとく失敗する。

動物の本能は現実に適合しているので、必要以上のものを欲望しない。人間は本能が現実に適合していない奇形児なので、際限なく求める。この点において、人間は地球上の異端である。

つまり、人間は「病気」なのだ。ある意味、人間は他の動物に比べて優れているのではなく、上記の点で異常に劣っているからこそ、それを埋め合わせるために、異常に強くなってしまったとも言える。(そう考えると、いつ、強いが弱い、弱いが強いに、長所が短所、短所が長所に転換するか、分かったものじゃないですね)

人間は、特定の状況などの外的要因によって、精神病に陥るのではない。もともと生まれた時から精神病なのだ。それを何とか和らげるために「文化」が作られたのだ。

 

幼児期の全知全能の世界での「私的幻想」を各々が好き勝手に表出していては、社会は維持できない。社会的生物で、一人ひとりは非常に弱い人間にとって、それは死を意味する。そこで仕方なく、人間は、それぞれの私的幻想の一部を満たす「共同幻想」を作り上げた。しかし、共同幻想に吸い上げられなかった分の私的幻想が残る。これが「エス」になる。共同幻想の方は「自我」になる。しかし、エスは抑圧されているだけで、消えはしない。エスの表出としての芸術などが必要になる。

*****

書きだしたらきりがないので、このあたりにしておくが、明治維新によって日本人のエスが抑圧されたとか、だから日本人はみな分裂症気味だとか、他にも目から鱗はいっぱいあった。

 

僕としては、「受苦的疎外論」やハイデガーの「ここ」と「ここではないどこか」や「どこかにいけそうでどこにも行けない」や「<世界>と<社会>と<なりすまし>」、「空観、仮観、中観」などなど、色んな概念と響き合う内容だ。自分が「賢い人たちによると、世界ってこういうところなんじゃないの?」って思ってる世界観に、また一つ論拠が与えられたような気分だ。

 

安心したのは、人生において苦しんでいるのは僕だけではないこと。僕は「僕が僕だから」苦しんでいるのではなく、「僕が人間だから」苦しんでいるのだ、きっと。そう考えると、みんな五十歩百歩である。今自分が苦しんでいることがとんでもないことのように考えがちであるが、そもそもどんな人生でも苦しみがインストールされている(仏教一切皆苦と響き合いますね)のであって、そのような、ある意味「生ぬるい地獄」をみんな生きているのであって、自分も皆も大差はないように思える。この達観を常に持ちつつ、虚無主義に陥らなければ一番いいな。

しかし、僕が周りと一つ違うと思うのは、僕の場合は、苦しみの軌跡がはっきり分かってしまうこと。履歴書にはっきりと記載できてしまうような迷いの人生であることだ。この点において、やっぱり自分は一般的ではない気がする。

 

この点において、僕はいつも以下の記事を思い出すのだ。

↓映画評:クリント・イーストウッド監督『チェンジリング

イーストウッド作品『チェンジリング』は、「遅れ」が〈システム〉を凍りつかせると同時に、人生をも凍りつかせてしまうという事実を描く、目を背けたくなるような傑作である。 

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=734

 

ソクラテス的な<遅れ>が帰結する批判

(3ページ目)宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

僕も、自分が<遅れ>ていると感じるのだ。昔からずっと。

今日一日の移ろいを文章にしてみる

最近、朝と昼に体がだるい。そして眠い。ベッドでずーっと寝てたくなる。夕方くらいから元気が出てきて、活動を始める。

今日も朝10:00位に起きて、12時くらいに親子丼を作ってブランチとし、食ったら眠くなってまたベッドに寝そべる。うたた寝して14:00くらいに「また山に行こう!」と思い立って、なるかわ谷に原付で向かう。

山で僕を困らせていた虫は「メマトイ」という虫だった。その名の通り、目にまとわりついてくる虫。目の汚れやたんぱく源を食すために、目に寄って来る。何回も目に入ったが、目に入ると東洋眼中が寄生することが稀にあるということを知り、今回は、Amazonで勝った防虫ネットで顔を守って登った。非常に快適だったが、すごい暑い。

山の中での夕日の木漏れ日がきれかった。友人が、自然の中には人間には聞こえない音もあり、そういうのも含めて、自然の中にいると健康になる、という記事を紹介してくれたが、それはあると思う。

しかし、昨日は公園でランニングをして、今日は登山ということで、疲れていたのもあると思うが、熱中症にかかった。防虫ネットで暑かったのも原因だろう。

最初は、下りの際に、やたらと足がガクガク震えると思った(まあ、これは普通に起こる事だろう)。しかし、だんだんと下りのしんどさに足が耐えられなくなってきた。足を踏み出す時のしんどさが震えを通して、足から脚へ、そして胴体を登り、肺のあたりまで達する感じ。肺に達したときには、それは気持ち悪さに変わっている。それが一歩一歩ごとに起こるのだからたまらない。その気持ち悪さで吐きそうになり、その場に座り込んだ。

座り込んでみると、手足が痺れ、頭が朦朧としていることに気付いた。中学のバスケ部の時、熱中症にかかった時と同じ症状だ。とにかく動きたくない。そして気持ち悪い。でも、水は底をついていたので、この暑さの中ずっと休んでいるのは逆に危険かもしれない。500mlしか持ってこなかったのが、そもそもの間違いだった。早く下って水分補給せねば。

ということで下ってみても、10mと持たず倒れそうになる。それでも歯を食いしばって、死ぬ思いで下山するが、駄目だった。座っている事すらできず、その場に寝そべる。標高が高いほうが涼しいのだから、無理して下山すると余計にやばいかも、と言い訳して、しばらくそこで寝そべっていることにした。

すると、案外に風が吹いていて、10分くらいしてからまた下った。でも、すぐに辛くなってまた寝そべる。ということを何回も繰り返していた。傍から見たら奇妙にしか見えないだろうが、本人はかなり辛い。まあ、人っ子一人いなかったが。

体に虫がいっぱい登ってきたが、こういう時は、それどころじゃなく、全く気にならない。ただ、今の体調でマムシに噛まれたらかなりやばいと思った。けど、それすらどうでもよくなるほどしんどい。

原付まで辿り着いたときは、ふらふらだったが、とにかく安堵した。何とか歯を食いしばって下山できたのは、映画「野火」を思い出したからかもしれない。下山中、何度も挫けそうになったが、あの世界に比べれば何てことはない、と思って頑張った。座席下に入っていた飴玉を夢中で舐めた。

原付に乗り、ふらふらのまま近くのファミリーマートに入ろうとしたら、中からガシャンガシャンと音がする。朦朧としたまま入ると、男数人が取っ組み合っている。良く見ると取っ組み合っているのは2人(ヤンキーとおっちゃん)で、あとはそれを止めようとしている男たち(他のヤンキー達と店員)だった。こんなバッドタイミングがあるだろうか。

正直、この時の僕は、自分のことしか考えられなかった。「立っている事すらままならないのに、今巻き込まれたらやばい。とにかくまずは水分補給だ。」怒号が飛び交うのを無視して、いろはすピーチ味を手に取る。しかし、喧嘩の舞台はコンビニの前の駐車場に移り、店員は喧嘩の対応でレジにいない。僕は、いろはすを持ったまま、ふらふらと外に出て、「こんな時にすみませんが、買いたいんですけど・・・」と、警察に連絡している店員に言った。

しばらくして、憮然とした態度で店員はレジに立った。彼はかなり動揺していた。喧嘩している二人は、ヤンキーっぽい中学生か高校生と、おっちゃんだった。多分、このヤンキーっぽいのは、普段からこのコンビニでだべり、この店員もかなり迷惑しているのではないかと想像した。

僕はいろはすをその場で全て飲み干した。生き返るとはこのことだろうか。しばらく原付の上で休んでいたが、喧嘩は収まり、喧嘩していたヤンキーはでかい態度で椅子に座り何か叫んでいた。警察が来た。体調が少し戻ったので、家路についた。

 

今日のようなことがあると、本当に、健康に替えられるものは何もないと思う。五体満足で病気がないことに感謝。命あることに感謝。富士山の時のほうが命の危険を感じたので、より強烈だった。今回はなんだかんだで何とかなると思っていたから。

「自分は助かる」と思ったとき、とてつもない多幸感を感じた。もう何もいらないというような。世の中には、あえて危険なことをする人が結構いるが、この多幸感を本能的に求めているのかもしれない。特に、生きていることに実感が持てないような人々は、その傾向があるのではないか。

しかし、しばらく安全な環境に身を置いていると、多幸感は薄れ、また日常のつまらなさに悪態をつくようになってくる。自分が恵まれている事も忘れる。周りと比較し、「もっと!もっと!」と欲望に際限がなくなる。このような忘却癖は、本当にどうしようもない。だから、人は戦争も繰り返してしまうのだろう。平和の尊さを忘れてしまうから。

 

僕はそのことを分かっていたから、「今のこの多幸感もすぐに消え去るぞ」と警戒しておいた。それでも、今、日常に戻ってからのつまらなさは中々のものだ。

急に、多幸感の副作用のように、自分の人生に対する不安が噴出してくる。しかし、そんな時は、目を開いて、目の前の現実を見ることにしている。「目の前にパソコンがあって、コンポがあって、本があって、水があって・・・この部屋があって、外には世界が広がっていて、別に何事もなく時が流れている」という風に、前頭前野を介入させ、視野を広くし、目の前の今ここを見ると、不安の妄想のリアリティが減じてくる。このやり方は、最近覚えた。まあ、うまくいかないこともあるが。

 

そういえば、大量の蟻がどでかいミミズを運んでいるのに遭遇して、何か、これが普通なんだよなあ、と思った。

 

人生のゴール 内発性 新しいタイプの共同体の構築

休暇が続いている。何かしようと思うのだが、いざ休みになってみると、あまりやる気が起きない。これは、苫米地によると、人生における「ゴール」が明確でないからだ。ゴールが明確ならば、それに向かって動くことが喜びとなるので、動く。

しかし、最近になって思うのだが、自分はもしかして、家でゴロゴロしているのが「ゴール」なのではないか。僕は本当に怠け者で、全国の28歳の、28年間寝そべって過ごした時間をそれぞれ計算して上位から並べると、自分はかなりの上位に食い込むだろうと予想している(弁解になるが、親に特別に迷惑をかけているわけではない。働かない分、出費を抑えて暮らしてきた)。

しかし、本当の本当にゴロゴロして過ごすのがゴールなのかと聞かれれば、やはり違う。社会貢献をして、人々から感謝されるような、やり甲斐のある人生が送れればなあ、と本気で思うことはある。しかし、そのような願望は寝て起きると消えていることが多い。社会貢献よりも、「このまま寝ていたい。それさえできれば天国だわ。」と思ってしまうことが多い。

思うに、自分は「利他性という才能」が低いのだ。もちろん、人間誰しも基本的に自分が第一だが、特別に利他性が強い人々がいる。そのような利他性は、「内側から自然と湧き上がってくるもの(内発性)」であり、無理矢理に利他的になろうとしてもなれない。無理矢理に利他的になっても、それは結局、「利他的になりたい!」という自分の利己的な願いからくるものだったり、「社会的生物である人間は、利他的でないと生き辛い。だから、利他的になろう。」という、これまたやはり利己的な損得勘定に基づいていたりする。

もちろん、ここで強調しておきたいのは、そのように無理矢理に利他的になることを、僕は全く否定しないということだ。むしろ激しく肯定している。よく、ボランティアとかを偽善扱いしている人がいるが、僕からすれば、「やらない善より、やる偽善」だ。文句を言っているだけの人より、偽善であっても動いている人の方が何百倍も素晴らしいと思う。それが長続きしなくても、だ。

ただ、自分には、偽善の才能すらないようだ。内発的な利他性など望むべくもない。僕は、とにかく利他的であろうと思われる人の本を読んだり、その考えで自分を洗脳しようとした。けど、自分の利己性には全く敵わなかった。

この件に関して、今日、宮台真司が喋っている動画で、衝撃的な見解を聞いた。↓

www.youtube.com

www.youtube.com

 

*****

PART2の21:30くらいからのやり取りを引用します。

宮台(以下M)「ピアジェとかコールバーグのね、認知的発達理論の立場から言えば、意志を支える情動のベースっていうのは、臨界年齢、つまりクリティカルエイジが早いんですね。」

神保(以下J)「何歳なんですか?」

M「それは、いろんな局面があって一概には言えませんけれど、おそらく3歳~5歳の間だというふうに思いますね。どんなに遅くても思春期前期11,2歳ということですね。だから20歳にもなって、情動の、つまり内発性の枯渇した人間に、それをインストールすることはできない。」

J「ああそう。」

M「できません。できるかなー、とちょっと思ったんです。~略~・・・やってみたら、やっぱりできない。特に男についてはできない。男ってすごくディフェンスなんですよ。あの、プロテクティブ・・・」

J「女はいけそうなんですか?」

M「女の人の方が見込みがありますが、ただ時系列で言いますと女の人の劣化もすごい勢いで進んでいるので。で、今、僕は、戦略を切り替えて『親業教育』しかないと・・・(略)」

*****

つまり、親に特定のルールを守らせて、子供の内発性を滋養する、ということですね。もう13歳から上は内発的な利他性を滋養する見込みがないから。

僕は正直、「そ、そんなぁ~」と思った(笑)

でも、僕が様々に努力してきたにも関わらず、内発性を獲得するに至らなかった、という(暫定的な)結果を見るにつけ、これは当たっているだろうという実感がある。

一方で、だからといって完全にあきらめたわけでもない。

だって、この説はあくまで一般論であって、例外もあるはずだ。自分がその例外になりたいという想いは、甘いと思われるかもしれないが、そんなこと言っていたら何の希望も持てなくなる。V.E.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』にも書いていたが、「どんな人生の出来事があなたを待っているかは、誰にも分からない」のだから。

そもそも、宮台はその断定口調が特徴だが、こんなこと断定できるはずがない。対象としているのは人間、しかも人間の中でも特に複雑な『心』であって、「火に水をかければ火が消えます」というような単純な話ではないのだから。

ただ、宮台の言う傾向が非常に強固なものであるというのは、間違いないであろうが。

自分の場合、思春期までを考えたとき、確実に普通ではなかったと思う。ある意味、内発性を滋養される環境だったかもしれないと思うのだが・・・むしろ、臨界年齢を超えた中学・高校くらいからが、内発性に乏しい時代だったように思う。

まあ、このような楽観視はさておき(今の僕はとても自己防衛的(ディフェンシブ)な面が多い気がする)、これからどのように内発性を獲得し、内発的な人生を歩むかである。

 

なるべく、内発性に満ち満ちていて、エフィカシーが高い人物に多く会い、なるべく長く時間を共にすることだろう。しかし、僕は人間関係を始めるのも構築するのも得意ではない。まあ、できるだけやるしかない。

一人の間にできることは、とにかく感動したり情動を揺り動かされるようなものに多く触れることだろう。

革命的な解決策はなく、チビチビとやっていくしかない。僕の場合は、中々、無理矢理に利他的に行動することはできない。僕はかなり「無理がきかない」性格なのだ。まー、達成できなければ仕方ないとも思っている。死ぬことはない。

 

ちなみに、動画のPART1の30分過ぎ(くらいから?)、国家のような大きな単位を仲間と思えるような特別な時代はもう終わりつつある、というような話もしていた。「民主制は2万人以下でしか機能しない」とか。友人が、もっと少ない人数の共同体であるべきだ、みたいなこと言っていたのを思い出した。

「見ず知らずの人間(例えば、僕にとっての日本人全員)が『我々だと思える』っていうのは、とってもありそうもない奇跡なんですね。で、その奇跡をどうやったら維持することができるんだろうかっていう意識を19世紀の末にこの人達(デュルケームウェーバー、ジンメール)は既に持っていたんですね。」・・・天才だなあ。

 

PART2でも、

これから国に頼ることができなくなる(更なるグローバル化などによって、国の税収が減少。生活保護や年金もやばいんでしょうね)、という話をしていて、同じ友人が、国に自分の身を任せることの恐ろしさを強調し(水俣病など)、同じように年金や生活保護の打ち切りの可能性を話していたことを思い出した。国が剥き出しの個人を直接支える、というシステムはもう無理だ、ということだ。

そこで、アンソニーギデンズを引用して、「個人を支える社会を支える国家」というモデルしかない、という。つまり、僕たちは共同体を自ら構築していかなくてはならない、ということだろう。生き残るために。これも同じ友人が言ってた通り(彼はムラを作りたいといっていた。)。

希望に感じることも言っている。「必要なのは、物理的な相互扶助というよりも、知識社会化。頭の中での共同体が必要。物理的な距離は関係ない」みたいなこと。で、知識社会化の妨げになっているものは、「閉鎖性」である、と。「古いタイプの共同体では、知識社会化は無理。」と。

J「物理的に近い必要性はないのね?」

M「全然ない。インターネットの時代であるし、流動性もあるからね。村起こし隊みたたいなものが、NPOとして行って、助ける。今どんどんやってますよね。ピースボートからスピンアウトして、どんどんやっている人もいますけれども。」(さっき言った友人の友人が、村起こし隊をやっていた)

J「情報を共有していて、ある程度価値判断は共有できなきゃいけないってことですね。」

M「はい、しかも、ある種の内発性ですよね。『助けたい』っていうふうに、すごい思うような、知り合いネットワークのようなものも、なければ駄目なんですね。そうしないと、とてもじゃないけど続かない。」

 

PART2の25分過ぎくらいからは、ポケモンGOに関連して、拡張現実の話。これから社会はどんどんクソになるので、拡張現実に軸足を置く人間が増える、と。映画『コングレス未来学会議』のようになっていく、と。しかし、よくよく考えてみれば、官僚の支配ゲーム、一般人の恋愛ゲーム、資本主義の中の経済ゲーム・・・すべて拡張現実だ。最終的には、拡張現実内で「自意識」まで変えられる(映画『バニラスカイ』)。そういうレイヤーに生きるようになると、人々には、社会を回していく力はなくなる。そして、人間の感情が豊かだった時代のビッグデータ処理を行う機械が、人間の感情的な相手になるだろう、と。

 

まあとにかくネガティブな話のオンパレードだが、見方や使い方によってはポジティブになる。何より、「クソ社会への抗いは、マクロなレベルでは無理だが、ミクロな限られたレベルでは、まだまだ、永久にできるだろう。劣化集団から自分たちを守る。見えない形で。」ということだった。

 

ブディストかつ東大名誉教授(惑星科学)の松井孝典の話もおもしろかった。「全ては泡のようなものである。知的な文明も、消えては生まれる。そういうプロセスの中の一環だから、僕たちも消える。でも、消えると別のところで生まれてる。十分じゃないですか!(ニコニコ)」ということらしい。パンスペルミアの学説もおもしろかった。

 

この動画、マジでおもしろいのでオススメです。